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『イキシアの溜息』
(2023.5.12)
気が付いた時には外堀は埋め立てられているし、埋められていることにそもそも気付いていない蛍ちゃんの話。

副題:「オイラと違ってお前は蛍とは他人!」と突っ込まれた理由

次回は蛍ちゃんが嫁になるまでの話。



印象的な出来事はあっても、蛍にとってアルハイゼンは信頼出来る人物というだけだった。

モンドで言えばリサやディルック、璃月なら鍾離、稲妻なら綾人と綾華のような。
他にも、蛍自身が兄や姉というものにくらくらとしてしまう自覚があったので、そういった人達にはとくに気持ちが向いていた。
蛍は兄に可愛がられてきたから。
蛍は空のことを、笑顔が優しくて、気遣いが出来て、女の子なら誰でもお兄ちゃんのことを好きになるに違いないと思っている。

身長はそんなに変わらなくても、兄の空の方が蛍よりも手が大きかった。
蛍が両手で剣を持たないと壊せない鉱石も、空は片手であっさり壊した。
頑張ってついて行こうとしても、空が走る速さを合わせてくれないと蛍は追いつくことができなかった。
でも、置いて行かれたことなんてなかった。テイワットに来る前までは。

逆さまの神像、星のような紋章を胸に抱く使徒。顔の片側を仮面で隠す金髪の剣士。
旅の終点で会おうと言った兄。

空と蛍が剣を振るう向きが逆なのはお互いの死角を補うためだった。
そんなことを自然と当たり前にする兄妹だった。
あんな──あんな、アビスの使徒なんかを蛍からかばうための剣じゃないのに。

じわりと涙が滲みそうになって、蛍は少し乱暴に目元を擦った。


すっかり踏み入ることに慣れてしまった、アルハイゼンの家。
冒険者協会に仕事の達成報告をして、パイモンには洞天に行ってもらった。
この時間だと蛍たちとアルハイゼンのどちらが先に帰っているのか微妙で、作り置きしておいた料理をパイモンに温めてもらいたかったからだ。

アルハイゼンの後ろ姿が見えるが、じっと動きがない。
また疲れてうたた寝をしているのかもしれない。
静かに眠るその顔が健康そのものだったので、蛍は安心した。
寝顔が普段と比べて幼く見えて、自然と笑みがこぼれる。

ちょっとかわいいかも。

横に座り、ふと視界に入ったもの。
私の腕と全然違うな、というのが素直な感想。
アルハイゼンの腕。蛍と違ってしっかり筋肉があってかたそうなそれ。

「腕、すごい…」

自分の腕を寄せて比べたり、ぺたぺたと触る。
少しだけ寄りかかってもびくともしない。
蛍が何も言葉を言わなくなれば、あとは静かな空間になった。
音はアルハイゼンと蛍の呼吸と、蛍が身じろぎした時の衣擦れだけ。

蛍はアルハイゼンと一緒にいる時の沈黙を気まずいと思ったことがなかった。
紙のページが捲られる音、蛍が沸かすお湯の音、時折風で揺れる窓ガラス。
会話がなくても、なんとなく落ち着くと感じていた。
……そう。一緒にいると落ち着く。

そんなことを考えているうちに、蛍はだんだん眠くなってきてしまった。
だから、名前を呼ばれて心臓が飛び出してしまうのではないかというくらい、驚いた。
本気で寝入ってしまいそうになっていたからだ。

「アルハイゼン!ごめんなさい、起こしちゃったよね…」

勝手に自分の腕を枕にされたら嫌だと思うはず。
相手に許可も取らないで触るなんて最低だ。どうしてあんなことをしてしまったんだろう。

申し訳なさと恥ずかしさと後悔で慌てたせいで、テーブルにぶつかるし、テーブルの上の物を散らかしてしまうし、穴があったら入りたいとはこんな時に使う言葉だと泣きそうになる。

「判断力が鈍っているようだな。他人が寝ている姿を見て睡魔に襲われるほどには疲れているらしい」

予想もしていなかった言葉に思考がぴたりと止まった。
蛍とパイモンが数日前に請け負った依頼に付きっきりになっていたことを心配してくれているのかもしれない。
街にも洞天にも、アルハイゼンの家にも戻らず出先にいたから。

手を引かれて、固い腕が背中に回ってきても、蛍はぐるぐると考え事をしていた。
アルハイゼンが丁寧に説明してくれているが、何も頭に入ってこない。
ひろう、かいふく、と拙く復唱することしかできなかった。
他にも変なことを口走ってしまったので不快にさせたかもしれない。

蛍はますます縮こまるような心地だった。

包み込む腕の力が不意に緩む。
おそるおそる見上げると、アルハイゼンはいつもと何も変わらない表情で。

こんなことで腹を立てたりしない、と言っているようだった。

安心したら、強張っていた力が抜けてしまう。
その後は、アルハイゼンの探究心の邪魔にならないようにじっとしていた。
抱きしめられたのは驚いたが、接触すること以外に目的はなかったから、なんともなかった。

身の危険を感じないから一緒にいるとほっとするのかも。

一見非力な少女の蛍と小さなパイモンの二人旅は、男の一人旅と違って面倒ごとが何かと降りかかりやすい。
直感で警戒するべき人を嗅ぎ分けるし、つんとした対応をすることもある。
兄には女の一人歩きで注意することをよくよく教えられてきたので、兄とのふたり旅でなくなった今は以前より神経を尖らせる時間が増えた。

アルハイゼンは蛍を異性として見ていない。
親しい知人として配慮することはあるけれど、それ以外の意味はない。
蛍は確信していた。自分の推測は間違っていないと。

……何があっても揺るぎない人間であるというのはいい。
蛍も安心してのびのびとしていられる。


この日以来抱きしめられたことはなく、蛍もそんなことがあったのを忘れていた。


洞天の邸宅内の自室で、蛍は「あれ?」と声を上げた。

蛍は七天神像に祈れば負った傷が癒える。
それでも初動の応急処置は必要になるから、清潔な布や傷薬を一定数持つようにしていた。
その、傷薬の小瓶がポーチの中にいくつか増えている。代わりに空の瓶がなくなっていた。
パイモンと一緒に消耗品を買い足そうと話をしたばかりなので、パイモンではないとすぐにわかる。

邸宅内を歩き回って、目当ての人物がいたのは台所だった。
体が動くのに合わせて、銀色の頭のてっぺんのくせ毛が少しだけ揺れている。
ついつい目を奪われながら、声をかけた。

もしかしてと聞けば、予想通り肯定の返事が返ってくる。

「俺がやりたいと思ったからやったんだ。君が気兼ねすることではない」
「それでも、ありがとう。助かったからちゃんとお礼を言いたかったの」

蛍の言葉への返事としてなのか、無言で置かれたマグカップの分の感謝も伝える。

蛍が好きなココア。
アルハイゼンは飲まないもの。

最近のアルハイゼンはそうやって、蛍が疲れて帰ってくると蛍の好きなものを用意したり、小物の片付けもサッとやってあとはもう寝るだけでいい状態にしてくれる。

それが洞天の邸宅内だけだったなら、間借りしている人間としての礼儀でやっていると解釈できた。
でも、アルハイゼンの家でもそうやって蛍のことを気遣ってくれる。

彼と関わりがなかったら一生知ることはなかっただろう一面。
アルハイゼンは他の人が思うよりも付き合いがいい。
砂漠で斬り結んだセノと今では一緒にお酒を飲みに行くことがあるし、街中で見かけた時に軽く雑談したとニィロウも話していた。
一人でまったりと過ごすことを好む、猫のような性分であるが、別に賑やかな場所を嫌っているわけではないのだ。

思い出すのは、夕暮れの灯りと横顔。

「グランドバザールが賑わっているのは、ここの人たちが心の底から嬉しいと感じているからだ」

あの優しい声と顔が、いつまでもいつまでも、蛍の中に残っている。
人々が幸福であることを見て、自分のことのように微笑む人なんだと思った。
あの時の蛍は宝物を見つけてしまった気持ちだった。

「蛍?」

……なんでもないと言った声が震えていなかっただろうか。
きっかけはハッキリわかったけれど、いつからだったのかはわからない。いつの間にかそうなっていたとしか。

顔を見れば嬉しいし、表情の変化を見つければときめいてしまうし、頭のくせ毛が揺れるのが可愛いと思ってしまう。
蛍と呼ぶ声が耳に心地良かった。

これって、そういうことなんでしょう。


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