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1. 鬼事


 ヘルサレムズ・ロッド。
 三年前、そこは紐育ニューヨークと呼ばれていた。しかし、それは最早遠い過去の話。

 異界と現世が交わる街。世界の隔離地帯。今後千年の世界の覇権を狙いあう場所──多種多様な二つ名は、きっとどれも過言ではないのだろう。

 ──荷物を引き摺って、航空機から降りる。動きにくい衣装という印象がある着物だが、慣れてしまえばどうということはない。

 この時点では、まだ私の知る世界と大差はなかった。
 しかし街へ出たら、すぐに私の中の常識が瓦解した。

 ハリウッドのSF映画でしか見ないような造形の生き物が、まるで人間みたいにうじゃうじゃいて、しかも平然と歩いている。異形は地上だけに止まらず、宙を滑空する百足のようなものが私の視界を横切っていった。その他大小様々な、およそ私の知る限りでない生き物が街中にいる。
“有り得ない”と“馬鹿馬鹿しい”と“信じられない”を足して三で割らなかったら、たぶんこんな光景になるのだろう。

 その中には、人間も少なからずいた。男も、女も、幼い子供も。それが私の頭がおかしくなっただけという結論を許さず、淡々と現実を突きつけてきた。

 ……こんな、混沌と百鬼夜行と歩行者天国を煮詰めたような街でも、私のような東洋系の顔立ちは珍しいようだった。異形からも人間からも、大道芸人でも眺めるような視線が向けられている。私は着物を着ているから、尚更目立つのだろう。非常に不愉快だが。

 私とて、好きでこんな面倒極まりない衣装を着ているわけじゃない。仕方なく──本当に仕方なく、本当の本当に訳あって仕方なく、着用しているのだ。
 だが、それを通りかかる一人一人に説明するわけにもいかない。

 溜め息一つ。
 視線を気にしているのがバレぬよう、精一杯堂々と足を踏み出した。

 こんなことで怖じ気づいているわけにはいかない。
 私には果たすべき使命があるのだから。












「──この東洋人が、何か?」



 スティーブン・A・スターフェイズは、珈琲を飲みながら首を傾げた。

 差し出された写真には、黒髪黒目の少女が写っていた。まだ若いだろうに、冷えきった表情で明後日の方向を睨んでいる。盗撮なのは明白だった。

 その写真を胸ポケットをしまい直しつつ、クラウス・V・ラインヘルツは小さく頷いた。



「彼女の名は小兎。日本でも有数の名家の出だ。つい先程、彼女がHLに足を踏み入れたとの情報があった」

「それは解った。で、どうしてライブラに彼女の情報が? とてもそうは見えなかったけど、危険な人物なのかい?」

「いや、彼女の実家から直々の要請なのだ。即刻連れ戻してほしい、と」

「連れ戻す?」



 思わず反復したスティーブンに、クラウスは真面目な表情で頷いた。

 あまりのくだらなさにしばらく二の句が継げそうになかったが、スティーブンは何とか言葉を捻り出す。



「……クラウス。その実家がライブラのスポンサーってわけでもないんだろう? なら、僕らが関わる義理は限りなく薄い。
 ただの一過性の家出だよ、その年頃の少女にはよくあることだ。ほっとけ」

「……だが、彼女の実家はかなり困窮しているようで……」



 おろおろと手を左右に振るクラウスの様子を見て、ようやくスティーブンは得心がいった。



「……あぁ。ラインヘルツ家きみの実家と関わりがあるのか」



 そうと解れば、聞かなかったことにするわけにはいかない。クラウスの立場にも関わってくる問題だ。

 令嬢が興味本意でHLに来たのだろう。そして過保護なその生家は、HLに三男がいるラインヘルツ家を頼ってきた──大方、筋書きはそんなところだ。

 スティーブンは珈琲の入ったカップを机上に置いて、小さく微笑んだ。



「なら、仕方ないな。さっさとお転婆姫様を探し出して、桐箱に詰めて送り返すとしよう」












 腹が空いて仕方がない。日本から脱出して以来丸四日、水しか口にしていないのだ。いくら逃げ切る為とはいえ、ロシアまで行ったのはやりすぎだったか。

 とはいえ、今更くよくよ悩んでも仕方がない。結果よければ全てよし。いまは腹ごなしが最優先だ。

 直感と第一印象で、人間でも食べられそうな食事所を選んだ。
 そこの店員は幸い人間で、少しだけ安心した。HLで初めての食事が異形相手の注文だったら、緊張どころの話ではない。最悪吐いただろう。

 適当にバーガーを頼み、金を払って席につく。左隣を初めに、周囲には何人か(数え方は“人”でいいのだろうか)異形がいて、私を物珍しそうに視線を向けてきたけれど、それもすぐに逸れていった。

 右隣の席は、人間だった。
 私より少しばかり上だろう外見年齢。銀髪をなびかせる褐色の青年は、見るからに育ちが良くなさそうだった。有り体に言えば、バーガーの食べ方が汚い。

 ……育ちが良くなくても、もう少し綺麗に食べられる筈だが。私もヒトのことを言えるほど育ちはよくないが、あそこまで汚い食べ方じゃない。

 目を逸らす。
 異形たちを眺めるより、人間の方が精神的にいいかと思ったが、これでは大差ない。HLに早く慣れる為という名目を使うなら、まだ異形たちの方がマシに思えるぐらいだ。

 私の頼んだバーガーが出てきたとき、青年はかかってきた電話を取った。



「あ? 何すか?」



 バーガーにかじりつく。着物が汚れないようにとか、そういう配慮をする余裕もない。いまは腹ごなしが最優先なのだ。



「は? ヒトサガシ? 何で俺がそんなことしなくちゃいけないんすか?」



 仕事に貴賤はないというのに。この男、汚いのは食べ方だけではないらしい。

 それを電話の相手にも咎められたのか、青年の声に不満そうな響きが混ざった。



「……へーへー、やります、やりますよ。で、そいつの特徴は?」



 バーガーはあっという間に私の腹に収まった。こんな草野アナが司会を務めるクイズ番組ならスペシャル二時間枠で特集されていそうな街でも、バーガーの味は案外普通だった。まあ、泥水とカビたパンで生き延びていたときを思えば、何だってご馳走だ。



「女。黒髪黒目。アジア系。気の強そうな顔。十代前半。……どこにでもいそうっすね」



 青年の呟きに、私は胸中で同意した。私は十代前半ではないから当てはまらないが、母国にはその条件に当てはまる人間は腐るほどいたものだ。



「え? 不確定事項だけど、たぶんキモノ? そんな分かりやすい格好してるわけ────」



 青年の声が不自然に途切れた。直後、痛いほどの視線が右隣から突き刺さる。

 ……見ないぞ、絶対に見ないぞ。

 そんな私の決心を一蹴するように、右隣から褐色の手が伸びてきた。手は私の頬を鷲掴みにし、半ば無理矢理顔を青年の方へ向かせた。

 目を見開いた褐色の青年が、遠慮もなくジロジロと私を検分する。いま私はきっとひどく不様な顔をしているから、そんなにじっくり見ないでほしい。

 いきなりのことで文句も言えず固まっていると、青年は電話相手に語りかける。



「……そいつ、右の目尻にホクロがあったりします?」



 超近距離だったせいで、電話相手の声は私にも聞こえた。

『──あるぞ』と。

 私の頬から手を離し、にんまりと青年が笑う。無邪気な子供めいた残酷な笑みは、私の背筋に特大の氷を流し込んだ。

 そう簡単には使わないと──決めていたのに!



「そいつ、見つけ──」

「──【閉口】!」



 途端、青年はぴしゃりと口を閉じた。両手を使って口を開けようとするが、唇が糊付けされたように開く気配はない。

 その現象は、青年だけではなかった。店中の人間も異形も──私の声が届いた範囲は全て、例外なく閉口していた。

 あちこちで唸り声だけが聞こえてくる。その原因を当人以外に把握している唯一の青年は、急いで此方に手を伸ばしてきた──が、それよりも私が彼の足を払う方が早い。

 椅子や机を巻き込んで豪快にスッ転んだ青年を飛び越えて、急いで店を出た。料金が前払い制で本当によかった。食い逃げにならずに済んだ。

 街中を走って、走って、走って──足腰が生まれたての小鹿ぐらいに震えるようになって、ようやく私は足を止めた。路地裏の壁に背を任せ、ずるずると座り込む。

 ──あいつらだ。
 私を捕まえる為に、こんな所まで手を伸ばしたのか。

 その執念にはほとほと呆れる。
 逃げ出した籠の鳥は、二度と同じ籠には戻らないというのに。

 そんなにも──惜しいか。
 鬼の力が──異形の能力ちからが。

 ギリッと舌を強く噛んだ。痛いだけだった。事態は何も好転しない。




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