その日から伊月は森山からの電話を待った。
職場では森山と会うのだが、仕事以外の話はしない。
森山も新たな仕事を任され、余計な話をしている場合ではなかった。

森山に対する女性陣への態度も、いつのまにか改善されていた。
伊月の言葉を聞いてくれたのかはわからないが、
秘書課の彼女にもなんらかのフォローが入ったらしい。
また彼女とよりが戻った、という噂もあった。
それでも伊月は、森山からの個人的な連絡を待っていた。
片時も携帯を離さず、もしかしたら自宅にかかってくるかもしれない、と仕事が終わるとまっすぐ自分のアパートに帰り、ひたすら電話が鳴るのを待った。


そうやって待ちながら、伊月は森山のことを考えていた。
付き合っていた頃、森山はこんな気持ちで、伊月からの電話を待っていたのだろう。
1週間どころか、1ヶ月、ことによったら数ヶ月彼を待たせ続けていた。
欲しい、と言ってくれた森山に、ろくに応えることもしなかった。
高校生でも簡単にセックスする時代に、伊月は不自然な関係を森山に強要したのだ。

『伊月が好きだ』

今でも胸に残る声。
何度も何度も言ってくれたのに、伊月は一度も好きだと言ったことがなかった。
そのことが、より深い後悔として残る。
たとえ元には戻れなくても、ただ知ってほしかった。
あの頃、本当は自分も森山が好きだったのだと。
気付くのが遅すぎたけれど、誰よりも好きだった。
ずっと今でも忘れられないほどに。
告げてどうなることではない。
森山は笑うだけだろう。
それでも、どうしても伝えたかった。
今度は自分が頑張る番だ。


伊月の気持ちを知ってか知らずか、森山は映画のことなど忘れているようだった。
職場でも営業回りで会えないことが多く、顔を見ない日もあるくらいだ。
傍目にも忙しそうだったし、時間が取れないのかもしれない。
映画の上映期間はもうすぐで終わってしまう。

伊月は何度か自分から確認してみようかとも思ったが、それは卑怯な気がした。
森山はなんのあてもなく待ってくれたのだ。
今度は伊月がそうすべきだった。
毎日、定時には帰宅する伊月に同僚たちはいろいろ噂したが、伊月は気にしなかった。


そうこうしているうちに、伊月の元に噂が回ってきた。
『営業の森山が秘書課の彼女と福岡へ旅行に行ってる』と。

伊月は動揺を隠せなかった。
森山からはなにも聞いていない。
プライベートのことを森山が教える義務はないとわかっていても、伊月を失望させるには充分であった。

もう、個人的な電話などかかってこないだろう。
ようやく伊月はそれを悟った。
この忙しい時に、馬鹿なことを言ったと思う。
まるでデートの誘いのような申し出を、森山は不快に思ったに違いない。
自分の浅はかさに泣きそうになった。

間抜けな期待などせず、仕事相手として彼に迷惑をかけないようにしなければならない。
伊月はそれから淡々と業務をこなした。


自宅の電話が鳴ったのは翌日の夜のことだった。

「伊月?」

受話器から聞こえてきた声に、伊月は呆然とした。

「え、森山さん…?福岡に旅行なんじゃ…」

「はぁ?旅行?出張だよ。急に課長に言われて、一昨日発ってさっき戻ったんだ」

伊月は思わず息を吐き出していた。
心がふっと軽くなった。
急に出張で発ったのが、尾ひれがついて旅行などと噂になってしまったのだろう。

「大変でしたね」

「まったく、人使いが荒いよな。それで、明日はさすがに休みがもらえるんだ。
例の映画なんだが、明日の夜はどう?」

伊月は一瞬自分の耳を疑った。

「もしもし?伊月?聞いてる?」

「え、あ、はい。」

「最終上映時間が夜7時なんだが、仕事の都合はどうだ?」

「だ、大丈夫です!」

「よかった。じゃあ、映画館の入口待ち合わせで。」

「はい」

森山の心地よい笑い声が受話器から聞こえる。

「この感じ懐かしいな。じゃあまた明日」

電話が切れても、伊月は受話器を握りしめたままだった。
かつて、そんな風に彼と待ち合わせをした。
今回電話を待っていたの伊月のほうで、立場が逆転していることを、森山は気づいているだろうか。
祈るようにそっと、伊月は受話器を置いた。



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