5. 入手困難体温、三八度。 軽い吐き気、及び酷い頭痛。たまに咳。 「うう……」 ──完全なる風邪だ。 認めたくない事実を再認して、枕に顔を埋めた。 スティーブンが小兎の家を訪ねたのは、夕方の話だ。 珍しくライブラに顔を出さない小兎を不思議に思い、連絡を取ろうとしたら彼女の連絡先を知らなかった事実に気付いた。その事実に若干苛立ちながらも、スティーブンはクラウスから小兎の連絡先を入手することに成功。しかしスティーブンからの電話には一切出なかったくせに、クラウスからの電話にはワンコールで応じた小兎の住所を彼に聞き出してもらい、そのついでに風邪だということを知った。 ──大体、前から気にくわなかったのだ。何故こんなにも自分だけが避けられなければならない。他のライブラのメンバ────とりわけクラウスを、あんなに慕っているくせに。 大した心当たりもない現状が、また苛立ちに拍車をかける。スティーブンの何かが気に食わないなら、そう指摘してくれればこうも気にならないのに──。 車を降り、小兎が借りているらしい安アパートへと足を踏み入れる。家賃が低額だろうことは、外観の薄汚さから知れた。一介の令嬢ならおよそ耐えられない環境であろう──そう考えてから、小兎の生まれ育った環境を思い出して、苦い気持ちになる。 一階の最奥が小兎の部屋だ。扉を二回ノックして、声をかける。 「小兎、いるかい?」 返事がない。 気配はないが、電気メーターは回っている。居留守か、と判断して、スティーブンはドアノブを回した。容易くドアが開く。 「……鍵くらいかけろよ」 玄関でそう声をかけても、やはり返事はなかった。部屋に上がる。短い廊下を抜ければ、手狭なワンルームの床に沈む小兎の姿が目に入った。 「っ小兎!?」 駆け寄って抱き起こすと、浅いながらも呼吸はしていた。スティーブンが胸を撫で下ろした直後、小兎がうっすらと目を開ける。 「──……とう、さ……?」 そう呟いた直後、小兎はカッと目を見開いた。スティーブンの胸を押して距離を取り、動転した様子で口を開く。 「す、すすすすスティーブン!? ……ぁ」 ぐらりと身を崩した小兎を、仕方なさそうにスティーブンが支える。 「はしゃぐなよ。風邪なんだろう?」 「……どうして、貴方が此処に?」 「僕からの電話には出ないくせにクラウスからの電話には出る仲間が風邪だって知ったんでね」 ……いやそのそれは、と言い訳を始めようとした小兎を抱えて、ベッドに横たえる。脇にあった椅子を引き寄せて、スティーブンはそこに腰を下ろした。 マットの固い、寝心地の悪そうなベッドだな、とスティーブンは思う。これでは床に寝ているのと大差ないのではないか。 「どうしてベッドがあるのに床に寝てたんだ?」 「……水を飲もうと思ってベッドから出たら、意識が飛びました」 「……おい、容態は?」 「…………さっき、四〇度を越えました」 「重症じゃないか」 「……大丈夫です、四三度までなら耐えられるので……あぁ、いまお茶でも……」 「そんなものいいから!」 起き上がろうとした小兎の肩をベッドに縫い付けた。「……すみません」という小さな声が聞こえてきて、スティーブンは溜め息をついた。 「……こんな所に来て、大丈夫なんですか」 「今日は大した事件もなかったんだよ」 「いえ、書類とか」 「……人間、休憩も大事だと思わないか」 「そんなことだろうとは思いました……」 まあいいですけど、と小兎が言葉と一緒に熱っぽい吐息を漏らした。 ──知らず、生唾を飲んだ。 薄い部屋着だからか、身体のラインがよく解る。 時折痙攣するようにびくつく指先は、雪めいた色をしていた。白いな、と指から腕へ、腕から首へと視線を辿らせていったら、潤んだ目で睨まれた。 「……そんなにじろじろ見ないでください。此方のヒトと比べられているようで、不愉快です」 実際ちょっと比べていたこともあって、スティーブンは内心動揺した。これが女の勘というやつか。 「見てないよ」 布団を掛けてやれば、小兎の身体が見えなくなる。それが少しだけ惜しいと思った。 「食事は?」 「……食欲がなくて」 「おいおい、治るものも治らなくなるぞ」はたと気付く。「……まさか、薬も?」 小兎は無言で壁の方へ寝返りを打った。そのまさからしい。 「……寝れば治ります」 子供みたいな言い分に、怒りを通り越して呆れた。 まずは流動食を食わせて、それから薬を飲ませた。どちらもスティーブンが買ってきたもので、小兎は「そんなもの受け取れない」と当初は拒んだが「口移しがいい?」と彼がにっこり微笑むと、音速猿並の速度で奪い取った。およそ病人の動きではなかった。 「小兎は僕のことが嫌いかい?」 ベッド脇の椅子に座って足を組み、小兎を眺めながら問いかけた。 小兎は壁の方を向いたまま、スティーブンを見ない。 「……嫌いでは──ありません。むしろ感謝しています。貴方たちには、とても」 「なら、どうして僕を避ける?」 「…………」小兎は言葉を選んでいるようだった。「……貴方が──」 「ん?」 「──貴方の空気は、あの男によく似ています」 あの男──小兎がそう呼ぶ人物など、一人しかいない。彼女の実父だ。 「……貴方が悪いわけじゃないんです。私がただ、似ているという固定観念を越えられないだけで……」 すみません、と小兎の謝罪がポツリと落ちた。 そういう理由なら、スティーブンに心当たりがないのは当然だった。およそ謂れのないことで避けられていたのだから。 それで、部屋に入ってきたスティーブンを見たときの呟きにも合点がいった。熱で 「僕は、きみの父親じゃないよ。共通してるのは性別ぐらいのもんだが、それだって人類の大半は共通項だ」 「……頭では、理解しているんです」小兎から乾いた笑い声がした。「……笑ってくださっていいですよ。とっくに成人してるくせに、子供みたいなことを言っているんですから」 「──ちょっと待て」 聞き逃せない言葉をさらりと言われたような気がして、スティーブンは咄嗟に片手を突き出した。 「……何ですか?」 「いま、なんて、いった?」 「笑ってくださっていいですよ」 「そのあと」 「? とっくに成人してるくせに──」 「──それ!」 ビシリと指差すと、それが見えたわけではないだろうに小兎が肩を震わせた。寝返りを打ち、スティーブンの方を向く。 唖然とした顔をしているんだろうな──スティーブンの脳内では、冷静な自己分析が下されていた。 「……きみ、成人、してるのか」 「えぇ。もう二十歳はとうに越えてますけど」 「な────」 ──恐るべし、東洋の神秘! 確かに日本人──というかアジア系は、欧米では幼く見えると聞いていたが──誇大表現ではなく事実だったとは。 ──え? 二十代? 「……エイプリルフールは今日じゃないよ」 「いや嘘じゃないです」 小兎は、何を今更、という顔をしていた。──いやいや、きみは だが、頭のどこかで納得している己もいた。この無意識の色香は ──気付けば、スティーブンは小兎の顔の横に手を付いていた。小兎に覆い被さるような体勢になると、彼女の顔がよく見える。 「……スティーブン?」 頬には淡く紅が差していた。それが肌の白さを一層強調しているように思えて、指が吸い寄せられる。 潤んだ目も、度々漏らされる熱っぽい吐息も、全てが自分を誘惑しているように思えた。 ──そういえば日本人は抱いたことがなかった、と男はふと思う。 「小兎」 「……はい?」 「父親なら、こんなことをしないだろう」 それは、スティーブンには慣れきった仕草だった。役割上、好いてもいない女と関係を持つことも珍しくない彼には、さりげなく行うことなど造作もない。 せめてもの礼儀かと思って、目は閉じた。普段ならそんなことは気にしないが、いまは任務でも何でもないから──そうした。 柔らかい、と思った。仄かに温かいそれをもっと味わいたくなって、唇を開けた。舌を差し入れる──直前で、凄まじい衝撃がスティーブンを襲った。思わず小兎の上に倒れ込む。 「お、もぃっ!」 スティーブンは頭部の痛みを堪えつつ、小兎を窺う。彼女もまた頭を手で押さえ、じたばたと身を捩っていた。 ──この女、あの雰囲気で頭突きしてきやがった。違うだろう、どう考えてもそんな流れじゃなかっただろう! 「……っおまえ、何をする!?」 「それは此方の台詞ですよ! 何するんですかいきなり!」 不測の事態で、スティーブンの頭が急速に冷めていった。──何でこんな女に欲情していたのか、先刻までの自分が理解できない。 「痛いだろうが、この石頭!」 「何でもいいから、早く退いてくださいよ! 重いんですよ!」 「おまえよりは軽い!」 「んなっ……!? わ、私、クラウスさんには心配されたぐらいの体重ですからね!?」 「クラウスからみれば、人類の大半はその領域だ!」 ──以後、そういう雰囲気にならなかったのは言うまでもない。 「あれ。スティーブンさん、体調悪そうですね。大丈夫ですか?」 「……あぁ。平気だよ、少年。(あの女、風邪移しやがった……!)」 | 戻る |