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9. 嵐


 平和なときがあった。

 誰もが笑っていた。
 父も母も弟も、自分も。

 その平穏がいつか壊れるものだと知ったのは、壊れてからだった。

 張り詰めた糸の先にぶら下げられているような不安定なものだと、自分はそのときが来るまで解ろうともしなかったのだ。










 ベッドで眠る彼の寝顔は子供のそれでしかなくて、ぎりぎりと胸を締め付けられるような痛みが私を苦しめた。

 一晩幾ら、の安宿。
 もし迷惑をかけたらと思えば、知り合いと顔を合わせるような宿は使えない。彼が他人に関わることを極端に嫌がる反応を見せたこともあった。

 携帯電話は彼に言われた通り、捨てた。若干の抵抗はなくもなかったが、彼からの強い懇願もあった。私自身、この件に他人を巻き込みたくない。

 私はベッドに凭れるようにして、床に座り込んでいた。片膝を抱え込み、窓から差し込む月光の下で思考に耽る。

 規則的な寝息を立てる少年を一瞥する。
 白髪に赤い目、けれど東洋系の顔の造り。何より、本能とも言うべき私の深い部分が少年に対して強烈な親近感を抱いていて。



「……本当に……弟、なんだろうな……」



 私の、弟。
 私の知らない、弟。

 腹の底でぐるぐると渦巻くのは、あの男に対する生理的嫌悪感と圧倒的な憎悪。それらは混ざり、溶けて、私に断続的な頭痛を催す。



          『ボクたち以外も、不幸にしたいの』



 彼の言葉が耳にこびりついて、離れない。目を閉じて耳を塞いで考えまいとしても、脳内でずっと反響している。

 ──私がいない方が、弟妹たちの生存率は上がると思っていた。愚かだった。元凶を排除しない限り、彼らの安全は保証されないのに。何も変わらないのに。

 私は、ただ逃げ出しただけなのか。

 認めたくなくて、拳をきつく握りしめる。










 月光に照らされて、それはニタリと笑った。目元は仮面のようなものに隠されて見えないが、全身から放つ不気味な威圧感は隠しきれていない。

 堕落王フェムト。
 何でも起こるHLでも警戒される、13王の一人。

 一説によれば血界の眷族であるとも言われるが、真偽の程は定かではない。
 第一、そんなことはどうでもいいことである。

 自分はただ、商談をしに来ただけなのだから。



「面白そうなことを考える人間もいたもんだ」



 フェムトが手にしていた杖でこつこつと地面を叩いた。



「知っているだろうが、僕は退屈や凡俗が嫌いでね。きみの話を呑むのは構わないが、それなりの見返りが欲しい。それも、そんじょそこらのつまらないものじゃないやつだ」

「でしたら、きっとお気に召してもらえると思いますよ」



 男の返答に、フェムトは「ほう」と口を丸くした。対し、男はにこやかな笑みを浮かべてみせる。

 その笑みは、どこか小兎に似ていた。



「アレが手に入り次第、世界を巻き込むつもりですので」










 いつも通りバイトを終えてからライブラに顔を出すと、何となく違和感があった。首を捻るが、その正体までは辿り着けない。

 レオナルド・ウォッチは気のせいだろうと思うことにして、違和感の正体を突き止める作業を放棄した。



「おはようございまーす。……何すか、このザップさんめいた物体は」

「いつも通りクラウスに挑んで返り討ちにあった馬鹿だよ」



 なるほど、と教えてくれたスティーブンに声を返す。

 床に転がっていたザップを跨いで、レオナルドはソファーに腰を下ろす。持参したハンバーガーの袋を開けると、食欲を刺激する香りが彼の鼻を擽った。

 位置的にザップが視界に入るため、彼の側頭部に黒い靴がめり込む場面をレオナルドはしっかりと目撃してしまった。



「あ」

「お疲れ様です。……あ、レオ。またハンバーガー? 栄養偏るよ」



 常識人めいたことを言いながらも、チェインの足はザップの頭を磨り潰そうとするのを止めない。足蹴にされているザップは「ぎぎぎぎぎ」と異界人みたいな声を出していた。

 一頻り踏んで満足したのか、チェインはザップの上から降りて、握りしめていた書類をスティーブンに渡した。それからソファーの背凭れに体重を預け、レオナルドの後ろから覗き込んでくる。



「それ、そんなにおいしい?」

「まあ、そうですね。おいしいかおいしくないかと言われたら」

「ふーん……」



 レオナルドがハンバーガーにかぶりつこうとしたときだ。

 部屋の扉が開き、ツェッドが入ってきた。「おはようございます」ザップと違い、礼儀正しい挨拶を口にしながら足を踏み入れた彼は、きょろきょろと室内を見回した。



「どうかしたか?」

「……いや、何か物足らないような気がして……」

「あ、ですよね! 俺もなんかしました!」



 珈琲を立ち飲みしていたスティーブンが、ツェッドと彼に同調するレオナルドを不思議そうに見比べる。

 と、そこに口を挟んだのはチェインだった。



「小兎じゃないの。朝から見かけてないし」



 あ、という納得の呟きが男達から一斉に漏れた。

 小兎は副業を持っていないから、暇さえあれば此処にいる。時折クラウスの趣味やザップたちのランチに付き合うことはあれど、一日の大半はこのソファーに座っているのだ。

 ふいに、レオナルドは違和感の正体に突き当たった。挨拶の返事だ。「おはよう」と言う、小兎が返してくれる声がなかった。



「……そういえば、昨日小兎に任せた仕事どうなったんだろうな……」



 ぽつりと呟いてから、スティーブンは珈琲のカップを机に置いた。懐から携帯電話を取り出し、耳に当てながら部屋を出ていく。

 レオナルドはハンバーガーに口をつけながら、得心の頷きをする。



「それっすね。小兎さんと会ってないんですよ、今日」

「大体毎日会ってるから、会わないとなんか落ち着かないよね」

「……しかし、珍しいですね。何かあったんでしょうか」



 ツェッドが深刻そうな声音になったため、レオナルドの考えも自然そちらへ引っ張られそうになる。

 その首根っこを引っ掴んで戻したのは、いつの間にか復活していた男だった。



「馬鹿か、魚類。仕事場で同僚の女と会わない理由なんて、ちょっと考えたら解るだろーが」



 さも当然のようにレオナルドからハンバーガーを奪って食べ出したザップは、びしりとツェッドを指差した。



「男に決まってんだろ」










 負荷を考えたら、怪舌よりも自分の肉体を行使する方に天秤が傾いた。総計とはいえ、何百人という追手と戦っているのだ。



「っ邪魔!」



 路地の脇に転がっていたゴミ箱を投げてやる。視界を奪われて、相手は一瞬の隙ができた。その隙に肉薄し、横腹に回し蹴りを食らわせる。膝を折った相手の頭に、思いきり膝を叩き込んだ。

 鈍い音がした。たぶん鼻が折れイっただろう。
 だとしたらすぐには起き上がってこない。

 息を整えながら、振り返った。建物の陰に隠れていた少年の手を取り、走り出す。



「行こう」

「……ねえ、どこに行くつもりなの? 逃げ場なんてないのに」

「……なくても、行かなきゃ。捕まったらきっと酷い目に遭わされる」

「逃げてどうするの」

「…………」



 解らない。そう口にしかけて、寸前で喉の奥に押し込んだ。

 この子を不安がらせてはいけない。私はこの子を守らなくちゃいけないから。

 ──ちりちりと、頭の奥で何かが焼けていくような感覚がある。
 連戦に次ぐ連戦で、怪舌の負荷が徐々に増してきたのだ。



「……大丈夫だよ」



 少年に語りかけたのか。
 あるいは、自分に言い聞かせたのか。

 今はただ逃げるしかなかった。








 地獄を見た。
 地獄を見た。
 地獄を見た。

 地獄を見て、しまった。

 つい先程まで談笑していた友人たちが、羽虫みたいに容易く死んでいった。あまりにも簡単に、馬鹿みたいに、嘘みたいに。

 友人たちが死んでいく中で、自分は無様にも生にしがみついた。ただ生きたいと思った。それ以外を考えた奴から死んでいくと、肌で理解していた。

 やがて、死の嵐は去る。

 だが、部隊の中で生き残ったのが己だけという事実は悪夢でしかなかった。

 帰還命令は、なかった。当然だ。司令部はこの部隊が全滅したと思っただろう。全滅した部隊に命令を下す必要はない。

 替えの衣服はなかった。
 二週間もすれば、フケや垢なんて気にならなくなった。

 水もなかった。
 地べたに這いつくばり、泥水を啜った。その後は必ず腹を下した。時折降る雨はまさしく天の恵みだった。

 食糧なんてなかった。
 傷む前に、死体を煮て食べた。うまいともまずいとも思えなかった。ただ涙が溢れて止まらなかった。

 国の為だと言われ、戦った。だが結果はどうだ。無様な敗北を喫し、名誉の死すらできず、畜生にも劣る姿で生にしがみついている。

 こんなものなのか。
 俺たちの人生は、こんなものなのか。
 こんな風に、何も残せず、終わってしまうのか。

 嫌だ。

 友人たちの名は、きっとどこにも残るまい。国の為に、家族の為に、友の為に命を散らした勇敢な者たちなのに。

 残るべき者たちなのに。

 ──いつしか、戦いは終わったらしい。本国から遠く離れた場所にいた自分にその報が届いたとき、己の内側で意思が形を成していくのが解った。

 彼らの名を、自分は決して忘れない。自分を生かしてくれた勇敢な者たちの顔と名を、生涯忘れない。

 だが自分以外は、彼らのことを忘れてしまうだろう。それでは駄目だ。彼らが何も残せないなど、あってはならない。

 ならば。
 彼らの存在が、行為が、生きざまが、無駄ではなかったことにしよう。

 敗戦国となった本国に、すぐさま戦いに挑める士気はあるまい。どんな戦いでも勝てると思うような、そんな兵器を用意しなくてはならない。

 もう一度、戦いを起こそう。世界を巻き込む、大きな戦いを。

 それに勝ったとき、ようやく念願は果たせる。
 彼らの死は無駄ではなかったと証明できるのだ。








 翌日も小兎の姿はなかった。

 あのランチが一日で唯一の楽しみみたいな──あの暇を持て余し過ぎて一キロ超のドミノを含めたピタゴラスイッチを制作しかねない小兎が、二日もライブラに顔を出さない。
 これは彼女を知るライブラメンバーにとって一大事であった。



「……確かに、小兎には単独任務を任せた。だけどただの監視だ。荒事じゃないぞ」



 最後に小兎と接触していたメンバーは、スティーブンであった。情報収集に向かったチェインを除く仲間に迫られた彼は、簡単に白状しゲロった。

 彼自身動揺しているらしく、普段ブラックの珈琲は甘い香りのカフェオレになっていた。



「なら、帰り道で何かあったってことでしょうか?」

「そう考えるのが自然なんですけど、小兎さんがその辺のチンピラに負けるとは思えませんし……」

「……だが、彼女は女性だ。不意をつかれでもしていたら……」



 議論を交わすクラウスとレオナルド、ツェッド。三人よれば文殊の知恵とはいうが、現在妙案が出そうな気配はない。

 三人を眺めるスティーブンには、嫌な予想があった。先日の、小兎の父親に関する情報──まさかとは思うが、想像が頭の片隅にこびりついて離れない。



「何かあったのが帰り道だとしたら、スティーブンさんに任務終了の連絡がなかったってのも気になるんですよね。ザップさんと違って小兎さんは真面目だから、終わったらすぐに連絡してきそうな……」

「なら、帰り道ではなく任務の只中に何かが……?」

「……やはり女性一人に任せるべきではなかったのか……」

「く、クラウスさん! 顔怖いです、顔!」



 確かに、小兎から任務完了の連絡はなかった。いつもならどんな些細な任務だろうと必ずあった筈にも関わらず、だ。

 真面目な彼女が任務の最中に自分勝手な行動を取るとは考えにくい。やはり何らかの不慮の事態に遭ったと見るのが妥当であろう。

 スティーブンがそう結論付けかけたとき、軽い調子でザップが姿を見せた。



「おうおう、どうした。魚類と陰毛頭と旦那が顔突き合わせて。ムサイったらありゃしねえな」

「どうしたもこうしたもないですよ! アンタも解ってんでしょ、事態の重大性は!」

「だからどうしたって訊いてんだろーが。おまえらが顔突き合わせてりゃアイツは此処に来んのか?」



 ぐぬ、とレオナルドが押し黙る。

 普段はただの軽薄な男だが、ザップには確かに力がある。戦闘力は勿論のこと、余計な前段階を全てすっ飛ばし、核心を突く力だ。

 平時を装っているのか、ザップはレオナルドの頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。しかしその顔には、いつもの笑みはなかった。



「……ザップ。どこに行ってたんだ?」

「知り合いの情報屋とか女に訊いて回ってたんすよ。最近見慣れない東洋系のガキとか来てねえかって」

「何でガキなんだ?」



 スティーブンの問いに、ザップは平然と返答する。



「アイツが頭おかしくなるのって、キョーダイ関係のことぐらいじゃないっすか」



 何を今更、という言葉がザップの顔には浮かんでいた。

 横っ面にミサイルを撃ち込まれたような衝撃がスティーブンを襲う。思わず倒れ込みそうになるのをぐっと堪え、彼は「それだ」と小さく呟いた。

 ──どうして今まで思い付かなかったのか。

 回りくどく考えすぎていた。小兎を手に入れたいなら、彼女をどうこうしようとするより、彼女自身に出向いてもらった方が手っ取り早いに決まっている。

 不慮の事態。それは間違いないだろう。
 彼女はまさしくオークション会場で“会った”のだ。ライブラへの連絡を断ち切らざるをえない存在に。










 さすがにろくに休まずに逃げ続けていては、体力も気力も辛い。少年も度重なる襲撃と逃亡に疲弊している様子だった。

 人通りが多く、いざというとき逃げづらい大通りは使わない。日陰者が好む路地裏ばかりを使って移動しているため、良い宿屋には泊まれなかった。ただ異界人が経営しているそこには、少し珍しいものがあった。



「……プロスフェアーって、知ってる?」



 気晴らしにはなるかと、少年に話を振った。

 彼は軽く首を横に振った。フロントから借りたミニチュアの盤上を、彼との間に置く。



「知らない」

「元は異界の盤上遊戯ゲームなんだけど、今では人類でもたしなんでるヒトもいるの。ルールはちょっと複雑だけど……よかったら、やる?」



 少年は少しだけ黙り込んでから、頷いた。



「……教えてくれるなら」



 断られなかったことに、内心ホッとした。

 ルールを口頭で説明していっても、少年は一度も聞き返さなかった。将棋や囲碁と違い、何かと複雑な点が多いルールにも関わらず、少年は一度聞いただけで理解したらしい。

 彼に駒を渡しながら、すごいな、と思った。だがそれ以上の感情は沸かなかった。私もクラウスさんから教えられた際、一度の説明でルールを把握したからだ。

 指し始めると、盤上が戦場に変わった。ミニチュアの盤上ステージが機械仕掛けのような動きで展開され、各々の駒が生き物めいた動きを見せる。



「──貴女がいなくなったあと、ボクは産まれた」



 少年は唐突に口を開いた。



「物心ついたときに“鬼”の力を持っていても、一度も祝福されることはなかった。貴女の“鬼”の方が強いって、みんな言ってばかりで」

「……待って。きみも、怪舌を……!?」

「持ってるよ。同じときに“鬼”が二人もいるなんて前代未聞だって、屋敷中大騒ぎだったらしいけど──ボクは知らない。気付いたら持ってたから」



 突然の告白に唖然とするしかない私を置いて、少年は一人話を進める。

 盤上が広がっていく。



「父さんに、貴女がやっていたことと一緒のことをやらされた。でも駄目だった。『小兎ならもっとうまくやった』──決まってそう言われたよ」

「……一緒の、こと、って……」

「暗殺とか虐殺とか──兄さんや姉さん、弟や妹殺しとか」



 ゾワリと肌が粟立った。おぞましい記憶が脳裏に蘇り、また吐き気が込み上げてくる。

 唾を飲み込んで、無理矢理堪えた。
 そんな私をちらりと一瞥してから、少年は駒を進める。



「ボクは末っ子だから、弟や妹は殺さずに済んだよ」

「……末っ子……」

「ボクの“鬼”が貴女より弱いのを知って、父さんは見切りをつけたんだよ。だから貴女を本格的に求めた」



 ──少年の話が、どこか遠いものに思える。他でもない、私の話だというのに。

 ふと、数多の盤面を俯瞰で見ることができた。それで気付いた事実に思わず溜め息が漏れそうになる。

 私と──指し手がそっくりだ。



「貴女が逃げなければ、ボクたちはこんな目に遭わなかったのに」



 ずたずたずた。
 胸の内で、何かが殺されていく音がする。










「──小兎が見知らぬ少年と一緒に行動していたという情報がありました!」



 チェインが慌ただしく届けてくれた情報に、その場に居合わせた全員の背筋が伸びた。



「少年は六、七歳頃。白髪に赤目。……小兎とどことなく顔立ちが似ているらしいですが、これは確かな情報ではありません」



 ですがとりわけ、とチェインの目付きが鋭くなる。



「この少年らしき商品、、が、小兎が監視していたオークションに出品されていたという情報は重視するべきかと」

「……それだな」



 スティーブンは腰を上げ、全員の顔を見渡した。



「チェイン。きみは引き続き小兎の情報を集めてくれ。他の奴らは、その少年について各自調査。何か解ったらその都度連絡しろ。以上だ!」










 堕落王との会談は恙無つつがなく終わった。未だ身体の違和感はあれど、だが気にする程でもない。

 高層ビルの屋上からHLを一望する男は、込み上げる笑いを隠そうとすらしていなかった。口は三日月を描き、たまに笑い声が漏れ出ている。

 ──いま思えば、あのとき、あの娘に逃げられていてよかった。

 そのおかげで、自分はこの身体を得た──策が潰えたとしても、その次の策を備えておけるようになった。それすらも潰えたなら、次の次の策を準備しておこう。

 まだあの娘は捕らえられていない。それでいい。いま放っている追手など、使い捨てのそれに過ぎないのだから。その程度の雑兵に捕まってもらっては困るというものだ。

 あの娘と相見えるときは劇的であるのが望ましい。

 ──だが、一点だけ気掛かりなことがある。

 この街に滞在している際、小兎が籍を置いていた組織──ライブラの存在だ。
 脅迫してきた前科もある。警戒するに越したことはないだろう。

 だから、男は用心する。



「余計なつながりは、絶っておかないとね」









 追手を撃退していく内に、私の頭には一つの考えが浮かびつつあった。

 いまは何とか私だけで対応できているが、未だ追手が尽きないことを考慮したとき──私だけでこの少年を守りきれるだろうか。

 考えるまでもなく、難しいと判る。

 少年も怪舌を扱えるらしいが、彼はそれを使おうとはしない。ヒト相手に効く威力はないのか、あるいは制御できないのか、理由は解らない。確かなのは、彼は戦闘に期待できないし、したくもないということ。

 一人で逃げるのと、少年を連れて逃げるのではまるで勝手が違う。私の精神状態がそれを如実に表していることは、自分自身が嫌というほど理解していた。

 ──だけど、どうしたらいい?

 そのとき頭に浮かんだのは、ライブラの面々だった。
 彼らなら──彼らなら、少年を保護してくれるのではないか。縁もゆかりもない私を助けてくれた、彼らなら。

 彼らになら、少年を預けられる。強いし、何より優しい。彼らなら少年を傷付けることはないだろう。

 そうなれば私は──また一人になれる。身軽になれる。どこにでも行ける。

 自分の判断の愚かさを知った今なら、あの男の首を喰い千切ることに躊躇いなど覚えない。

 少年の手を引いて駆けていたとき、聞き慣れた声が私を呼び止めた。



「──小兎ッ!」



 あまりのタイミングの良さに、涙が溢れそうになった。彼は私が弱っているときに駆けつけてくれる能力でも持っているのか。

 たまらず振り返れば、彼は私を見て安心したように肩を落とした。珍しいことに、少し息が切れていた。



「スティーブン……!」



 ──そのとき、少年が面白くなさそうな顔をしたことに私は気付かなかった。

 此方へ駆け寄ってきていたスティーブンが、少年を目にして足を止めた。目を皿のようにして、強い口調で言葉を放つ。



「──小兎。そいつから離れろ」

「……スティーブン?」

「早くッ!」



 どうしてスティーブンはこんなにもピリピリしているのか。

 嫌な緊張感が場に満ちる。
 ライブラの誰かに会ったら切り出そうと思っていた提案も、腹の底へ引っ込んでしまった。

 ──少年が、ぎゅっと私の手を握った。

 瞬間、空気が凍った。



「……小兎、何をしている」

「それは、此方の台詞です……ッ!」



 その攻撃に対応できたことは、ほぼ奇跡といってよかった。

 一瞬で距離を詰めたスティーブンが少年に氷の蹴りを放とうとした。考えるよりも早く少年の前に立つことで私は彼を庇った。

 蹴りの衝撃で骨折した。歪な方向へ曲がった右腕がぴきぴきと凍結していく音がする。出血するよりも早く凍らされていくから、出血死の心配はない。



「いいか、小兎。その少年は────」



 ──頭が、冷めていく。

 あぁ、本当に私は弱っていたようだ。あの場所ライブラの居心地が良すぎて、こんな簡単なことまで忘れていたらしい。

 この世界で信用できるのは、自分だけだ。



「──【奈落】」

「っな」



 スティーブンの足元の地面が突如消失し、彼は深い穴へ落ちていった。臨機応変が得意な彼のことだからそう遠からず出てくるだろうが、時間稼ぎにはなる。



「【治癒】」



 右腕がみるみる内に元の姿を取り戻していく。まるで凍結も骨折もなかったように。

 怪舌の効果には時間制限がある。制限時間を越えたら、右腕はまた骨折し、凍結する。その度に私は痛みに悶えるだろう。

 それでもいい。
 いまの私が何より優先するのは、弟を守ることだ。



「行こう。急がなきゃ」

「……ねえ」少年は私の目を見た。「目的地がないなら、行きたい場所があるんだけど」










 兵器を作ろう。

 どんな多人数相手でも勝てるような一発逆転の兵器を。
 どんな苦境でも戦えるような不屈の兵器を。
 どんな不慮の事態にも対応できるような臨機応変な兵器を。

 どんな戦いにも勝てるような万能の兵器を。

 思想を突き詰めていけばいくほど、それは人間に近くなった。だが、自分みたいなただの人間では駄目だ。もっと特別な人間でなくては。

 調べていく内に“鬼”の力を持つという一族の話を聞いた。すぐにそこへ向かい、調査をした。その話が真実だということは、近い内に解った。

 その家を乗っ取るまで、そう時間はかからなかった。だが“鬼”の力は血が関係しているらしく、入り婿の自分が宿すことは不可能だと解り、兵器の製造に二の足を踏むことになった。

 数十年の苦節を経てようやく得た傑作は、無駄な自我を抱き、逃げ出した。

 その後に製造まれたものは劣化品としか言い様がなかった。成功ラインではあるものの、あの傑作を知っている今、これを良しとするのは妥協でしかない。

 あの傑作をまた手中に置こう。そしてまた戦いを起こすのだ。

 そのときはきっと勝てるから。
 あんな惨めな思いは、もうしなくていいから。










 弟に連れて行かれた先は、いつかクラウスさんが無双した地下闘技場だった。

 以前の活気が嘘のように、闘技場はがらんとしている。あれだけの熱気に包まれていたのに、今ではすっかり寂れた廃墟だった。

 もう整備もされていないのだろう。
 ギギギギギ……と嫌な音を立てるエレベーターで下に降りた。

 先導していた彼が、ふいに足を止めた。



「──連れてきたよ」



 父さん、と。
 彼は確かにそう言った。

 目を見開く私の視界に、さらに信じがたいものが飛び込んでくる。

 かつん、と革靴の音が反響した。私のものでも、ましてや少年のものでもない。



「やあ、久しぶりだね。私の最高傑作──」



 いや、と暗闇から現れた男は──私の父親は首を振った。



「──愛娘、といった方がいいのかな?」



 背後に、異形の生物を引き連れながら。




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