散々泣き疲れてボンヤリする頭。沈みかけの夕日。朱く染まった町並み。
少しだけ肌寒い梅雨時の夕方、トウヤと2人手を繋いで歩いて帰った。
「……俺、先輩のこと性欲の捌け口とか思った事ありませんから」
帰り道、トウヤはポツリとそう呟いた。
それはともすれば聞き逃してしまいそうな程の極々小さな声で、Nは理解するのに多少の時間を要した。
「……本当?」
「こんな事で嘘つきません。……そもそも、何でただの性欲処理でわざわざ野郎を抱かなきゃいけないんですか」
「それは、そうかもしれないけど……」
その辺の欲求がイマイチ淡泊らしいNにはよく解らなかったが、よく考えてみれば確かにトウヤの言う通りなのかもしれない。普通の男なら、薄っぺらくて硬い男の体なんかよりも柔らかくて可愛い女の子の方が良いのは当然だろう。
そう、普通ならば。
(でもトウヤは、ボクのことを抱きたがる)
それは何故?
ずっと、胸を巣くっていた疑問。だけど怖くて口に出来なかった疑問。
「ねぇトウヤは……ボクのこと、どう思っているの?」
トウヤはその質問に嫌そうに顔をしかめ、だが諦めたように一つ溜息をつくと、ポツポツとNに向かって語り出した。Nの手を握る手に、僅かに力を込めて。
「視線が、気になったんです」
「……視線?」
「はい。アンタ俺のことずっと見てたでしょ」
……気付かれてたのか。
隠してたつもりだったモノが実はバレバレだった事が判明した羞恥に、Nは顔を俯ける。
続くトウヤの"最初はまぁ、正直勘弁って思いました"という言葉に、胸がチクリと痛んだ。
「だけど、ある時気付いたんです。俺を見てるアンタの姿が、いつも一人だって事に……淋しそうな目をして、俺のこと見てるって事に。――そのくせ、俺が野球してる時だけはやけに幸せそうな顔して俺のこと見てくるし」
落ち着かない様子で、トウヤは道端の石ころを蹴った
「わけ解らない人だと思いました。でもそれ以来、何となくアンタの視線に気付くと落ち着かない気分になって。今日もあんな淋しそうな目をしてるんだろうかとか考えて。そんな自分に苛々して……だから、ベルが――俺の友人が実験室で先輩の教科書見付けた時は、丁度良い口実が出来たと思いました。教科書を届けてやるついでに、こう言うつもりだったんです……"鬱陶しいから俺の事を見るのをやめろ"って。話した事さえ無いアンタに振り回されてる事実が腹立たしかったんです」
そこまで言って、トウヤは気まずそうに一旦言葉を切った。
余程言いにくい事なのだろうか。それまで淡々と語っていたトウヤの言葉が、急に不明瞭になる。
「それで、その……アンタに教科書届けに行って……その時、先輩がお礼言って笑ったじゃないですか。その時の笑顔が、ですね……」
「笑顔が?」
「あんまり可愛…―いやフニャフニャ幸せそうで間抜けだったんで、つい頭に焼き付いちゃったんですよ。間抜けすぎて」
「間抜けすぎて!?」
そんなに間抜けだったのだろうか。いやでも確かに、あの時の自分は彼に気にかけてもらえた嬉しさで顔の筋肉がおかしな具合になっていたかもしれない。
ショックを受けるNから何故かトウヤは不満げに顔を背け、"そうです。間抜け過ぎたからです"とどこか自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「間抜け過ぎたから、忘れられなかったんです。頭に焼き付いたんです。あの笑顔をもう一回見れないかとか考えて、四六時中アンタのことが頭から離れなくなったんです」
「……ボクのこと、そんなに考えてくれたの?」
「はい、オカズでした」
「お、おか…っ!?」
何故間抜けな顔をオカズに……いやそれ以前に、何でボクを。
そりゃあ確かに、他の女の子とか相手にトウヤがそういう事するよりは嬉しいけど。だけど。
(だけど結局それって――)
純粋な疑問が頭の中に沸き起こり、衝動的にソレはNの口をついて出る。
「それは結局、性欲の捌け口って事なんじゃないのかい?」
「……先輩って本当めんどーな人ですね」
じゃあもうそれでいいです――大きく溜息をついた後、彼は吐き捨てるようにそう言った。
また怒らせてしまったのだろうか。せっかくトウヤが自分の胸の内を真摯に語ってくれていたのに。
胸がまたズキズキと痛んで、唇を噛んでそれに耐えた。
そんなNの様子に、トウヤは苛立たしげに舌打ちする。
「何で傷付くの解っててそういう事言うんですか、アンタは……」
「……ごめん、ボク馬鹿みたいだね」
「本当に馬鹿ですよ、大馬鹿です。おまけに電波だし、変人だし、動物と話してるし、早口だし、俺なんかのこと大好きだし、笑顔が可愛いし、人の話聞かないし、空気読めないし、全くもって碌でもない人です。本当に、何で俺はアンタなんかをこんなに――」
そこまで言いかけて、また彼は口を噤む。
『アンタなんかをこんなに――』
この続きが聞きたい。
嫌い?苛つく?それとも、放っておけない?気になる?
どれもそれらしい気がして、だけどどれも少しだけ違う気がする。
答えが知りたい。トウヤの、気持ちが。
トウヤは憤懣やるかたないと言った様子でNの背中に手を伸ばし、だけどそこにいつもの長い髪が無いと思い出すと、ますます不満げに眉を吊り上げた。
「……アイツら、勿体ない事しやがって」
"アイツら"というのは先程までNに理不尽な暴力を振るっていた彼等のことだろうか。
そういえば、トウヤはよくNの後ろ髪を引っ張ったり弄ったりしていた。
「キミが、数少ない気に入ってくれてた所だったのにね」
「……案外、ただの爽やかなイケメンに見えて良いかもしれませんよ。――それに、髪ぐらいすぐに伸びます」
自嘲するような声音で言うNに、トウヤはムスッとした顔で返す。ひょっとしたら、その言葉は彼なりの不器用な慰めなのかもしれない。
――その優しさは、同情からくる物なのだろうか。
そうかもしれない。彼は、随分とお人よしの様だから。いつも独りでいるNを憐れに思ったのかもしれない。
だけど、やっぱりそれも違うような気がして。
(――ボクは、彼に何を望んでいるのか)
彼は、ボクに何を望んでいるのか。その問いの答えも、まだ見付かっていない。
繋いでいた手はいつの間にか離れていて、急に酷く心許ない気分になる。
夕日はとっくに沈んでいて、辺りはもう薄暗かった。
「……また、そんな顔して」
ふいに、トウヤの手がNの頬に伸びてくる。"そんな顔"がどういう状態かは自分ではよく解らないが、トウヤの表情を見るに余りよろしくない顔なのかもしれない。
「……あまりボクに優しくしない方が良いよ、キミは」
「…何ですか。突然」
「期待しそうになるんだ――その度にブレーキをかけて、自分に言い聞かせる。そんな事を、キミと初めて話した時から何度も繰り返しているんだ」
何度も、何度も。
ボクの言葉にトウヤはその大きな目を見開かせ、だがやや間をおいて呆れとも諦めとも苛立ちともつかない、何とも奇妙な表情になる。
そして次の瞬間、今度はNの方が目を見開く事になった。トウヤがNの頭に手を回すと、そのまま自分の肩に思い切り引き寄せたのだ。
「えっ、ちょ、トウヤ!?」
身長差のせいで、この体制結構辛いよ。
そう伝えようとして、だが先に口を開いたのはトウヤの方だった。
「何でアンタは、そこまで鈍いんだよ」
「……え?」
「期待したきゃすればいいじゃないですか。何でアンタは無遠慮に人の中ズカズカ踏み込んでくるくせに、肝心な所で我慢しちゃうんですか!――大体電話だってメールだって、したい時にすりゃ良いんです。今日みたいな時は俺に助けを呼んでください。あと空気は読んでください!」
「ト、トウヤ……?」
いつもはNに早口過ぎると言って呆れるトウヤが、今はN並の早口でまくし立てる。
名前を呼ぶと、背中に手が回り抱きしめられた。
「何で気付かないんだよ!――俺は俺なりに、アンタのことを大事にしようと……して、るのに」
それが彼の限界だったのか、最後の方は最早蚊の鳴くような声と言って良い状態だった。照れ隠しなのか、ギュウギュウとNの頭を肩に押し付ける手に力を込める。酷く不器用な、手つきで。
――ああ、そうか。
何で、気付かなかったんだろう。
この手つき同様、彼がとても不器用な人間だということに。……ずっと彼は、精一杯の優しさをくれていたのに。
目の前がぼやけて、胸が一杯になる。
トウヤの背に手を回すと、抱きしめられている腕に力を込められた。
適度な筋肉がついた、Nより小柄な身体。その身体からジワジワと染み込んでくる、温かい体温。耳元の息遣い。混ざり合うお互いの鼓動。
泣き腫らした目が痛くて、だけど胸の奥が熱くて仕方なくて。
『――ボクは、彼に何を望んでいるんだろう』
ようやく解った、この問いの答えが。
それは酷く簡単なモノで、でもボクにとってはこの世のどんな数式よりも難しいモノで。一生、手に入らないのではないかと思っていたモノで。
別に、トウヤの1番になりたいとかそういうのではなくて。"愛してる"の言葉だって、欲してなくて。優しささえ望んでなくて。
(ボクが、望んでいたのは)
ボクは、ただ――
(――ただこうやって、キミと温もりを分かち合いたかっただけなんだ)
かさなった心臓の鼓動がひとつになる。フィルターが消える。異物を押し出すその世界に、その日、はじめてボクは受け入れられた。
おしまい
2010/11/30