帝都で流行している奇病があった。命に関わるものではないが、未だ治療法のないその病は、花吐き病と言う。その名の通り、花を吐き出す病だった。吐き出す花の種類は人によって異なり、吐き出す場所についても口だけには限らない。ある感染者は胸から、ある感染者は指の先から、臍から、という話も聞いたことがある。花の種類も決まってはいない。ただ、春の訪れに花が咲き綻ぶように、ぶわり、と、感染者の皮膚や体内から花が生まれるのだそうだ。また、花吐き、と言っても常に花を吐き出す訳ではない。吐き出すのは決まって、「押さえきれぬ感情に胸が苦しくなった時」だそうだ。感染者は老若男女を問わないが、感染する者には共通点がある。其れは「片想いをしている」こと。そして、「既に感染している者の吐き出す花に触れていた」こと。治療法はない、と先に述べたが、それは薬による治療法がないというだけであり、完治しない病ではない。その恋が成就することによって、花吐き病の症状はあらわれなくなるのだ。

そう。花吐き病とはそういう病なのだ。帝都で生活している多くの者が知っている。いや、知らぬ者の方が少ないやもしれん。花吐き病はその奇妙さから医者や学者だけではなく、うわさ好きの淑女や法学を学ぶ学生たちの間でも有名だった。人の体から花が生まれると言う事実に気味悪がる者も多いが、一方、その発症理由や発症時期に憧れを抱く者も少なからずいる。溢れ出る想いにどうにもならなくなった瞬間、言葉の代わりに吐き出される鮮やかな花。気味悪がる理由も、憧れる理由も分からなくはない。オレは感染をしてはいない。花吐き病を発症した知り合いは近くにはいない。誰かが花を吐き出す現場に遭遇したこともない。だが、ぼんやりと思う。溢れ出る想いにどうにもならなくなった瞬間、言葉の代わりに花を己が体内から吐き出す瞬間。当事者は、どれほど辛いのだろうか。

「一真さん…」

大学へ向かうために家を出た所、オレを呼ぶ小さな声が聞こえ、振り返る。そこには紫色の着物に身を包んだ名前がいた。名前はオレのたった一人の幼馴染みだった。家が隣同士であり、年も同じだったため、毎日毎日顔を合わせていた。流石に、成長した今ではこうして顔を合わせることも少なくなったが、昔は何をするにも一緒だった。喜ぶ時も叱られる時も悲しい時も嬉しい時も遊ぶ時も学ぶ時も眠る時も風呂に入る時でさえも。オレにとっては幼馴染み、というよりは、もう家族に近い存在だった。名前は驚いたような表情で、口元を手で覆っていた。自分からオレの名を呼んでおきながら、可笑しな奴だ。知らず、口元に笑みが浮かぶ。

「オレが自分の家から出てくることが、そんなに意外か」
「…い、いえ。そうではありません。…一真さんは、お出かけですか」
「ああ、大学にな。…名前も、どこかに出かけるのか」
「え、ええ。その、少し」
「どこまで出かけるんだ。オレも大学に向かう途中だ、近くまでならば付いて行こう」
「っ、い、いえ!そのような、あの、結構です」
「はは、オレとそなたの仲だろう。何を遠慮することがある。ほら、行くぞ」

まだ日が高いとはいえ、いつどこで何があるかは分からない。女性の一人歩きは危険だ。幼い日、そうしていたように、オレは彼女に向かって右手を差し出す。彼女はオレの差し出した右手を凝視した後、オレの手を取ることなく、曖昧に、小さく微笑んだ。彼女の手は胸の前でぎゅっと組まれている。オレに向けるその微笑みは常とどことなく違うような気がして、オレは彼女の顔を覗き込んだ。オレが覗き込めば彼女は慌てた様子でオレから目を逸らす。ふ、と逸らされた視線に、胸の奥がざわついた。目を逸らされる、というのは、あまり好きではない。隠し事をされているような、心の内を見せられていないような、信頼されていないような、嘘を付かれているような、そんな気がするからだ。まさか、幼馴染みである彼女がオレから目を逸らすとは思いもしなかった。差し伸べた手を取ることすらしないとは思わなかった。

「目を逸らし、オレの手も取らない、か」

少しばかり棘のある言い方になってしまった。名前はオレの言葉に肩を震わせ、そのまま俯いてしまった。近くまで一緒に行こう、という申し出が、そこまで気に食わなかったというのだろうか。それとも手を差し伸べたことか。いや、もっと別のことが気に食わなかったのだろうか。昔はよくしていたことだ。手を繋いで、あちこちに出かけたというのに。オレの目の前で、彼女は俯いたまま。言葉を発することもしない。これでは子どもの喧嘩のようだなと思いながら、オレは深く息を吐き出す。何が気に食わなかったのかは分からんが、オレが彼女の気を害してしまったのだろう。手も取りたくないほどに。視線も合わせたくないほどに。

「…名前。オレはただ、女性を一人で歩かせるのはいかがなものかと思っただけだったんだ」

彼女は顔を上げない。俯いたまま、胸の前でぎゅっと手を握っているだけだ。子どもの喧嘩ならば、ここで双方が謝り、それでおしまい、となるはずなのに、彼女は言葉を発しない。家族に近いとさえ思っていた幼馴染みにこういった態度をとられてしまうと、少しばかり傷付いてしまうなと、小さく笑ってしまう。名前に取ってもらえなかったその手で、俯いたままの彼女の頭に触れる。軽く叩けば、彼女の肩が再度、小さく揺れた。合わせるように彼女の髪を彩る牡丹一華の花を模した髪飾りが、揺れる。

「…何が気に障ったのかは分からんが、すまない。久々にお前と会えて、オレも少し浮かれていたのかもしれない」
「っ!」

名前が息を吸い込む音が聞こえたと思えば、次の瞬間に彼女は崩れ落ちるようにその場に屈み込んだ。つい今しがたまで胸のあたりで握り締められていたその手は、今は口元を覆っている。指の隙間から、苦しそうな吐息が漏れている。予想もしなかった光景にどうすることもできず、オレはただ、屈み込んだ彼女と視線を合わせるようにし、その華奢な背をさすることしか出来ない。彼女はオレのほうを見もせずに、ただ自分の足もとばかりを見ている。額からは汗が噴き出ており、触れた彼女の背中は小刻みに震えていた。口元を覆う指先は白く、漏れる吐息は荒い。少しでも楽になれば、ともう一度背をさすれば、彼女はいやだいやだと言うように首を横に振る。指の隙間から、消え入りそうな声で「離れて」という言葉が聞こえた。

「オレの何が気に食わないのかは分からんが、この状態で離れられる訳がないだろう!」
「一真さん、…お願いですから、離れてください…」
「断る!名前をこのままにしておくことなど、オレには出来ない」

オレがそう叫ぶと、名前はそこではじめてオレと目を合わせた。苦しさからか目に涙を溜めたその瞳が、見たこともないほどに熱を帯びているように見えて、場違いなほどに心臓が大きく跳ね上がる。背をさすっていた手で彼女の頬に触れる。触れたその頬は驚くほどに熱い。風邪であればいい。だが、もっと重い病気であればどうする。そう考えを巡らすオレに向かい、名前は小さく「見ないで」と呟いた。その言葉に、名前の言葉に従うことも忘れ、オレは彼女の顔を凝視してしまった。名前は眉を下げ、オレを見つめる瞳からぼろり、と涙を零す。苦しそうに口元を押さえた彼女は、そのまま、大きく咳き込んだ。げほり、という嫌な咳をした彼女の指の隙間から、赤いものが散った。まさか血か、とぎくりとしたが、其れはひらひらと、ゆっくりと地面に落ちていく。散って行った其れは、血のように赤い牡丹一華の花弁だった。彼女がもう一度咳き込めば、しゃらり、と彼女の髪に付けられていた髪飾りが揺れる。そうしてまた、指の隙間からはらりはらりと花弁が舞い散っていく。オレはこれがなんなのかを知っている。オレだけではない。帝都に暮らす者でこの症状をなんなのか知らない者などいない。これは。これは、間違いなく。

「…名前、…まさか」
「見ないで、ください…お願いです…」

は、は、と荒い呼吸を繰り返しながら、口元を両手で押さえたまま、懇願するように名前が言う。涙を流しながらオレの瞳を見つめ、首を横に振りながら、「お願い」と繰り返す。そうしている間にも、彼女の両手で押さえられている唇からはひらり、ひらり、と花弁が吐き出されている。目の前の光景に、言葉が出ない。地面に落ちていくのは鮮やかな赤い花弁だ。胸の奥の想い全てを融かしたような赤だ。胸の奥の、想い全てを。名前が想いを吐き出したい相手とは。今ここで発症をしたということは、まさか。言葉を紡ぐことが出来ぬオレを見つめる名前は少し落ち着いたらしく、呼吸は先程よりも幾らか楽そうに見えた。オレが何を言いたいのか察したのか、彼女は口を覆ったまま、くぐもった声で話し始める。

「…感染したのがいつなのかはわかりません。ただ、花を吐き出したのは今日が初めてではございません。会えぬ日も想いを募らせておりました。花を吐き出すことは、…今までにも何度もありました。ここまで多く吐き出したのは…さすがに、初めてですが」

名前は、彼女の足元に散った花弁を悲しげな瞳で見つめる。誰への想いを募らせたかははっきりとは言わなかったが、いくら色恋に疎いオレでも分かる。今、この状況で花を吐き出した名前が想いを募らせている相手が誰なのかなど、考えをめぐらさなくとも分かる。オレの手を取らなかったのも、目を合わせなかったのも、すべて、これが理由なのだろう。花吐き病。その症状が現れるのは、想いが高ぶったその時なのだから。頬を涙で濡らした名前は、すう、と息を吸い込んで、それから袂から小さな巾着を取り出した。白い指先で、地面に落ちた赤い花弁をつまみ上げ、其れを巾着の中に入れる。何をしているのだろうと一瞬思ったが暫くして気付く。花吐き病は、感染者が吐き出した花に触れることによって感染する。誤って誰かが花弁に触れることのないよう、彼女は花弁を処分しているのだ。白い指先が一枚一枚と赤い花弁を拾い上げる。彼女の想いを映し出した花弁を。彼女の、オレへの想いを映し出した、花弁を。俯きながら花弁を拾い上げるその光景は、儚く、だが同時に恐ろしいほどに美しく、オレの目に映った。

「名前」

彼女の手に己が手を重ねる。オレの手ですべてを覆うことが出来るほどに小さく、そしてひんやりとした手だった。ゆるり、と顔を上げる彼女は波打つほどの涙を瞳に貯めていた。重ねた後、オレは彼女の指先に己が指先を絡める。オレの掌と、名前の掌が合わさる。オレたちの掌の間には、赤い花弁がある。花吐き病の、感染源となる花弁。それはぴたりとくっついているオレたちの掌の間から逃げるように、はらり、と舞い落ちていく。名前はオレが触れていない方の手で自分の胸元を強く押さえた。

「一真さん…?何を…、花吐き病は感染する病です…」
「知っているさ」
「ご存知であるのならば、どうか、この手を御放し下さい!花に触れれば感染します。私のことなど放っておいてください。…どうか、このような、きたない花になど、きたない私になど、…どうか、どうか、触れないで」

言い終わると同時に、彼女はひとつ、けほりと小さく咳を零す。唇からは赤い花弁が一枚、またひらりと地面に散って行った。吐き出された花弁に、彼女はくしゃりと顔を歪め、溜まっていた涙は彼女が瞬きをすると同時に散った花弁にぽたりと落ちる。ああ、どれほど、苦しく、切なく、辛いのか。堪らず、オレは重ねた彼女の手を強く握り締める。この行動こそが彼女を苦しめているのだと頭では分かっていたが、そうすることを止めることは出来なかった。彼女が吐き出した花弁は、彼女の想いそのものだ。言葉にすることの出来ぬ想いが、想いの高まりに応じて花へと姿を変える。今彼女がきたないと言った花弁は、彼女の心そのものだ。どこまでも赤く美しい花弁を吐き出す彼女のことをきたないと、どうして思えようか。

「…オレは名前のことをきたないとも、この赤い花をきたないとも思わん」

驚いた様子でオレを見つめる彼女の頬は、ほんのりと赤い。それが苦しさから来るものなのか、悲しさから来るものなのか、それとももっと他の感情から来るものなのかはオレには分からなかった。だが、触れ合った指先も掌も、先程よりもいくらか熱を帯びている。これほど小さな手をしていたのか。こういう風に涙を流すのか。今までこの想いをずっと隠していたのか。オレへの想いは、これほど赤く、美しい色をしているのか。今まで知ることのなかった事実に混乱しない、と言えば嘘になる。幼馴染みとして、家族に近い存在としてしか思っていなかった彼女の想いに、戸惑わない、と言えば嘘になる。それでも。

「…言葉の代わりに吐き出された、オレへの想いで赤く色付いたこの花を、どうしてきたないなどと言える」
「一真、さん」
「…名前の気持ちを、きたないなどと、言える訳がないだろう」

今すぐに彼女を好きになることは恐らくない。だが、熱を帯びた瞳を見つめられれば、心臓がどくり、と大きく跳ね上がった。もし仮にオレが花吐き病に感染したとして、発症したとして、その時オレの体内から生まれる花は何色をしているだろうか。そして吐き出すその花は、一体、誰への想いを形にしたものなのだろうか。オレと名前の合わせた掌の中には、まだ、赤い花弁が僅かに残っていた。



「行き場のなくなった想い」
title:ゼロの感情。