※捏造。名字固定


 あの子が花弁を食んでいる。
 西日の射しこむ教室を背景に、それは一種宗教画のような神聖さを持ち、扉のそばにいた僕の心に近づきがたさと畏怖を抱かせた。
 小さな臀をひっそりと椅子で支え。
 机に散らばった花弁を一枚、人指し指と親指で摘まんで唇に乗せる。それを咥内に招き入れて嚥下する。セーラーカラーから伸びた細い首にて、喉がかすかに痙攣する。やがてまた花弁を一枚……と、そういうふうに彼女は一連の動作を繰り返しては苦々しく目蓋を震わせていた。儀式。僕の頭のなかに慎ましやかなその二つの文字が浮かんだ。彼女の輪郭は光に溶け、行動の異常性をも曖昧にしている。現に僕は美しいと思っていたのだ。花を食べる彼女を。その花弁を。
 西日は弱まりつつある。下校を促す放送が間延びしながら校舎のなかで響いている。その舞台で。
 観客がいることも知らず、彼女は食べた。
 一枚々々すべてを等しく舌先で味わいながら。
 しかしふいに終わった。
 苦しげなうめき声が耳朶を打つ。そこには手のひらで口を覆う彼女の姿が。僕は現実に帰ってくる。いつもと変わらない、老朽化が進んだ教室へ。やがてセーラー服に包まれた背中がしなり、同時に僕は駆けだしていた。そうしてこの手のひらが震える背中に触れたのと、彼女の指の隙間から堪えきれず花弁がこぼれ落ちたのもまた同時であった。
 僕はなんという言葉をかけるべきかわからずひたすら背を撫でさすった。その間も彼女は何度か苦しげに嘔吐き、口から花弁を溢れさせた。女性の背中がすべてそうなのか、手のひらの下にある背中はとにかく薄く、頼りなかった。撫で続けていると僕は頻繁に不安になり、ただその汗ばんだ温かさだけが暗い感情を和らげていた。ふと、眼下に花弁を捉えた。
 わずかな灯りのなかでもわかる。翳せば透けるほどに薄い花弁は独特の稜線を持っていて、一本々々が互いを尊敬するように調和しあっていた。そのやわらかなカーブにはどれかが欠けても完成しえない美しさがあった。
「さわっちゃだめよ」
 とつぜん、声が聞こえた。凛としているのにどこかもの悲しさを感じさせる声。あまりに自然に意識の奥へ働きかける、けれどふしぎといやではない、実に慎ましいささやき声だった。
 あっ。そこで初めて自分が花弁へ手を伸ばしていたことに気づく。あわてて指先を手のひらのなかにしまい、体のほうへ引き寄せた。
 その様子を横目で認めて、彼女は花弁を数枚こぼしながらまた口を開いた。
「うつるから」
 花吐き病。
 情念をこじらせた者が患う病。はたしてそれは欲を捨てきれない人類への罰なのか。
 あるいは、赦しなのか。
 いつからか涙を落としていた彼女の横顔をみつめながら、僕はまた背中にそっと手を置いた。ゆっくりと、だが確かに心臓が動いているのがわかる。
「罹患したのが、十四のとき」
 ぽつりと、彼女が言って、
「日毎に、増えていくのね。回数も、量も」
 それからかすかに笑った気がした。
「見えないはずの感情が突きつけられるのって、こんな気分。だけど、薄れそうで怖いわ」
「だから……」
 続く言葉を僕は飲みこんだ。そうしてまた一枚、花弁を口元へ近づける彼女の姿を見ていた。
 花と心中でもするのではないか。
 と、僕たちの担任である銀八先生は恐れている。
 ここで言う花とはつまり恋心であるが、彼女のそれは恋と呼ぶにはあまりに苛烈で、あまりに悲しい。
 彼女はいまでも銀八先生と暮らしている。
 物心ついたころからすでに父親との二人暮らしで、その父も彼女が九歳のとき鬼籍に入った。父親は優れた教師だったという。そして銀八先生は当時彼の教え子だった。詳しくは知らないが、かなりやんちゃしていたらしく、それを掬いとってくれた人こそ彼女の父親であった。以来、偉大なる恩師の忘れ形見を引き取って、親代わりというよりむしろ兄のように面倒を見ている。彼女から聞いた話だ。「だから早く、私も一人立ちして恩を返したい」と、そうも言っていたことを思い出す。
 けれど卒業したら家を出たいという彼女の望みを、先生はけっして許しはしないだろう。彼女はきっと、一人になったら死んでしまう。心にまみれ、花にまみれ。溢れる花弁に喉を塞がれ、ひっそりと息を止めてしまう。彼女はそれがなによりの幸福だと知っている。
「花の、ジャムを作ろうか」
 気づくと僕はそう言っていた。
「これだけあれば、きっとおいしく作れるから。そう、たくさん砂糖を入れよう。吉田さん。そうすれば長く食べられるんだよ」
 ひたすら言葉を並べ立てた。あれきり口をつぐんでいた彼女は、やがて小さく首を動かし、ほんとうに小さく、うなずいたのだ。
 僕は自分の手のひらの下にある、心臓のかすかな鼓動を思った。その心は褪せることなく亡き人を想っている。
 あってはならない。罪。罪ゆえの罰。ならば救済とはなにか。




「花と心中」