「っわーーーーーーーー!」







ダイニングテーブルいっぱいに沢山の紙を並べて、その紙達の上に可憐は声を上げてボールペンを握ったまま突っ伏した。








「無理だよ、無理無理。一週間に二十レッスンは出来ない。そもそもレシピが出来ない」

「どれも美味しそうですけどね」
「全部いつでもお家にあるもので作れないと..」




ダイニングテーブルの後ろにあるソファで本を読みながら珈琲を飲んでいた七海が珈琲片手に彼女の元へ行きレシピが書かれた紙を一枚手に取る。


色えんぴつで書かれたイラストとその下に添えられたレシピを見ればどれもとても美味しそうだが、本人は納得出来ないようだ。














『五年、私に頂けませんか』


そう七海が可憐に伝えた日から約一年半。

可憐はそれまで以上に料理教室の運営に力を入れるようになっていた。



人を雇い、大人数を対象にレッスンをする比較的通いやすい価格設定の料理教室を目指すのではなく、あくまでも講師は自分だけ、料理に使うものは誰の家にもあるもの、そして価格は少し高くなってしまっても少人数制で一人一人と向き合える料理教室を本格的に目指している。




少しずつ口コミが広がり、レッスンの数も増えたが今度はそのレッスンで使うレシピ作りにここのところ彼女は苦戦しているのだ。








「...あ、この材料なら家にあるな、作れるなってならなきゃ駄目なんです」
「でしたら..」
「えっ、なにかいいアイデアありますか?」
「いえ、アイデアを出すお手伝いはできそうに無いので、気分転換に散歩でもどうですか?」
「散歩?」
「この前新しいワンピース買ったと言っていたでしょう。それも見たいですしね」







朝食を二人で食べて片付けをしてから、ずっと机に向き合っていた可憐の頭を軽く撫でながら優しく微笑む七海に言われると彼女は唇を尖らせて少しだけ不満げな顔をしてから時計に目を向けた。



まだ十二時にもなっていなくて、窓から見える空はとても綺麗な青色で。
久しぶりの二人揃っての休みを机に向かってばかりでは勿体無いと声が聞こえる気がしてしまう。








「お化粧して、新しいワンピースに着替えてきます」
「ええ、待っていますよ」














一途(いちず)












梅雨が近い筈なのに、久しぶりに見えた青空。

可憐が着替えたワンピースは綺麗なネイビーのノースリーブワンピース。サイドはレースになっていてシンプルながらに凝ったデザインだ。デニムのジャケットを肩にかけ赤いバレエシューズを履いて、小さなシルバーのバックを持った彼女の足取りはどこか軽やかだった。




家から少し離れたところにある桜並木。
今は新緑が少しずつ落ちてきているが春になると人出が増えてとても賑やかになる。天気のいい日は二人のように散歩する人も増えるためはいくつかテイクアウトが出来るお店も立ち並ぶ。

七海が気になっているという新しく出来たパン屋さを目指し、二人は手を繋いで歩いていく。



渋谷事変以降、左眼に眼帯をつけ火傷で傷が目立つ左手に七海は手袋をつけるようになっていた。よく目立つ長身に眼帯姿は人目を引くがその視線にもすっかり彼自身も隣にいる可憐も慣れてしまったようだ。


手袋を着けていない右手を握り、鼻歌を口ずさむ可憐の足取りは軽やかで七海は少し表情を緩める。








「バケット売っていたら、夕飯と明日の朝ご飯用に少し多めに買おうかなぁ」
「朝食?」
「生クリームが少し残っているのでフレンチトーストを焼こうかと思って。フルーツもあるし」
「バケットで焼くフレンチトーストは珍しいですね」
「本当は二晩位漬けておきたいけど、明後日から建人さん出張だから明日にしようと思って」
「明後日の朝はそんなに早くないので家で朝食は食べれますよ?」
「駄目、出張行くとパンばっかり食べるから出張に行く日の朝はおにぎりなの」




小さな子供に母親が言うように話す可憐に七海は少しだけ驚いた顔をする。その反応が意外だったのか彼の方を見た可憐は首を傾げたがそこまで気にもせずに「何パンがおいしいかなぁ」と呟いた。









「パン屋に行く前にすぐそこのカフェで珈琲でも買って話しませんか?」
「...お腹空いてないの?」
「あのカフェはドーナツも美味しいそうですよ」

















おいしい、と嬉しそうにベンチに座りドーナツを頬張る可憐の隣で七海は珈琲を口に運ぶ。

甘さ控えめだと言うプレーンドーナツと、シナモンドーナツを一つずつ購入したが七海はまだ手をつけず、可憐の口の周りについたシナモンシュガーを親指で擦り取ると軽く舐めて「甘い」と僅かに眉間に皺を寄せた。





「お砂糖だけ舐めたら駄目ですよ、ドーナツと食べるからちょうどいいんだから」
「まぁ、それは確かに」
「珈琲おいしいですか?」
「少し酸味が強いタイプですね。カフェラテ飲みます?」


うん、と可憐が答えればベンチに座る二人の間に置かれた紙袋から七海はホットのカフェラテを取り出す。

彼女がドーナツを片手に持ってカフェラテを受け取れば二人の指先が僅かに触れる。そんなことにもう動揺はしない程二人で過ごしてきた時間は随分ともう長い。

七海は紙袋から自分のドーナツも取り出して豪快に齧り付くとその様子を見て可憐が楽しげに笑った。








「眼帯と金髪と、ドーナツのバランスがすごくおもしろいです」
「悪意のある言い方ですね」
「そんなまさか、マフィアのボスみたいで眼帯もかっこいいですよ?」
「随分と言うようになりましたね」
「えー、褒めたのに」
「五条さんのような事言わなくていいんですよ」
「マフィアのボスって話してたの根に持ってるじゃないですか」
「私が根に持つタイプだと言う事は貴女が一番知っているでしょう」





家入監修の眼帯姿を五条が見た時に、マフィアのボスじゃん、と呟いた。それが妙に可憐のツボにハマってしまい目に涙を浮かべながら笑ったことがあったのだ。


でもかっこいいですよ、と微笑みながら空になった紙袋を膝に乗せて可憐は七海の方に身体を寄せる。その紙袋に七海があっという間に食べ終わったドーナツの包み紙を捨てた。

彼女が彼の肩に頭を預けるように寄りかかると、ベンチから見える景色は少し開けた広場と散歩する人たちと、僅かな新緑だ。







「...可憐」
「んー、はい?」
「最近、少し根を詰めすぎていませんか」
「..ううん、そんなことない」
「ありますよ」
「そんなこと言ったら、建人さんだって同じでしょう?今日のお休みだって久しぶりだし、時間外労働だって最近は好きですし」
「好きなはず無いでしょう」
「でもお仕事の日は、いつも帰りは遅いですよ」
「それは貴女も同じです」





僅かに強い口調で言い切られると可憐は七海から身体を離した。

少しだけ残ったシナモンドーナツを食べてから、カフェラテで流し込む。触れそうで触れない距離感のまま、何処か重い空気が流れてしまう。







「....気分転換って、言ってたのに」
「家にいる時は殆ど仕事をしている、寝るのだって私が寝室に行ってから随分後でしょう?

時間があれば全ての時間を仕事に費やしていてはいい仕事も出来ませんよ」
「わたしはいま、仕事を頑張りたいんです」

「それは分かっています。けれど、やり方を間違えては体調を崩す事にも繋がりますし、良い仕事はできませんよ。」





怒るでもなく淡々と自分の事を真っ直ぐに見て離す七海に可憐は何も言えずに目線を反らす。両手でカフェラテを持ったまま口を開こうとはしなかった。



何処か悲しげにも、何処か怒っているようにも、何処か寂しげにも見える可憐の表情に気が付いていても七海もまた何かを言う事はない。




少しだけ強い風が木々の葉を揺らす。
葉同士が擦れ合う音がやけに大きく聞こえた。











「.....頑張るって、決めたんです。」
「知っていますよ。それは私も同じです。」
「じゃあ、どうしてそんなこと言うの?」


「私も以前より長期出張も増えましたし、任務以外の業務で忙しい事も多い。

けれど、貴女といる時間は仕事の事は忘れて大切にしたい。」





寂しいんですよ、と小さく付け加えて七海は可憐の手に触れる。
彼女の手がカップから離れればその手を優しく握り、何処か罰が悪そうな表情のまま二人の手に視線を落とす。






「...五年くださいって、言ったのは建人さんです」
「ええ、そうですよ。」
「だったら、」
「互いに仕事により集中すると決めていても、私が貴女を大切に思うのはいつでも変わりません。」




仕事より貴女が大切な事も、と続けた七海の方を可憐が少し驚いた顔で見れば目が合った。







「...ずるい」
「私が狡くて我儘で、根に持つタイプだという事は可憐が一番知っているでしょう」
「...わたしだって、建人さんのこと大切です。」
「頑張ると無理をするは違います。
たまには、息を抜いてくれたらと思っているんですよ。

可憐が努力家で、素敵な仕事をする事はよく知っています。いい仕事をする為に、時には休む事も大切です。」

「働く先輩からのアドバイス?」
「まぁ..そんなとこです」






七海の手を離し可憐はするりと彼の腕に自分の腕を通すとそのまま身を寄せる。

中身が入っていないらしいカップを片手で持ったまま、彼の名前を呼んだ。










「六年くらい前のね、知り合ったばかりの時は声も出なかったのに、今はこうやって話せてるのってすごいことだよね」

「懐かしいですね、初めて会った日に筆談で話したのももうそんなに前になりますか」

「もうなのか、まだなのかはわからないけど、いろんなことがあって今のわたしも建人さんもここにいるんだもんね」






ふふ、と少し楽しげに笑ってから可憐は七海の眼帯にそっと触れる。







「寂しがりやな誰かさんのために、がんばり方はちゃんと考えます。

今日のわたしが、未来のわたしを作るんだもんね。無理はしないように、頑張ります。


建人さんも、無理しないでね」











自分の目元にある彼女の手を七海は握ると、そのまま手の甲に触れるだけの口付けを落とす。そんな彼の行動に可憐が瞬きをして恥ずかしそうに立ち上がった。






「パン屋さん、行くんでしょ?」
「ええ、勿論。」







そしてまた、手を繋いで。
ふたりでゆっくりと、歩き出すのだ。














今日も明日も、その先も。
いつでも私の心は一途なままで。
いつまでも変わらないことを、ここに誓うよ。

















万年人手不足の呪術界において、七海建人が提案した二級以下の呪術師を対象とした育成機関はゆっくりとだが着実にその成果を見せている。

 





「ぶっちゃけさ、七海引退すると思ってた奴多いと思うんだよねー」



その育成機関の運営には特級である五条の協力は必要不可欠で、この日は七海と五条が揃って例の如く誰もいない教員室で打ち合わせをしていた。






「急になんです」
「ほら、渋谷でさ、お前めっちゃ怪我したじゃん。もう二年くらい経っちゃうけどさ」

「左眼に関しては家入さんの協力もあって今では特に不便もありませんよ。
街中で見られるのも慣れたものです」

「マジマフィアだもんね」
「はっ倒しますよ」
「可憐だって言ってるっしょ?」





向かい合って置かれている革張りのソファにそれぞれ座り五条は脚をソファの間にあるローテブルに投げ出すが、今更それに七海がツッコミを入れる筈もなく。

資料を五条に渡しながら七海は彼の言葉に耳を傾けて眉間に皺を寄せると溜息をついた。







「言ってますよ、誰の影響だか知りませんが。」
「えー、僕かなぁ」
「他に誰がいるんです。」
「いーじゃんいーじゃん。実際誰だって思う事だし。でさ、」
「まだ続けるんですか」
「えーだってこの際だから」
「何です」



「なんで辞めなかったの、呪術師。
誰もあの時やめても責めたりしなかったよ」









資料を渡したにも関わらず目を通す気もない五条に七海はまた溜息をついてソファに寄り掛かる。彼もまた長い脚を組むと諦めたように口を開いた。







「辞める事も出来たと思いますし、辞めるべきだったとも思います。

けれど、目の前に見えた課題を放り出す事も出来なかった。それだけです。」

「それが後進の育成?」
「少なくとも、あの渋谷では一級呪術師がもっと多くいれば状況は違っていたでしょうから。」

「ふーん」
「興味がないなら聞かないで下さい。」
「あるよある。だって、可憐をあんなに心配させたのにさ、七海がまたここに戻るなんて誰も思ってなかったよ」

「...彼女が泣いて続けないで欲しいと言っていたらどんなに楽だったかと思いますよ」







七海は教員室の窓に目を向ける。
流石に聞こえる学生達の声は、窓の外のグラウンドでの授業の声だろうか。







「一度逃げたこの場所から離れるという選択肢は何故か私には無かった。

そしてそれを、一番近くにいる人が当たり前に肯定して背中を押してくれるなら、もう答えは一つでしょう」



「...で、後進育成ね」
「未来だけは、今の私達が変えられるものですから。無駄な死を減らせるなら、動く価値はある。」

「お前も大概、イカれてるよね」





五条がようやく七海に渡された資料に目を向ける。その表情は目隠しをしていても何処か楽しげで嬉しそうに思えたのは気のせいではないだろう。






「誰の後輩だと思ってるんです」
「七海って案外、僕の事好きだよね」
「寝言は寝てどうぞ」





何度目か分からない溜息をつく七海に構わず五条は「照れ屋さんだなー」と揶揄っても応答は勿論ない。そんな事を五条が気にする筈もなく構わず言葉を続けた。









「まぁそんくらいの怪我で辞めるようなら可憐の事、掻っ攫ってたけどね」

「まだ寝ている様でしたら、起こして差し上げましょうか。」

「やーだね」





五条は資料から顔を上げると不機嫌そうな顔をする後輩を見て楽しげに笑う。
無邪気な子供のような彼の笑顔は、学生時代からなんら変わらない。








「いーよ、協力するよ」
「資料も碌に読まない人の返答なんて当てになりません。」
「ざっと読んだし、七海の頼みなら別に端から受けるつもりだったし」
「は?」

「僕だって強い仲間を作って、腐った蜜柑のオンパレードのこの世界を変えるために教員になったんだから、後進の育成に関しては賛成だしね」







資料をテーブルに適当に置いて五条は頭の後ろで手を組むと「ねぇ、七海」と言葉を続けた。









「何です。」
「いいじゃん、学生時代から腐れ縁は僕とお前と、硝子と伊地知しかもういないし。

血反吐吐いて、腐った蜜柑をぶっ倒そうぜ。」


「....私はあくまで規定側の人間ですが。」
「つれないこと言うなよ!」
「ですが」






七海もまた資料をテーブルに置くと、軽く息を吐き出して何処か楽しげに表情を緩める五条の方に目を向ける。











「生きている人間にしか、出来ない事をしようと思います。」












―――――――未来を変えることも、

今ある幸せを大切に守ることも、
今ある現実を変化させることも、

今ここに、
生きているからこそ出来ることで。
今ここに、
生きているから、やらねばならぬ事がある。


今を生きている人間にしか、
未来も幸せも降り注いでは来ないのだから。














「ん、それは僕も同意。」
「珍しく意見が合いましたね」








僅かに表情を緩めた七海に五条がハイタッチしようと片手を上げても、それに七海が答えるはずも無かった事は言うまでもないだろう。













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次回ついに最終回です。
ここまでお付き合いくださりありがとうございます!


最後まで楽しんでいただけますように!




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