古来からの拷問方法に、"水責め"という物があるらしい。水を使っった拷問、あるいは刑罰の総称。古来洋の東西を問わず様々な方法が考案されてきた。
そこまで本格的なものではなくても、例えば、そう――水を張ったバケツの中に無理矢理人の顔を突っ込んで、その身体が抵抗する力も無くなり意識を失いかけるまで水に浸け続け、"オイこれそろそろヤバくね"となった頃に漸く引き上げる。突っ込まれてた人は当然必死に空気を吸うよね。そろそろ限界だよね。だけどそこをまた無理矢理バケツに突っ込ませる。酷いよね。引き上げる。空気を吸う。突っ込む。引き上げる――やられる人間は相当苦しい訳だから、これはもう立派に水責めに値するだろう。
現在進行形で実行されてるボクが言うんだから、間違い無いよ。
今日のNの下駄箱に入っていた物は、カミソリではなく呼び出しの手紙だった。呼び出し人は不明。指定された時間に、指定された場所に来るようとだけ簡潔に書いてある。
(これ、行かなきゃダメなのかなぁ)
正直余り行きたくは無かったが、下駄箱の中に七通も同じ手紙が入っていたところを見るに余程大事な用事なのかもしれない。
呼び出し場所は、去年廃部された部に使用されてた部室。
放課後、結局素直に指定された場所に向かったNに待っていたのは、"焼き入れ"という名の壮絶な集団リンチだった。
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空き部屋に引きずり込まれ、まず最初襲ってきたのは拳だった。
間違いなく運動系の部に所属しているだろう体格の良い男達に、鳩尾を殴られる。背中を蹴られる。机に打ち付けられる。手を踏み付けられる。次第にどこが痛いのかさえよく解らなくなってきて、それでもまだ暴行を加えられる。恐怖よりも、むしろ純粋な痛みで身体が震える。耳障りな音がカチカチカチカチ煩い。ああ、これはボクの奥歯の鳴る音か。
また鳩尾を今度は膝で蹴り上げられ、痛みに身体を折り曲げその場に這い蹲る。耳障りな男達の笑い声。
恐らく男達にとって、このような行為は初めてではないのだろう。そこまでやっても飽くまで顔など人目に付く場所は巧妙に避けているところに、彼等の慣れを感じる。
Nが最早呻き声さえ上げられなくなった頃、漸く中心格らしい男の合図によってその行為は止まった。
……ようやく、終わったのだろうか。
そう思いホッとして、だが目の前に運ばれてきたバケツにまだ始まりだと知る。
弛緩した身体を、無理矢理起こされた。
不可抗力で飲んでしまったバケツの水は、吐きそうな程不味かった。まぁ吐く余裕なんて無いんだけどね。
今ので何回目だったんだろう。とりあえず今は空気を補充する時間。
またバケツの中に顔を突っ込まれそうな気配がして、Nは頑是ない子供のように嫌々をする。男達の下卑た笑い声。"もうそろそろ止めてやれよ"という笑い混じりの男の声が聞こえたが、面白がった別の男によってまたNの頭はバケツに押し込まれた。
苦しい。何も考えたくない。いや違う、ひとまず落ち着かなきゃ。落ち着いて。
そうだ!落ち着いて素数を数えるんだ。2,3,5,7,11,13,17,19,23,29…。そこまで考えた所で頭に供給される筈の酸素が欠乏し、意識が混濁する。バケツから引き上げられる。噎せ込みながら空気を吸う。また突っ込まれ素数を数え始める。意識が混濁する。どうやら自分は相当混乱してるらしい。ていうか、これ意味ないよね。
――かと思えば、それは意外な所で功を奏していたらしい。
「……おい、なんかコイツ素数数えてんぞ」
「うわキメェ。さすがNだな」
「こんだけやってコレじゃあ、あんま水責めは効果無いのかもな」
ガッカリした様な声音。それと共にバケツから引き上げられ、押さえ付けられてた身体が解放された。
身体に力が入らなくて、すぐに床に崩れ落ちる。冷たい床が気持ちいい。
……そもそも、何で自分はこんな目に遭っているのだろう。どうしたら彼等は満足するのだろう。先程から何度も頭の中に浮かび、だけど答えの出ぬまま霧散するしかない問い。
冷たい嘲笑が耳に届き、目線だけをそちらに向けた。霞む視界に映ったのは、恐らくこの中では中心らしい男。……見覚えが有るかもしれない。誰だっけ。
そうだ。確か、同じクラスの生徒だった。この前机に花瓶を置いてたのも彼だったかも。4月の段階から妙に自分に突っ掛かってくるから印象に残っていて。
たしか、名前は――
(名前は………あれ?何だったっけ)
思い出そうとして、だけどその答えを見つける前に彼に胸ぐらを掴まれ壁に押し付けられた。
薄暗い空間で、男の顔が限界までNに近付く。初めて間近で見たその男の目には、憎しみと言えるモノすら籠もっていた。
「その目が気に入らねーんだよ。お前のその、俺には何の興味も有りませんって目が」
苛々する。そう吐き捨てて、男は胸倉を掴む手に力を込める。
興味の無い目?自分は彼のことをそんな目で見ていたのだろうか。ああでも、そうなのかもしれない。
だって、実際ボクは彼には何の興味も無いのだから。
――ああ、そうだったのか。
ゲーチスのあの無関心で冷たい目を厭いながら、結局の所Nも全く同じ目で他人を見ていたのか。
目の前の男の唇が、嫌な歪み方をする。
「なぁN…お前、その髪鬱陶しいんじゃないか?」
「……え?」
"散髪してやるよ"。血走った目で、上擦った声で、男はそう告げた。
シャキリと、鉄の擦れ合う微かな音が耳元で響く。鈍く輝く銀色のモノが視界の端に映った。
強引に引っ張られた髪が痛い。ポタリと前髪から雫が垂れて、それが合図のように髪に鋏を入れられた。
冷たい鉄の感触が首筋に触れ、肌が粟立つ。
「う、あ…」
ジャキッという音と共に頭が少し軽くなった。悲鳴にならない喘ぐような悲鳴が咽から漏れる。耳鳴りが煩い。
髪を切る男の、ニヤついた顔。萎縮したNの反応を楽しむ顔。頬にかかる熱い息。
「やめて……」
か細い懇願が白くなった唇から漏れ、それに男達がまた笑った。
ジャキリと、音が響く。尊厳を踏みにじられる音。
切り落とされた萌黄色の束が、パタパタと床に広がっていく。
目の奥が熱くなり、ぼんやりと水の膜に覆われる。
(トウヤ、気に入ってくれてたみたいなんだけどな)
先程とは違いバケツに押し込まれてる訳でもないのに、息が詰まる。苦しい。
俯いた拍子に生暖かいモノが頬を伝い、それを見た男達がまた笑った。
「なに、コイツ髪切られて泣いてるんですけど」
「きめー。女子かよ」
ほんと、何で女の子でもないのに髪を切られたぐらいで泣いているんだろう。ただ鋏の音が響く度に、何か大事なモノがひとつひとつ壊されていってる様な気がして。
涙腺が壊れた様に生暖かい液体が頬を伝い続ける。――ふと、間近でNの様子を観察していた男の息が荒くなった気がした。
彼は目が合うと、ゴクリとその喉を鳴らす。ギラついた目。鋏を投げ捨てる動作が荒々しくて、その異様な雰囲気に頭の何処かで警鐘の鳴る音がした。
「――なぁ……コイツのあの噂知ってるか?」
「噂?」
「そう噂。……体育倉庫で、男にヤられてたって話」
「マジで?うわっコイツホモだったのかよ」
ウゲーと一人が吐く真似をし、それに笑いが起きる。
だが目の前の男だけは、真顔のまま乾いた唇を舐める。
「な、なぁ…野郎でも、案外イケんのかな」
「はぁ!?冗談だろ?……まさかお前もソッチの趣味で――」
「ちげーよ!だけどほら……コイツって細いし、色白いし。顔だけは無駄に綺麗だから……案外イケるかもって」
そう言って、男は荒い息でNのシャツのボタンを外し始めた。その非・日常的な光景にNの頭は上手く働かない。周りの戸惑ったような空気。
打撲痕で痛々しい肌が露になった時、漸く自分の今からされる事を理解したNは抵抗を始めた。
力の入らない身体で弱々しく足掻き、細い腕で必死に暴れる。Nの初めて見せた抵抗らしい抵抗に男が怯んだ所を、手と足で床を引っ掻いて何とかその場から離れようとする。
四つん這いで逃げようとしたところに髪を掴まれ、頬を張られた。
先程までは流石に及び腰だった他の男達も、Nのその必死な様子に悪乗りして腕を押さえ付ける。
「やめろっ!」
一種異様な興奮状態に、その場が包まれた。今まで何をされても特に気にも留めていなかったNの、本気の抵抗を悦ぶ顔。囃し立てる顔。生理的嫌悪に歪む顔。顔、顔。
その中でただ一人本気で、獲物を前にした獣のようにギラつく目の前の男の、顔。
厳つい手に、身体をまさぐられる。気持ち悪い。やめてよ、こんな手は知らない。気持ち悪い、気持ち悪い。気持ち悪い。鳥肌が立つ。
嫌がるNに調子づき、他の男達まで自分の身体に手を伸ばして弄り出した。悲鳴を上げる口を押さえられ、目を見開いて首を振る。
やめろ。やめろ。やめて。お願いだからやめて。お願い。お願い。お願いします。必死に懇願するNが面白いのか、彼等はNの身体を執拗に嬲り――
中学の時も、こんな事があった。犯されたりは流石にしてないけど、やはり名前も覚えてない集団に暴行を加えられて。
あの時も今も、助けを求める名なんてひとつも無いのは変わらない。
いや違う。今は、本当はひとつだけ有って……だけど呼べない事には変わらなくて。
(助けて、トウヤ)
呼んだりしたら、きっとキミは鬱陶しがるから。
「――こんな所で何やってんですか、センパイ達」
冷えた呆れ声と共に、太陽の明るい日差しが漏れ込む。扉を開いたのは、たった今までNが考えていた丁度その人だった。
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埃っぽい空気が、外の爽やかな空気と混じり換気される。それと共に先程までの異様な熱狂も。
今この場を支配しているのは、重苦しいまでの沈黙と、気まずい空気。
先にその空気に耐え兼ねたのは、男達の方だった。
「な、なぁ。トウヤ、この事は――」
「もちろん顧問にチクらせてもらいます。俺、嫌いなんですよね……こういう集団で寄ってたかって一人を、っての」
「なっ――おい!てめぇ!」
「残念ですね……センパイ達、最後の大事な大会なのに」
気色ばむ男達に、彼は飽くまで本当に残念そうに"センパイ達と一緒に試合に出たかったんですけど……"と付け加える。一連の会話で彼等が同じ野球部に所属している先輩後輩の間柄だと知ったNは、働かない頭でただボンヤリとその光景を眺めていた。
「なぁトウヤ、俺達これが本当に最後の大会で……」
「頼むよ、これはちょっとした気の迷いだったっていうか」
「そうそう。俺はコイツがどうしてもって言うから――」
「なっ!テメー裏切るのかよ!」
「何が裏切りだよ。本当の事だろ!」
弁解から始まり、終いにはただの内輪揉めになった彼等の様子を、トウヤはただ冷めた目で見つめる。
諦めた彼が大きく溜息をつくまで、男達は不毛な罵倒を互いに浴びせあっていた。
「……今度あったら、本当に報告しますよ」
トウヤのその言葉に真っ先に反応したのは、先程までNの身体をまさぐっていたリーダー格らしき男だった。媚びた様な笑顔を浮かべ、"誓ってもうしない"とだけ告げると逃げるように部屋を出ていく。他の男達もそれに続き。最後の男だけがトウヤに「ちょっと速い球投げるからって調子に乗るなよ、1年」と吐き捨てて出て行った。
「何やってんですか、アンタ……」
呆れきった声と共に上から覗き込まれ、Nはその質問に対する正しい答えを模索した。
「……焼き入れ?」
「見れば分かります」
憮然とした面持ちで返され、また胸がチクリと痛む。トウヤは手を煩わされた事を怒っているのかもしれない。お人よしだから、見捨てられなくて来てくれたのかもしれない。結局答えなんか解らなくて、胸は今日も痛いまま。
まだ体が少し震えている。シャツのボタンを留めようとしたが、手の震えで上手く留められない。
小さく舌打ちしたトウヤが、下から順番に丁寧に留めていってくれた。
そのまま手を握られ、何とか壁に手をついて、トウヤに支えられて立ち上がる。
Nが身を起こした後も、何故か彼の手は離れなかった。
「……トウヤ?」
その手の意味を問うてみるが、彼はムスッとした顔でそっぽを向くだけで返事は返してくれない。
ただ繋いだその手に、少しだけ力を込められた。
(手、温かい)
いつだって、トウヤの手は温かい。彼がどんなに冷たい時も、機嫌の悪い時も。ボクの冷たい手と違って。
ふいに鼻の奥がツーンと痛くなって、目が熱いモノに覆われた。どうやら涙腺は壊れてしまったらしい。
トウヤに困ったような顔で"泣くなよ"と言われ、逆にその言葉で涙が溢れ出てしまう。
彼の手が、酷く不器用な手つきでNの頭を撫でた。
僅かな木漏れ日がさした薄暗い部屋に、幼い子供の様な嗚咽が響く。
Nが泣き止むまでの間ずっと、トウヤは何も言わず手を握っていてくれた。
2010/11/28