18.
<春> ×月××日 快晴
結局、大した収穫もないままフキヨセシティに戻ってきた。
アララギ博士やジムリーダーに協力を仰げばもっとまともな情報も入ったのかもしれないが、そこまでするほどに強い動機はなかった。俺にとってはやはり、現実味のない夢物語としか思えない。ただNの言葉が、まっすぐな強い瞳が、妙に俺の胸をざわつかせた。
しかし、いつまでもそんなことに拘ってもいられない。ジャローダの件もあり、この街に来てからずいぶんと経つ。こんなに一つの場所で足踏みをしていたのは旅に出てから初めてかもしれない。悪くはなかったが、やはり旅を続けたい。
7番道路で図鑑の残りを埋めたら、すぐに次の街に行こう。
そう思い、草むらを掻き分けていた先に、Nがいた。
生い茂る草むらの奥、ちょうど人目につかない木陰のベンチに、ひとりポツンと座っている。
表情は陰になってここからでは見えないが、こちらに気付いている様子もない。待ち構えていたわけでも、尾けていたわけでも、草むらに潜んでいたわけでも、ポケモンに喋りかけていたわけでも、一本橋から落ちてたわけでもない。
普通だ。
普通の状態のNというものに遭遇したことのなかった俺は、逆に反応に困った。普通とは。
そこそこ久しぶりに見る姿に、話しかけようかとも思ったが、そんな義理はないだろと思い直す。
進んできた草むらの道を取って返し、図鑑埋めに精を出した。
高かった日がだいぶ傾いたころ、成果に満足していた俺は、先程のNの様子を思い出した。今までのNと比べればなんてことない姿だったはずが、不思議と目の奥に焼き付いている。まさかとは思いつつも、向かった先。
同じ場所に、Nはいた。
先程と全く同じ姿勢で、何時間ものあいだなにもせず、ただ座り続けている。これは本当に、普通なのだろうか。
ふと、緩い空気を一掃するような強い風が吹いた。一瞬だけNの顔が露わになり、その表情に瞠目する。
考え込むような、思い詰めたような。いや、というか、これは、
落ち込んでいる?
あのNが?
放っておいた方がいいと、俺の賢明な第六感は告げた。
つい最近確信したばかりだ。こいつは厄介だらけのプラズマ団の中でも最も厄介な存在であると。口だけポケモン愛護団体の他の団員共より、よほど。それがどういうわけかいつのまにか勝手に落ち込んで、項垂れている。例の荒唐無稽なレシラム計画が上手くいかなくて頓挫したのだろうか。先日までのバイタリティはないように見える。ついでにここ最近ストーカーも止まっている。
予感があった。いずれこいつはストーカーなんぞ比じゃないぐらい、俺の頭を悩ませることになると。だから、勝手に悩んで止まってくれるなら、それで、
そんなことを考えていたはずなのに、気付いたら俺の足は勝手にベンチに向かって、Nの横にドカリと腰を下ろしていた。
「トウヤ…?」
振動に、Nが顔を上げて不思議そうにこちらを見る。俺だって不思議だよ。
なんでこいつを放っておけなかったかわからない。わからないから、当然話すことなんてない。
Nがいつもの通りトモダチだの黒と白だの数式だの英雄だのベラベラ喋り出すことを期待して待ってみたが、あいつは数度瞬きすると、押し黙ってまた俯いてしまった。気まずい。
仕方がないので、俺も黙ったままNの横顔をじっと見る。長い睫毛が頬に影を落としていて、パチリと瞬きするたびそれが動く。そのまま数分ほどなんとなく観察しイケメンは横顔もイケメンだななんて考えていると、さすがに耐え兼ねたのかNがぽつりと口を開いた。
「先日、電気石の洞窟でキミと闘ったときのことなんだけど…、」
「おう」
ずっと待っていたせいか、思ったより優しい声が出た。それが気恥ずかしくてなんとなく横顔から視線を外したが、Nは構わず続けた。
「あの日、ボクはいつもの通り、キミと闘うために力を貸してくれたトモダチにお礼を言って別れを告げた」
「あー…、やっぱお前、俺と闘うたびにそのへんに住んでるポケモン出して終わったら逃してたんだな」
「ああ……彼らをボールに閉じ込め続けておくことなんてできないからね。──だけど、あの日は少し困ったことがあって」
「困ったこと?」
「彼らのうちの一匹…ギアルがね、ボクとどうしても別れたくないと言いだした」
「そりゃ…」
思わず、Nの顔をまたまじまじと見つめる。
「不思議な話だよね。……そのときは、結局彼を説得して穏便に別れたよ。彼も納得したのだろうと思っていた。だのに…」
Nはそこで言葉を区切ると、小さく息を吐いた。
「彼は、僕の後をつけていたんだ。それに気付いたのが一昨日。理由を聞いたら、彼はこう言った──“やっぱりキミとずっと一緒にいたい”のだと」
ストーカーにストーカーが…。思ったが、話の腰を折りたくないので続きを促した。
「それで?どうしたんだよお前は」
「もちろん、もう一度説得して帰ってもらったよ」
「ストー…ついてきてまで、お前と一緒にいたいって言ってたのに?」
「…───」
Nは俺の問いに肩を揺らしたが、すぐに固い声で返した。
「……当たり前だろう。ポケモンには、ポケモンの住むべき素晴らしい場所があるのだから。彼らのあるべき穏やかな生活が」
まるで自分に言い聞かせるように。
そのギアルは、その素晴らしい場所や穏やかな生活とやらを捨てでもお前と一緒にいたかったから、後をつけ回したんだろうに。いつかのオタマロが飛び込んできたボールの震える感触を思い出し、左手を軽く握る。
ポケモンを野生に返すトレーナーだって珍しくない。その考え方が一概に間違っているとも思わない。けれど、そこに何の葛藤もなかったら、Nだってこんな表情はしていないだろうに。ポケモンをトモダチとまで評しておきながら、なぜそこまで頑ななのか。
そうも苦しそうな表情をしながら、なぜ…──
「なぜ…なんだろうね」
「あ?」
声に出していたのかと、沈みかけていた思考から浮上する。Nは、俺にかまうことなく続けた。
「なぜ、ヒトと一緒にいたいなんていうポケモンがいるんだろう」
沈んだ表情のまま、俯いて疑問を投げる。光がないくせにいつも俺をまっすぐ見据えてくる瞳は、今日は伏せられたままだった。だから俺は、横顔を眺めるしかない。
「…最初は、キミが特別なのかと思った」
特別。前にも似たようなことを言われた気がする。確か、ニュートラルな存在だとか選ばれただとか。意味は全くわからないが。そのことだろうか。
「だから漠然とだけど興味を抱いた。ヒトに興味を抱いたのなんて初めてだからどうするべきかよく分からなくて、とりあえず身近な人間が興味対象を探ろうとする場合──ダークトリニティの尾行調査を参考に、キミをつけることにした」
「え?ダークトリニティ参考でお前ストーカーしてたの?マジ?」
「ああ…それを伝えたらなぜか彼らは苦虫を噛み潰したような表情をしていたけどね。彼らのあんな表情初めて見たよ」
そりゃ…自分の上司に自分たちを参考に男のストーカーをしてるなんて言われたら苦虫を噛み潰したような顔もするだろうな。得体の知れないとばかり思っていた男達に少し同情心がわく。よく考えたら洞窟でも結構可哀想だったなあいつら。
「あまり成果はなかったけれどね…最初は、キミが特別なのかと思った。今でも、キミはやはりある種特別なままだ。けれど、」
「けれど?」
「けれど、キミをつけながら旅をするたび、このイッシュには多くの──…」
コイツ、もう普通にストーカーしてること話してくるな。思ったが、やはり話の続きが気になったので俺は黙って聞いた。
しかし、Nはそこで言葉に詰まると、目を閉じ首を横に振ってしまった。
「疑問は深まるばかりだった…。だから、ゲーチスに以前教えてもらった方法も試そうとしてみたんだ。だのに、キミはそれを拒絶し…」
「いやするだろ、拒絶。俺が悪いみたいに言うな」
「疑問は解決しないばかりか、あれ以来キミといたりキミのことを考えたりすると、謎の動悸にまで悩まされるようになった…」
謎の動悸…。謎の動悸な…。妙に心当たりのあるその言葉に、俺の心臓もなんだかざわつく。いやなんだこれ。
鬱陶しい動悸をなだめながらNの言葉の続きを待ったが、Nはそれきりまた押し黙ってしまった。
俯いたままこちらを見ない瞳、沈んだ表情、強張った肩。その全てと場に落ちた長い沈黙が、ますます心臓を落ち着かなくさせる。
あーだのうーだの呻きながら、俺は深く考えることもなく、浮かんだ言葉を投げかけた。
「なんでポケモンが人と一緒にいたいのかって…そりゃ、ポケモンが人と一緒にいて幸せだからじゃねーか?単純に」
俺たちがポケモンといて、楽しいのと同じように。
「幸せ…?」
ギシリと、Nが手をついたベンチが軋む。
Nの瞳が今日初めて、俺をまっすぐ射抜いた。怒りか、非難か、いずれにせよあまり良いとはいえない感情だ。それにたじろぐよりも、どこか安堵を覚える。
向けられた視線を、しっかり見返した。
「彼らが幸せかどうかなんて、そんなものヒトが勝手に決めつけているだけだ。彼らの意志を無視して、捕まえて、押しつけて──」
「じゃあ、お前から見てどうなんだ」
「え……?」
「聞こえるんだろ?ポケモンの声が。なんて言ってるんだよアイツらは」
「───…」
Nは小さく息を呑み、やがて肩を落としてまた視線を伏せた。
そのNとは到底思えない弱々しさに、今度は心臓が嫌な跳ね方をする。
違う、そうじゃない。なにも言いこめたかったわけでも、そんな顔をさせたかったわけでもない。そうじゃなくて、俺はただ、
「その、お前だって…」
いや違うか。言い換える。
「お前のポケモンだって──お前といて幸せだったんだろ?なんせ“トモダチ”っつってるぐらいだし」
それは、ほとんど確信に近い問いだった。コイツの普段のポケモンへのラブっぷりや、ポケモンと接するときの態度。オタマロや例のギアルなど一時的に接したポケモンからも懐かれ、本来警戒心の強いジャローダからもあっさり俺の個人情報を聞き出す。言ってみりゃ、相思相愛だ。そして“トモダチ”というからには当然それを自覚しているだろうと。
だから、Nの返答は、心底意外なものだった。
「わからない…」
「え?」
抑揚のない声に、思わず聞き返す。
肯定でも否定でもなく、“わからない”。本当に意外な返答だった。日頃から「ボクにはポケモンの話していることがわかる」とまるで自分がポケモンの1番の理解者であり代弁者であるとでも言いたげな振る舞いをしている奴の答えとは思えない。
眉間のあたりに力がこもるのが分かった。覗き込み、帽子の陰になっているNの表情を窺おうとする。それが視界に入っているのか入っていないのか、Nはポツポツと続けた。
「ボクが今まであの部屋で会ったトモダチは、みんな心を閉ざし悲しんでいた。ヒトがこわくて、ヒトが憎い。ボクはなんとか彼らを慰めたくて、思いつくこと、できることはなんでもした。彼らがボクを嫌いでも、ボクは彼らが大好きだったから。言葉を尽くし、抱きしめて、遊んで、笑いかけて。……けれど、彼らの目は暗いままだった」
「………」
「中には、アリガトウと言ってくれたトモダチもいた。ボクにだけは、心を開いてくれたトモダチさえ……だけど、それでも、」
「幸せにできたのかは、わからない」
Nは、相変わらず俯いていて表情も陰になりよく見えない。それでもその硬い、絞り出すような声に、心臓がまた嫌なざわつき方をした。
“あの部屋”とNは言った。そんなポケモンばかり集められた場所なら、虐待されたポケモンを保護するセンターか何かだろうか。聞いたことはないが、ありそうな気がする。
どういう事情かは知らないが、そんなポケモンと接する機会が多かったなら、Nの思想や主張の一端は理解できなくもない、気がした。共感はできないし、それ以外のポケモンと触れたことがないわけでもないだろうに、とは思うが。
けど、それにしたって。
そこまでポケモンを強く想いながら、ソイツらの傷に心を痛めながら、言葉を理解しながら。
それでも一緒にいたポケモンを幸せにできたかさえわからない。
それは、なんか。
なんか、すげえ淋しい気がした。
「けれど、それももう終わりだ。……ボクは、ボクのやるべきことをやる」
とうとつに、Nは顔を上げた。表情は、まだ浮かない。しかし視線はもう伏せなかった。意志の強さをそのままに映した瞳が、まっすぐにこちらを見る。
「彼らの悲しみ。彼らの苦しみ。彼らの怒り。叫びも嘆きも誰にも聞き届けられず、聞こえたのはボクだけだった。ボクだけが知っている。だからボクが、やらなければならない。ポケモンをヒトから解放し、彼らを完全な存在にする。そうして白と黒がハッキリ分けられた世界、それが──」
ほんの一拍喉につかえたようにNの唇が震えた、ような気がした。けどそれは結局吐き出された。
「それこそが、彼らの本当の幸せなんだ」
自分だけが知っている真実を胸に、理想を追いかける。
やっぱりコイツは、厄介だと思う。
翻ることのない固い意志。そのくせ、いちいち苦しそうな表情をしてみせるから、なぜと思ってしまう。
そうなるほどに、なぜ。
胸をうずまく焦燥めいたものに、呻く。頭を抱えた。するとすぐに、ボールの入った鞄がカタカタと揺れだす。
大方俺の体調が悪いとでも思って心配したのだろう。以前にもあった。安心させようと苦笑してポンポンと鞄を叩いていると、Nがその光景に目を細めた。
ああくそ、そういうとこだよ。ポケモン解放だのなんだの言って、別離こそ幸福だと信じているくせに、こんな時にそんな表情をしてみせるから。
だから俺は、
俺の心を揺らがせるほどの一貫した理想を持ちながら、Nの言動はいつも支離滅裂だった。
ポケモンを傷付けるトレーナーバトルを嫌いながら幾度も俺に勝負をしかけ、ポケモンと人間は切り離すべきだと言い切りながら、俺のことを──やり方はともかく──理解しようとする。矛盾だらけの言動、けどそれでもいつもまっすぐに感じたのは、その裏にポケモンへの揺るぎない想いがあったからだ。
俺とポケモンの絆を見て、Nは驚き、戸惑いながらも興味を抱いていた。それを理解しようとし、引き離すことには心が痛むと。きっと他のトレーナーとポケモンに対しても同じだろう。そうだ、いつだってNは、ポケモンと人は別れるべきだと言いながら、その実、人とポケモンの絆を信じたがっているように見えた。だからこそ俺は、プラズマ団の王などと告げられようと、部下を従えている様をこの目で見ようと、どうにも他の団員と同一視できなかった。
ホドモエの跳ね橋で、Nは傷付いたコアルヒーに手を伸ばしていた。人に怯えて拒絶するコアルヒーに攻撃されても、何度も何度も自分が傷付くことも厭わずに。伸ばされた手に躊躇はなかった。きっと件の部屋だかセンターだかのポケモンに対しても、同じように真剣に向き合っていたんだろう。
それほどまでポケモンを想いながら、俺とポケモンの絆を見て喜ぶ心を持ちながら。このイッシュ全てのポケモンと人の絆を踏みにじることになってでも、ポケモンと人間を切り離すことこそがアイツらの幸せなのだと信じ。白と黒しかないと信じ。そのくせ一緒にいたポケモンを幸せにできたという自信も持てない。
そうなるほどに、
何を見てきた?
何を見て、何を感じ、何を知り、どうやって生きてきた?
知りたい、と思ってしまった。
こいつが今まで何を見てきたのか。何を想って生きてきたのか。全部。
こいつがとんでもなく世間知らずな言動をしたり電波を撒き散らすたびに、どんな育ち方したんだとか、親の顔が見たいだとか、そんなことは常々考えていた。
だけど今俺の中で痛みすら感じるほど胸にうずまく焦燥は、たぶんそういったものじゃない。
知りたい。
こいつの心の痛みを、俺は知りたい。
先程聞いたNの話で、一端の理解はできた気がした。しかし、納得はできない。
聞きたかった。コイツの話を、過ごしてきた時間を。
だから、
「なあN、お前は…──」
「ありがとうトウヤ、じゃあボクはもう行くね」
「は!?」
俺が決意を固め、Nに問いかけようとする。その時だった、Nがやおらベンチから腰を上げたのは。
マジかよコイツ。今俺話しかけてたじゃん。なにが“ありがとう”で“じゃあ”なんだよ。唐突に来て、唐突に去る。ある意味それがNらしいのだが、常になくしおらしかったNに、俺は完全に失念していた。
喉元まで出かかっていた言葉が、完全に宙に浮く。
激しく動揺する俺をよそに、Nはベンチから腰を上げると、こちらに向き直った。
「もう、気持ちの整理はついた……悪かったね、付き合わせてしまって」
凪いだ声で、珍しく謝罪なんて告げる。強がりではないんだろう。表情はいまだ晴れたとは言いがたいが、その瞳にはいつも通りの意志の強さがあった。しかしそれがますます、焦燥を強くした。
歯牙にもかけず、Nは踵を返そうとする。
俺は、その時ひどく焦っていた。
俺は知っている。コイツは自分の話したいことだけ話すとさっさと消えてしまう、人の話を聞かない奴なんだ。
そしてなぜか、本当になぜかその時、俺には確信めいた予感があった。今を逃せば、もう機会はないと。根拠もなくそう思い込んでいた。
「……っ、待てよ!!」
だから追いすがるように強く腕を掴んでしまったのは、ほとんど無意識、反射のようなものだった。
掴んでから、我に帰る。なんでこんな必死なんだよ俺は。
Nもさすがに止まり、こちらに半分ほどからだを向け直した。怪訝そうな気配が、見なくてもわかる。
「…どうしたの?」
「あ、いや…、」
返すべき答えは、なかった。無意識なのだから。
聞くべきだろうか。知りたいことを。しかし唐突に水を向けたところで話すだろうか。帰る気満々のコイツが。
掴んだまま固まる俺に、Nは怪訝そうな気配を深める。軽く腕を引かれる、放せということだろう。
何度も書くが、俺はその時不思議なほど焦っていた。
引き留める理由がほしかった。しかし世間話も通用しない相手に、どうすればいいのか。旅を始めてからのほとんどの時間を(一方的に付け回されて)共有しているにも関わらず、俺はNのことをなにも知らない。それこそ本名すら。
クソッなにが心の整理がついただよ。ひとりで勝手に納得してんじゃねーよ。こっちはぐちゃぐちゃなんだよ。
焦燥が胸を焼いた。だからそれも、ほとんど無意識だった。
鞄の横。伏せた視界にそれが入り、数秒間ジッと見つめる。そしてほとんどなにも考えずに、手早く片手でそれを外した。
すっかり困惑しているNの顔を、見上げる。
「……その、これやる」
強い焦燥のそのままに、突き出す。Nが思わずといった様子で白い手を差し出し、押し付けるようにそれを渡した。
やはり思わずといった様子で受け取ったのを確認し、ようやく掴んでいた腕を放す。
Nは目の前までそれを持ち上げると、ぱちりと瞬きをした。チリンと、白い手の中で高い音が鳴る。
「これは、鈴…?なんでこれをボクに?」
Nは喜ぶでも嫌がるでもなく、純粋に不思議そうだった。当然の反応だ。
ぶっちゃけ、とくに理由なんてなかった。ただそれを目にしたとき、音が鳴るたび心地よさそうになついてくるポケモンの姿をなんとなく思い出したのだ。そして、トモダチを幸せにできたのか解らないというNの言葉を。
だが当然、こんな鈴ひとつでコイツの人生をかけた悩みが解決するはずなどない。鈴を渡したのはやはり思いつきとも言えない衝動でしかなかった。
「これは、その…『やすらぎの鈴』つって、ポケモンが安心する音を鳴らす鈴なんだが、親切な婆さんに余ってるからって二つ貰って、」
「うん」
「でも俺は二つもいらねーから」
「うん、…うん?」
Nは俺の苦し紛れの説明に相槌を打ちながら、緩く首をかしげた。
「それで、結局なぜキミがこれをボクに渡すことになるんだい?」
「いや、だから、その…」
鈴を目の前で揺らしながら、怪訝そうに眉を寄せられる。難解な高等数学でも目の前にしたような──もっともアイツはそれが大好きみたいだが──様子で尋ねられ、ますます言葉に詰まる。
だから、理由なんてとくにないのだ。ただあいつを引き止めて聞きたいことを聞く理由が欲しかったのと、それと、
「お前が、元気になったらと思って、」
ぽかんと、Nが目も口もまんまるに開いた。間抜けだ。イケメンでも間抜け面は間抜けらしい。だが俺だって、負けないくらい間抜けだ。
頬に熱が集まるのがわかる。そうだ、俺は目の前のこいつに元気になってほしかった。だから痛みの理由も知りたかった。コイツのことを知りたいと。厄介だと思ってるにも関わらずだ。そして焦って、突拍子もない行動に出た。
なぜ自分がそんなことを思うのかわからない。わからないから、焦りばかりが募っていく。
『いらなかったら、お友達にでもあげてね』
あの鈴を渡されるとき、そう言われた。ひょっとして、俺はNと友人になりたかったんだろうか。友人になりたいから元気付けたいと思ったり、知りたいと思ったり、果てはバレバレの下手くそな尾行がない日は物足りなくなったりするのだろうか。それはもっともらしい理由の筈なのに、なのにどこか腑に落ちない。だって俺は、チェレンにもベルにもこんな感情を抱いたことなかった。他の誰にもなかった。なのに何で。
考えれば考えるほど間抜けなことをした気がした。Nだって困惑しているだろう。思わずやはり返せと手を伸ばしかけ、視線を上げ──そこで見たものに固まった。中途半端に手を伸ばした姿勢のまま、ただ目の前の顔を呆然と見上げる。
Nは、笑っていた。
いつもの何を考えてるのかわからない薄い笑みじゃない。初めてコイツに好感を抱かせ、なのにここ最近はなぜか見るたびモヤモヤしていた、ポケモン絡みのときにだけ見せる透き通った笑みとも少し違う。
どこか困ったように眉尻をすこし下げ、そのくせ唇は嬉しそうに弧を描き、頬を上気させていた。それは今まで見たどの表情よりも一番人間らしくて、そして、
チリン、と鈴が鳴る。Nは確かめるように鈴をひとつ振ると、俺を見て、鈴を見て、また柔らかく破顔した。
「そっか」
静かに、噛み締めるようにゆっくりと。いつもの早口なんてほど遠い。
べつにこんな鈴ひとつ、こいつにはなんの役にも立たないだろうに。
春の日差しに照らされて、細められた緑の目も、後ろで揺れる萌黄色の髪も、なんだか全部、優しい色に見えた。
ポケモンのためのものではない。俺だけに向けられた、笑みだった。
宝物をもらった子どものように、その指が鈴を包み込む。その全てを、息を止めて見つめた。
「ありがとう」
また鈴が、あいつの手の中でリンと鳴る。聴き慣れた音。初めて聴く音。
ようやく吐き出した息は、自身の感情への動揺で震えていた。
鈴をぎゅっと握る手が、妙にいじらしく、かわいく見えて。
キスしたいと思った。
そんな馬鹿な