×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -

8.臆病






 ライブラの執務室でスティーブンから、九頭見会と滑塵組の間に心配される抗争──ひいては緑色の目をした怪物の説明が行われた。

 一通りの質疑応答を終えてから、集まったメンバーに一時解散が言い渡された。

 そのとき掛けられたK・Kさんからの「一緒に行かない?」という誘いを断るのは、とても、とても名残惜しかった。



「……ぜひ、ぜひ今度誘ってください……! ぜひ……!」

「……オーケー。なんか用事あるのね」



 私の涙ながらの言葉に、K・Kさんは裏にある事情を悟ってくれたようだ。「また今度行きましょ。絶対よ」と優しい言葉と手で私の頭を軽く撫でてから、彼女は執務室を出ていった。同性から見ても、K・Kさんは本当に良い女だと心底思う。

 ややあって、執務室に残ったのは、私を含めて三人だけになった。その一人であるギルベルトさんが何かを察したように部屋を出ていってから、私は棚の消臭剤を引っ掴んだ。

 K・Kさんの誘いを断らざるをえなかった元凶に消臭剤を投げつける力が強くなったのは、まあ、仕方ないことといえるだろう。



「いだっ!?」



 後頭部にクリーンヒットした消臭剤を手に、スティーブンは驚いたように私を振り返った。指摘するのも野暮だとは思ったが、理由を言わなければただの八つ当たりになってしまう。



「……匂い、女性物は違和感が勝ちますよ。今日はまだ用事があるんでしょう」



 それだけ言って、私は部屋を出ようとした。これ以上詳しく説明するのも憚られたから。

 スティーブンには、書類仕事以外に外回りの用事が多いのを知っていた。だから、風邪のときの借りを返そうと思ったのだ。それ以上の理由はない。

 踵を返したとき、手首を掴まれて引き止められた。驚かなかったといえば嘘になるけど、それを表に出すのも嫌で、私は冷静に努めた。

 スティーブンが囁くように問う。



「……目立つ?」

「……私は鼻が効くので、とても」広い山中で食料や水の在処を探す為の、短期間での進化だった。「たぶん、レオたちは気付いてません。K・Kさんやザップは女性の香水には詳しいでしょうから、少しは気付いてるんじゃないですか」

「このまま会いに行くのは、まずいかな」

「浮気やゲイ疑惑をかけられたいなら、ご随意に」



 そんなに目立つのか、とスティーブンが落ち込んだ調子で呟いた。



「……目立つ、というより、女は敏感ですから。好きな相手の変化にはすぐ気付きますし、そうなりたいと思っているでしょう」



 その手段がひどく陰湿になりやすい、という話まではしなくていいか。

 ──スティーブンが一人や二人ではない女性と関係を持っているのは、彼との付き合いが長くなるにつれ解っていったことだ。それも、誠実的からは程遠い理由で。

 それに対し、特別な感慨は抱かない。世界の均衡を守る為に、きっと必要なことなんだろうから。

 ……小魚の骨が引っ掛かったみたいな違和感を噛み砕くのは、易かった。



「──小兎も、そうなのか?」



 ほんのわずかに、上擦った声。

 何が“そう”なのか、と訊こうとして、さっきの私の言葉に対する問いだと気付いた。



「……さあ。私はまだそういった方に出会ったことがありませんから。ただの一般論です。アテにするもしないもご自由に」



 いい加減部屋を出ていきたかったが、スティーブンはまだ手を離してくれない。それがいつもみたいな余裕がないのを表しているように思えたから、無理に振りほどくことはしなかった。



「……クラウスは?」

「どうしてそこでクラウスさんが出てくるんですか」

「だってきみ、クラウスには尻尾を振り撒くってるじゃないか」

「私は犬か何かですか」溜め息が漏れる。「……クラウスさんに私なんかがそんな感情を抱くこと──畏れ多くてできません。あるのは、純粋な憧憬だけです」



 沈黙が少しだけ流れた。

 スティーブンの骨ばった手が、そっと離れた。それは会話の終了を告げていた。

 それじゃ、と私は短く口にして執務室を出た。街の喧騒を潜るように歩いていく。
 百歩も歩けば、手首からスティーブンの感触は消えていた。










 キリシマの下にクラウスが訪れたのは、その日の夜のことだった。

 クラウスは訴えた。
 ここに来た理由は二つであることを。緑の瞳の怪物グリーン・アイド・モンスターについて教えてほしい、と。

 奇妙な男だと、緊張の只中でキリシマは思った。だがその顔色は、次のクラウスの言葉で変化せざるをえなくなる。



「──それともう一つは、ミス・メイヴィのことです」



 クラウスは懸命に伝えようとする。ただただ愚直に、馬鹿みたいに真っ直ぐに──偽らない言葉を口にする。

 小兎を救ったときと同様に、彼は真剣に手を伸ばす。



「今、貴方の身の回りは抗争で緊張が高まっている。私で力になれることは無いだろうか──そればかりいつも考えています。
 ミスター・キリシマ。どんな事でも言って頂きたい」



 ──友人として。

 クラウスは、そう締め括った。相手の言葉を聞き逃すまいと、じっとキリシマの目を見つめる。

 どんな馬鹿にも伝わる本気だった。クラウスは心底そう思っていて、キリシマが助けを請えば一も二もなく頷いてくれるだろう。そう直感したからこそ、彼は伸ばされた手を掴むことができなかった。



「……貴方だから、あの娘はついていくんでしょうな」

「……あの娘?」

「まさか──知らんのですか。知らずに、あの娘を傍に?」



 キリシマは目を見開いた。信じられない心地で言葉を紡ぐ。



「あの娘は、山の城の滝夜叉姫ですよ」ごくり、唾を飲んだ。「日本じゃ──ワシらの界隈じゃ有名な御仁だ。訳の解らない術で顔色一つ変えずにヒトを殺すってんで、鬼なんて呼ぶやつもいました」

「……まさか、小兎のことですか?」

「数年前に姿を消してからは音沙汰なしでしたが……写真で見た姿と、何ら変わってなかった。間違いありません」



 大きく目を見開いたクラウスに、嘘をつく理由はないだろう。本当にあの少女──いや、もう少女なんて歳ではない筈だ。鬼の正体を、その所業を知らずに傍に置いていたのか。

 ──昼間見た、小さな鬼の姿を思い出す。写真で見た姿そのままで、けれどかけ離れた空気で挨拶をしてきた彼女を。

 きっと彼女は、クラウスが共にいる環境が心地好かったのだろう。だから、あんなにも牙を抜かれた空気だった。メイヴィに優しい目と言葉を向けた。キリシマに警戒すら向けなかった。

 あの鬼が安堵する男なのだ──クラウス・V・ラインヘルツという人物は。



「……だけど、いまの彼女はワシの知る彼女じゃありません。縋るものがない人形みたいな顔をしてなかったですから」

「…………」

「安心してください。たぶん、彼女が貴方を裏切ることはないでしょう」



 わずかに、クラウスが肩の力を抜いた。それをキリシマは見逃さなかった。

 彼女が、、、、クラウスの気持ちを裏切ることはないだろう。










 ──植物園に向かった理由は、メイヴィだった。

 妹たちを彷彿とさせたとはいえ、彼女を怖がらせたことをしっかり謝りたかった。それから少しでも喜んでほしくて、笑ってもらえればいいと思って、お菓子を持参した。下心を見透かされても仕方ないぐらい、明け透けな行為だと自覚はしていた。

 建物の前には、見慣れぬ車が停まっていた。黒塗りの、大きな車だ。昔、よく見た車種だった。

 植物園に入ろうと、扉に手を掛けた。鍵がかかっているかと思ったのだが、意外なことに扉は容易く私を迎え入れた。目を瞬かせる私にぶつかるようにして、誰かが飛び出てくる。

 ぶつかった際、うっかりお菓子の箱を取り落とした。



「っわ!?」

「邪魔だガキ!」



 悪態を吐きながら横を走り抜けていったのは、見知らぬ眼鏡の男だった。彼はお菓子の箱を踏みつけて、謝罪もせず駆けていく。

 それだけなら私は大人しく見送っただろう。だが、男が抱えていたモノは看過できなかった。

 ──傷だらけの、メイヴィだった。



「【止まれ】!」



 考えるより早く、男に向けて怪舌を使っていた。だが、そのときには既に男は車に走り込んでいた。乗り込んだのは後部座席だったのに、車は発進した。みるみる内に遠ざかっていく。

 他にも仲間がいたのだ。己の無力さに絶望しそうになった。



「【】!」



 だが、落ち込んだところでメイヴィが無事に帰ってくるわけじゃない。舌を強く噛んで意識を引き戻す。すると、園内から鈍い音が響いているのが聞こえるようになった。

 逡巡の末に、私は中へ走った。メイヴィを追いかけたかったけど、いま救えるかもしれない命を見捨てるのも嫌だった。

 園内にいたのは、大男と、その取り巻きのような男。鈍い音の発生源は前者だ。私は大男が蹴り続けていたモノを認識して──

 ──頭が、沸騰したのかと思った。



「【やめろ】!」



 足を振り上げていた大男が、怪舌を受けて止まる。その足をしっかりと掴み、蹴りを受けていた彼はのっそりと身を起こした。

 そして、大男の足を掴むその手に、力を込めた。

 断末魔めいた悲鳴。だけどそれに同情は生まれない。もう一人の男には目もくれず、私は彼に駆け寄った。



「──クラウスさん!」

「小兎……!?」



 血と傷だらけのクラウスさんは私を目にして、瞠目した。どうして私が此処にいるのか、理解できないのだろう。だけどいまの最優先事項は、その説明じゃない。



「クラウスさん、メイヴィが……っ!」

「……あぁ、解っている」



 急ごう。
 彼が言ったのは、それだけだった。





|



戻る