「もし、空を飛べるようになったとしてさ。」
「...はい?」




ふたりで暮らすマンションのリビング。
早めに仕事が終わり高専から一緒に帰宅して、夕飯を食べて。今日は可憐が全て夕飯を作ってくれたので私が洗い物をしていると、ダイニングテーブルに座って本を読んでいた彼女がふと顔を上げて、突拍子のないことを言い出した。






「建人に羽が生えたら、金髪だし天使みたいね」
「....どうして人間の姿のままの設定なんですか。鳥に生まれ変わるとか、そういう話ではないのですか?」
「えっ、そうなの?」
「流石に貴女がどういう経緯で、空が飛べたとしてという事を考えているかまでは分かりませんが、空を飛べるとしたら鳥になったらとかその手の話が多いのではないですか?」

「ふーん、そっかぁ..」




少しだけ不満げに、本を閉じて頬杖をつきこちらではなく窓の外に目を向けて可憐は何かを考えているような顔をする。





「その本に何か書かれていたんですか?」
「ん?あぁ、これ?
これは、パイロットを目指す人の小説。」
「成程。」

「僕は思う。何度だって。


何度も練習して、体に染み込ませた操作を滞りなく行って機体がゆっくりと地上を離れて飛び立つ瞬間に、あぁ、僕は空を飛んでいると。小さな頃から憧れた空へ、飛び立っている。」



こちらを見るでもなくスラスラとどうやら暗記しているらしい小説の一節を可憐が声に出した。それを聞きながら洗い物と並行しながら淹れていた珈琲をお揃いのマグカップに入れて彼女の向かいに座る。







「小さい時から空を飛びたくて、いろんなことを試すの。体に風船くくりつけたり、急な坂から駆け降りてみたり。それでパイロットを目指すようになるって話なんだけどさ。」
「あぁ..その小説何度か読んでますよね。」
「うん、気に入ってるの」


ことんと音を立ててマグカップを置けば、柔らかい笑顔に礼の言葉が添えられる。両手でそっとマグカップを持ち椅子にゆったりと寄りかかる可憐と目が合う。





「高専の時にさ、傑の空を飛べる呪霊に乗って飛んだことがあるんだけどね」
「それ..後日学長にバレて全員でこっ酷く叱られていませんでしたか?」
「そーそー!サイレンなっちゃうから高専の敷地内じゃないところで出したんだけど、目撃情報が出ちゃったりとかでさ」
「学長の心労をお察ししますよ。」


「あははっ。

でさ、実際飛んでみたら上に行っても行っても限界がなくて、空はずっと上まで続いてて、わたしなんか怖くなったんだよね。

もっとただただ気持ちがいいもんだと思ってたんだけど。」

「想像とは違いましたか?」
「夜だったのもあるのかもしれないけどね、なんか気持ちいいなぁっていうのもあったけど、何処まで続くんだろうって少し怖かったの。

だから、わたしは案外空を飛べるようになっても飛ばないかもなぁ。」



「建人は?」と聞かれ、珈琲を飲みながら少し考える。鳥になるわけはなく、空を飛べるようになるとしたら。




「私も、可憐と同じように案外空は飛ばないかも知れませんね。」
「どして?」
「貴女はふらっと、何処かに行ってしまうからちゃんと手を繋いでいなくてはなりませんから。」






可憐の目を見てそう言えば、肩をすくめて舌を出す彼女の目が合う。






「迷子になる子供みたいに言わないで」
少し不満げな色が乗るその声は、いつもより少しだけ幼くて愛おしいなんて思ったことは今は秘密にしておこう。







原色に近い空の色









「つっかれたーーーー!!!!」

伊地知くんの運転で、任務から傑と共に高専に戻る。車で行ける範囲だったがそれなりに難易度の高い任務は身体にしっかり疲労感を与えた。高専に着くなり、傑は別の任務の打ち合わせがあるとのことで車を降りると軽くわたしと伊地知くんに声をかけて足早に校舎へと入っていった。



車から降りて伸びをして、傑の背中を見送りながら少し大きめの声を出すと少しスッキリする。朝早くから任務に行っていたが、もう空は夕方のオレンジ色に染まっている。

運転席から降りてきた伊地知くんはスマートフォンを操作しながらも「だいぶ遅くなってしまいましたね」と声をかけてくれた。






「朝早くからお疲れ様でした。」
「伊地知くんこそ、お疲れさま。」
「いえ...。あっ、七海さんから連絡が入っていま高専での打ち合わせが終わったそうなのでここまで迎えにくるとのことですよ。」
「そうなの?じゃあ、ここで待ってる。伊地知くんは?」
「私はこれからもう一件任務に同行する事になっています。」
「そっかぁ..明日も朝早いんでしょ?無理しないようにね。あっ、でも倒れたら硝子のとこで診てもらえるからそれはそれであり?」

「えっ、あっ...そっ、そんなこと...!!」



目を見開いて慌てる彼を見て笑っていれば、校舎内から少しだけ走ってきたらしい建人の姿が見える。彼に気がついて伊地知くんは律儀にお辞儀をしていた。





「お疲れ様です。」
「伊地知君こそお疲れ様です。この後もう一件あると聞きました。良かったらどうぞ。」

そう言って建人が缶コーヒーを渡すと、優秀で苦労が絶えなあ後輩は嬉しそうに礼を言ってから時計を見て慌てたようにわたしたちに挨拶をすると車に乗り込み、また高専を出て行ってしまう。




「貴女も、お疲れ様でした。」
「ん?あぁ、わたし?」
「他に誰が居るんです。」
「あははっ、ごめんごめん。建人もお疲れ様。」
「ありがとうございます。帰りましょうか。」
「今日は車ないから久しぶりに歩いて帰れるね」
「可憐は、歩いて帰るの好きですね。」
「だってなんかいいじゃない、時間がゆっくり過ぎる感じがして。」


仕事終わりでも、乱れることのない建人の身嗜み。着崩れることないスーツに包まれた彼の腕をそっと掴もうとすれば手を握られた。大きくて無骨で、それでも優しいその手はいつもより温かく感じる。





「手、冷えてますね。」
「そう?」
「女性は冷えやすいですから。気をつけた方がいいですよ。」
「はーい」


母親だと思っているでしょう、と眉間に皺を寄せた建人に体を寄せるようにして歩き始める。高専まで車で五分ほどで着くわたしたちの家まで歩いたらきっと十五分くらいだろう。けれど今日は少しだけゆっくりと歩いてみたいななんて考える。




夕暮れになり、風が少し冷たく感じて歩きながら空を見上げるとそこには真っ赤な空が広がっていた。


その赤に惹かれるように、足が止まる。手を繋いでいるからわたしが止まれば建人も立ち止まって、空を見上げるわたしに倣って彼も空を見上げた。高専から家までの道のりは、車は通るけど人が通ることはあまりなくて都内だけど静かな場所で。生い茂る木々が風に揺られて音が鳴って、その風に背中を押されるように赤い空に飲み込まれそうな錯覚に陥る。








「青になったり、オレンジになったり赤くなったり、黒くなったり空は大変だなぁ」

「可憐のようじゃないですか。」
「...はい?」


真面目なトーンでおかしなことを言うから建人を見れば少しだけ笑った彼と目が合う。揶揄っているような表情は、ひとつ歳下のはずなのにそんな感じがしなくてなんだか悔しい。





「泣いたり笑ったり、見るたびに表情をコロコロと変えて。怒っていると思えば笑っていたり悲しんでいると思えばそうでもなかったり。空が色んな色になる様に、貴女の表情だっていつもコロコロ変わって見てて飽きないですよ。」

「そう言うなら、建人はコロコロ変わったりしないね。」
「でも、貴女しか見たことがない表情だってあるでしょう?」







そう言われて少し考えれば、確かにある。苦手そうな甘いものを食べた時の一瞬びっくりしたように目をパチクリさせる顔。気に入った珈琲を見つけると満足そうに笑顔を緩ませた顔。薄着でお風呂上がりにウロウロしていると母親のようにため息を吐きながら髪を拭いてくれる時の、呆れたようなでもやっぱり優しい目をした顔とか。







「建人が意外と子供っぽいってこと、わたししか知らないかもね」

大人びているようでヤキモチだって妬いてくれるし、好きなパンを見つければ目を輝かせるし。理性が服を着ているような建人だけれど、時には年齢相応の一面を見せる事だってある。稀に子供のような無邪気な面だって見えるのだ。




「子供っぽいなんて、可憐には言われたくありませんよ。」
「えー?失礼ね!」
「でもいいんですよ。」
「何が?」
「すぐに変化する貴女を隣で、こうして手を繋いで見ていられるのは私の特権ですから。」




繋がれた手に、建人があまりにも自然に口付けをするから、流石に恥ずかしくなって目を逸らす。そんな反応に彼は少し満足そうに笑っていた。






「以前話していた件、少し撤回します。」
「ん?」
「空を飛べたら、の話です。」
「あー!!」



「可憐は空を飛ばないかもしれないと言っていたので、私がもし空を飛べるなら貴女の手を取って一緒に空を飛びますよ。」


「....どうして?」
「きっと怖いのは最初だけで、貴女はすぐにコロコロと表情を変えて飛ぶ事を楽しむでしょうから。」

「...子供だと思ってるでしょ?」
「いいえ。私はそんな可憐に惹かれているんですから。





一緒なら怖くありません。だから、もしそうなったらまた手を繋いで飛び込んでみたらいいんです。」






建人は繋がれた手をぐいっと引っ張りわたしを抱き寄せると、耳元で小さく囁いた。








「貴女に色んな世界を見せるのが、私の役目ですから。」
「...やっさしー。」
「それで、よく変わる貴女の表情を見ていたいと思います。」




建人の胸元に頭を預けて、ゆっくりと髪を撫でられているのを感じながら、そっと目を閉じる。怖いと思う場所でさえ、彼が隣にいて手を繋いでくれていたらわたしはきっと怖いと言う感情に何かを上書き保存してしまうだろう。楽しいとか嬉しいとか、ドキドキするとか、どんな感情かはわからないけれど知らない世界を目の前にしたらわたしの胸はいつだって高鳴るのだ。










「空は飛べないかもしれないけど、次、すごーく綺麗な青色の空を見つけたら一緒に見ようね。」

「ええ、勿論ですよ。」











世界はこんなにも彩があるのに、どの色もベースになる色は赤と青と黄色だそうで。その色を混ぜてさまざまな色ができていくらしい。たった三色から作られているこの世界にはまだまだ見たことのないものが多すぎて、貴方と見たい景色に限りはなさそうで。そんな事を言い訳に、いつまでも隣にいたいなんて思ってしまう。






「....わたしほんとに、好きなんだなぁ」
「何です?」
「なーんでもない。」




ほろりと溢れたその言葉は小さくて聞こえなかったみたいだから、少し恥ずかしいし、今はまだ内緒にしておこうと思う。










fin.



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