「キミのことが、好きみたいなんだ」
夕暮れ時の校舎裏、部活帰りの彼をつかまえてそう告げた。
どこか掠れた、みっともない声。すぐに自分が今酷くおこがましい事を伝えた気がして、"ごめんね"と付け加える。
彼は何も言わずただ無表情にこちらを眺めていたが、Nのその言葉を聞くと僅かに顔を歪めた。そうして、急にNの腕を掴みグイグイと引っ張って行く。
「ちょっ、トウヤ?」
突然の彼の行動に疑問符を投げかけたが、彼から返ってくる言葉は無かった。
夕日に染まった彼の顔が赤い。混乱した頭で今起きている事態を必死に処理しようとしても、理解出来るのは掴まれた腕が酷く熱いことぐらいで。
気付いたら、その足は体育倉庫に向かっていた。
彼はガラガラとその重い扉を開け、中から少し汗くさい据えた匂いが鼻をついた。
「……トウヤ?」
訝しげなこちらの声に返ってくる言葉は、やはり無い。
不意に自分の身体が何か強い力によって浮いて、マットの上に転がった。
トウヤによって押し倒されたと気付いたのは、彼が自分の上でボクのズボンのベルトを外し始めた時。怖いぐらい無表情な彼が、自分を見下ろしていた。
「え?ちょ、なに。何で脱がすの」
「……黙って、先輩」
変人、気味が悪い、電波と言われ続けて18年。そんなボクでもビックリしちゃう貴重な体験を、あの日しました。
――告白した後輩の男の子に、問答無用で犯されたという。
キミとボク
トウヤを初めて見たのは、放課後のグラウンドの端での事だった。
ボールがその成長途中の細い、でも力強い指から離れ、ミットに届く小気味よい音。いつも通り飼育小屋でウサギ達と和やかに会話し、その小さな世界――でも彼・彼女達にとっては全てに等しい世界――での出来事を聞いたり、相談に乗ってあげたりして。ようやく日も暮れてきたしそろそろ帰ろうかな。そう思って彼等に別れを告げながら飼育小屋を離れ、ふとグラウンドに差しかかった所でその光景に目を奪われた。
その指同様やはりまだ成長過程の細い、それでいて若い力に満ち溢れた少年が、酷く綺麗なフォームで拳大の小さなボールを投げる。風を切る鋭い、軽やかな音がして、ソレは気付いたらキャッチャーのミットに収まっている。
野球なんて今まで何の興味も無かった自分からしてみれば、ただのキャッチボール。ただそれだけの光景。だのに、ボクはソレから目を離すことが出来なかった。
またピッチャーの少年が、右手を振りかぶり、ボールを投げる。投げた拍子に一筋の汗がこめかみを伝った。彼は無造作にそれを袖で拭く。
ただ黙々とそれだけが繰り返され――どれだけの時間が経過したのだろうか、ふと彼が返球されたボールを、愛しげに自身の額に押し付けた。沈みかけの夕日がその全ての一連の動作を朱く染める。
本当に、ただソレだけのこと。
だけどその瞬間湧いた強烈な羨望を、多分ボクは一生忘れない。
あの日から、一度も言葉さえ交わした事の無い彼が何故か気になり始めた。気付いたら、彼の姿を目で追っている。
とりあえずクラスに友人といった存在は皆無なNが教師のアデクにそれとなく尋ねてみると、いくつか分かった事があった。
ひとつ、彼は"トウヤ"という名前で1年生らしい。
ひとつ、彼――トウヤは野球部のエースで1年生の間では結構有名な存在らしい。
ひとつ、トウヤは頭の方は余りよろしくないらしい。これはNとトウヤの仲が良いと勘違いしたらしいアデクに「時間があったらお前さんが勉強を教えてやってくれ」と冗談混じりに言われた事で知った。
Nは彼を見掛ける度にその一挙一動を目で追ってしまっていたが、その殆どがグラウンドでの彼だった。授業中、ふと窓の外を見て体育の授業を受けている彼を見つけた時。昼放課、友人とふざけてサッカーをしているのを見掛けた時。そして放課後、黙々と野球部のユニフォームを着て練習しているのを、ただぼんやりと眺めていた。それだけで、何となく幸せな気分になれるから。
極たまに廊下で擦れ違いざま視線が合う、なんて事もあったが、訝しげな顔を返されすぐに目を逸らしてしまった。
いずれにせよ、彼はいつ見ても周りに人がいた。登校時、放課中、お昼時、放課後、いつだって。
彼の何がそんなに周りに人を寄せつけるのだろう。少し観察していて分かったが、彼は決して人付き合いも愛想も良くない。それどころか、いつ見ても不機嫌そうにしているか口の端を歪めて皮肉げに薄く笑っているかのどちらかだ。
本当に、何で皆あんなに彼の事が好きなんだろう?
最も、そんな彼が気になって仕方がないNも人の事は言えないのだけれど。
そんなただ一方的に見てるだけの関係に終わりを告げたのは、彼を初めて見てから一月ぐらいが経過した頃だっただろうか。
帰り際、カバンの中に教科書を仕舞っていると、ふと化学の教科書が見当たらない事に気付いた。
多分今日の化学は実験室だったから、移動教室の際に忘れたのだろう。慌てて取りに行こうとして、教室の入口に見覚えのある少年がいる事に気付いた。
ドクリと、鼓動が高鳴った気がした。
思わずNが教科書の事も忘れてその場に佇んでいると、その教室に用事があるらしいトウヤは、誰かを探すように中をキョロキョロと見回していた。一体、誰を探しているんだろう?
"良かったら呼んできてあげようか?"そう声をかけるべきか迷っていると、先にこちらを振り向いたトウヤが「あ…」と声を上げた。そのまま、こちらに近付いてくる。
気付いたら、彼はもう一歩詰めれば手が届く距離まで歩み寄って来ていた。顔に熱が集中するのが、何故か抑えられない。
「な、なにかな……」
顔を俯かせ、声が震えそうになるのを必死に抑えながら尋ねる。
すると、トウヤは憮然とした面持ちで見覚えのある教科書を差し出してきた。裏側には"N・ハルモニア"の文字。
「これ、先輩のですよね」
「あ、本当だ!…キミ、わざわざ持ってきてくれたの?」
「感謝してくださいよ。本当に"わざわざ"アホみたいに面倒臭い四階まで上ってきたんですから」
その一応丁寧なものの偉そうな態度と言葉はとても先輩に対するモノとは思えないが、確かに普通なら同学年でもない生徒の落とし物など放っておくか、精々落とし物箱に突っ込んでやっておくのが良いとこだ。わざわざ1年の教室からは遠い四階まで届けに来てくれるなんて、相当なお人よしだろう。
ああ、なんだ。
――漸く、腑に落ちた気がした。
ああ、だから彼の周りにはいつだって人がいるのか。だから、ボクも――
「……ありがとう」
自然と頬が緩んだ。たぶん、今ボクはみっともないぐらいフニャフニャ笑っている。
こちらを見上げていたトウヤの顔が何故か驚いたように固まり、次第に頬を赤く染めていった……気がした。確証を得られなかったのは、彼がすぐに俯いてしまったからだ。
トウヤはぶっきらぼうに「べつに教科書届けてやったぐらいでそんな……」等とブツブツ呟いた後、呆気に取られるこちらに怒った様な声で
「じゃあ、俺は確かに届けたんで!」
とだけ告げて立ち去ってしまった。
……なにか、怒らせる様なことしたかな?
当初は何か嫌われるような事を言ったのかもしれないとハラハラしていたけれど、どうやらそれは杞憂に終わったみたいだ。
それ以来トウヤは度々Nに話し掛けてくれるようになった。例えば偶然廊下ですれ違った時とか。こちらの視線に気付いた時とか。どうでもいい話を、とりとめもなく。
自分の気持ちにはもう気付いていたけれど、それをトウヤに伝える気は無かった。それが迷惑なだけだなんてこと、流石のボクにだって解ってたから。
そんな風に、時折話してくれるだけで充分幸せで。
……それだけで良い筈だった。だけど、知らず知らずの内に自分はそれ以上のモノを望んでしまっていたらしい。
だからあの日、部活帰りの彼を呼び止め自分の想いを彼に告げた。それを聞いた彼が、自分に何をするかなんて想像もしないまま。
**************
下校を促すチャイムが鳴り、物思いから覚める。時計を見ると短針がピッタリ"6"の数字を指していた。随分と長い間考え込んでいたようだ。
(トウヤ、もう部活終わったかな)
教科書以外ほとんど私物の無い荷物を纏め、適当にカバンの中に入れる。
梅雨時のせいだろうか、校舎を出ると初夏にも関わらず少し肌寒かった。
両腕を擦りながらグラウンドを回り込み飼育小屋に向かい、いつも通りそこにいるウサギ達にサヨナラの挨拶をする。途端、一斉に駆け寄って自分に話し掛けてくるこの小さな世界しか知らないイキモノ達は、いつ見ても可哀相で、可愛い。
ひとしきり和んだ後は校門に向かう。これもいつも通り。
だけどいつもそこにいる姿が今日は無くて、心底ガッカリする。他の子と帰っちゃったのかな、部活が終わってるのはさっき飼育小屋の帰りに確認したし。
(そもそも、約束してるわけでもないし。)
――と、ふいに後ろから思い切り髪を引っ張られた。
「いっ…たぁ!?」
「遅いです、先輩」
「ちょ、その先輩にキミは何してるの!?」
ハゲるハゲちゃう!そう叫ぶと、ようやくトウヤはNの後ろで括った髪から手を離してくれた。
そのまま呆然としているNには"行こう"とも"帰ろう"とも言わず、さっさと歩き出す。
……約束は、していないけど。
待っていて欲しいと言われた訳でも、帰る時間を告げられた訳でもないけど。
だけど何も言わずこうやって待っていてくれるから。ボクが彼の部活が終わるまで帰らない事にも何も言わないから。だから勝手に、一緒に帰っても良いんじゃないかなって、そう思ってる。
やっぱり、梅雨時の夕方はちょっと寒い。
手を繋ぎたいなんて言ったら、怒られるだろうか。
トウヤと一緒に帰って、彼の家に連れ込まれる頻度は実に3回に1度。母子家庭で母親がパートに出てる彼の家には、大抵の場合帰っても誰もいない。
「とっ…やぁ!もっ…むりだか、ら」
「もうちょっと我慢して、先輩」
本来の性別を捩曲げられて、トウヤの下で喘がされる。
痛い、辛い、苦しい。何で子孫を残す訳でもないのに、みんなこんな事をやりたがるんだろう。揺すられて、息が詰まって、頭がガンガンして、どこもかしこも痛くて。
だけど、自分は始める前に絶対に抵抗をしない。だってトウヤは、この行為の最中だけは信じられないぐらい優しくなる。
Nが驚くぐらい丁寧に前戯をして、指で優しく後ろをほぐしてくれて、あんまり痛がると一旦止まって様子を窺ってくれて。それが心地好くて、いつも何をされたって大人しくしている。痛いのなんて、今だけだから。これが終われば、きっとトウヤも前よりちょっとはボクの事を好きになってくれているから。そう自分に言い聞かせ、苦しいのが終わるのを待つ。
それに、本当は痛くて苦しいだけでもないんだ。
潤む視界を拭って何とか顔を上げると、頬を上気させ息を荒くし、耐える様に顔を歪めるトウヤが視界に入った。
――この顔が、好きなんだ。
ボクで気持ち良くなってくれてるって実感出来る、この顔が。
この表情を見ると、満たされる、安堵する、幸せになれる、嬉しくなる。
だから、きっとこれで良いんだ。
***********
「ただいま」
気怠い身体を引きずって、なんとか自身の家まで辿り着いた。形式的な挨拶に"おかえり"の言葉を返してくれる人間は、誰もいない。
冷蔵庫から適当にレトルト製品を取り出し、温める。本当は自炊した方が良いのだろうが、とてもそんな気力は湧かなかった。
……そういえば、ゲーチスの姿を最近見ないな。
また出張にでも行っているのだろうか。あの人がいてもいなくても最低限の会話さえしないのは変わらないから、気付かなかった。
昔から、Nの父親はNに対しての関心が全く無かった。自分が幼い頃はネグレクトだ何だと近所で騒がれていたらしいが、大体の事は自分で出来る今となってはただの放任主義な親でしかない。
(……最後にゲーチスと話したの、いつだっけ)
ああ、確か、三者面談の時だ。担任を相手にした彼は、まるで別人の様に愛想を良くしていた。
その時の彼の顔や声を思い出すと何故だか酷く空虚な気分になって、解凍したばかりのレトルト製品をまたラップで包み冷蔵庫に戻した。
幼い頃は、それでもゲーチスの気を引こうと必死だった気がする。認められようと。
だけど成長するにつれ、それが無駄でしかない事に気付いて。認められたいと思っているからこそ辛い事に、気付いて。
いつしか、ボクはあの人の事を"父さん"じゃなく"ゲーチス"と呼ぶようになっていた。ゲーチスも、それを気にも留めなかった。
ボクがあの日、夕暮れ時のグラウンドであそこまでトウヤに見惚れたのは、何かひとつ――ただただ愛しいモノのある彼が羨ましかったからかもしれない。
2010/11/25