is all right

街で買ってきた、長旅に赴くための必需品の入った袋を、そっと床に置いた。
とさ、と軽い音を出したそれを少し眺めてから、同じように持ってくれていた荷物を床に置くマスルールを振り返る。
街で買い物を済ませてから、わたしの部屋に帰ってくるまで、マスルールとわたしは一言も話すことはなかった。
買い物中は、あれがいるこれがいると、いつも通り振舞って会話していたけれど、帰路に着く頃には、わたしたちは二人して目を伏せていたのだ。

きっと、同じ不安や思いを、胸に抱えていたから。


『…買い物、付き合ってくれてありがとう』

「…ああ」


短く返事をするマスルールと、目が合わない。
いつもなら、恥ずかしいくらいに見つめてくれるのに。
ぎゅっと胸が痛くなって、堪らず距離を詰めた。
ゆっくりと歩み寄っていくと、マスルールの裸足の足に目が止まる。
左足首には、バレンタインデーに贈ってくれた、わたしと揃いのアンクレットが光っていた。

目を伏せて、マスルールの大きな手にそっと触れる。
とくとくと、他人よりも高い体温が、わたしの右手に溶け出すようだった。


『……』

「……お前は、…」

『……』


ぎゅ、と、触れていたわたしの右手を、マスルールの左手が強く握りしめた。
それは痛いくらいに。
きっとマスルールは迷っていて、葛藤していて、苦しいんだと思う。
いつもの声音なのに、ひどく痛々しく響いたその声に、わたしは切なくて、少し眉を寄せた。
躊躇うように言葉を切ったマスルールの厚い胸に、そっと額を押し付ける。


「……お前は…会えなくなっても、平気なのか…?」

『………』

「…俺と離れても……」

『……平気じゃないよ、ちっとも…』

「……」

『…平気なわけ、ない……』


いつもより小さな声で、苦しげに問われた言葉に、わたしは首を振った。
平気な訳がない。
マスルールと長く離れるなんて、考えたくもないくらい、さみしい。
不安で、胸が潰れそうなほど。
それと同時に、マスルールのその問いに悲しくなった。
わたしは、きっとマスルールは自分と同じ気持ちでいて、不安なのだと分かっていたけれど、マスルールはそうではなかったと知ったから。

マスルールは、わたしと離れることを不安に思っていたんじゃない。
いや、きっとさみしいだとか、そういう風には思ってくれていただろうけれど、それよりももっと。
マスルールは、わたしが、自分と会えなくなっても平気なのかと、寂しくはないのかと、不安に揺れていたのだ。
わたしが自分と同じ気持ちではいないのではないかと、わたしはマスルールに思わせてしまったのだ。

わたしはなんて、愚かなんだろう。


『…マスルールと離れるの、いやだよ』


ぴくりと、繋いでいるマスルールの左手が小さく反応した。
その手を強く握り返して、決意する。


『ごめん…わたし、甘えてた。マスルールは、わたしのこと…なんでもわかってくれる、なんて、馬鹿みたいに思ってた』

「……」

『……不安にさせて、ごめんね』


いつまで、わたしはマスルールを待たせるつもりなのだろう。
ずっと、考えていたはずなのに、忘れていたんだ。
惜しげなく注がれる好意に、愛情に、わたしは浸るだけで、ずっと、子供の頃から求め続けたものを、忘れかけていた。
差し伸べられる温かい手を取ることを。
一歩、前に進むことを。

もう恐れることはないと、わかっていたはずなのに。
シンさんが前に言ってくれたことを思い出す。
”古い足枷を壊して、古い手錠を壊して、前に進む事は出来る。それができるのは、なまえ、君だけだ”

マスルールの温かい手が、するりとわたしの右手から離れて、そっと背中に回された。
もう片方の手も回されて、太くたくましい両腕が、ぎゅっと、力強くわたしを抱き締めてくれる。
マスルールの腕の中は、いつも温かい。
右手を持ち上げて、抱き返した。

かつて生きた世界で、わたしをがんじがらめにした足枷と手錠。
いま、それを壊すときだ。
もう、縛りつけるものなんてない。
軽くなった身体で、足で、わたしは愛しい人のもとへ、いつだって走っていける。


『わたし…マスルールと、1日だって離れたくないよ』

「……ああ」

『…できることなら、ずっと…ずっと、一緒にいたい』

「俺もだ…」

『……長いあいだ、待たせてごめんね…マスルール』


じわり、浮かんだ涙がマスルールの服に染みて、消える。
わたしはやっと、マスルールの想いを、受け止めることができる。
マスルールの、綺麗な初恋を、信じられる。
強く、マスルールの背中を抱き締める。

それに答えるみたいに、マスルールも同じだけ、わたしを強く抱き込んでくれた。


「……好きだ…」

『…うん……』

「…好きだ、なまえ……」

『……わたしも、好き』


マスルールが、息を飲むのがわかった。
喉が熱くなっていく。
まるで、初めて口にしたマスルールへの想いの熱が、溶け出してるみたいに。
手が震える。
怖いからじゃない、幸せで。
わたしは、初めて本当の幸せを、受け取ることができたんだ。
マスルールの大きくて温かい手を、やっと、取ることができた。


『……大好きだよ、マスルール…』

「…!」


わたしは自然と微笑んでいた。
心臓が揺れて、全身が体温を上げる。
マスルールが、少しだけ小さく震えて、わたしを抱く腕の力を抜いた。
いま、どんな顔をしているんだろう。
そう思って、恐る恐る見上げると、マスルールは少し目を見開いて、わたしをじっと見下ろしていた。
真紅の瞳が、ゆらゆらと震えている。

炎みたいだ、と思いながら、ゆっくりと手を伸ばした。
太く筋張った首を撫でて、瞳と同じ色の髪の毛にそっと触れる。
マスルールは、今にも泣き出してしまいそうな切ない表情で、わたしを見つめている。
細められた目の周りに力が入っているのがわかって、ぎゅっと結ばれた唇は、小さく震えていて。
初めて見るマスルールのその顔は、まるで泣くのを我慢している子どもみたいだった。

はらはらとこぼれていくわたしの涙は、ぽたぽたと着物に落ちていく。
そっと指を滑らせて、マスルールの頬に触れた。
親指で目尻を撫でる。
愛おしくて、たまらなかった。


『…マスルール…わたしを、好きになってくれて…ありがとう』


右手でマスルールの頬を撫でながら、涙声のまま言った。
切なげに顔を歪めたマスルールは、わたしに手を伸ばす。
髪の毛に温かな指を絡ませると、頭をぐっと引き寄せられて、つよく、強く、抱き締められた。
マスルールの両腕が、わたしの身体を包み込む。
抱擁、だなんて優しい言葉は似合わない、乱暴で力強い、愛、それをひしひしと感じる、熱い腕の中。

こんなにも待たせてしまって、本当にごめんなさい、でも、ありがとう。
言いたいことはたくさんあるのに、涙が邪魔をして声にならない。
だから代わりに、わたしも強く抱き返す。
抱き込まれた腕の中で、必死にマスルールの背中に回した腕に、力を込めた。
それは縋るみたいに、心のままに。


「……そばに居てくれ…」

『…うん……』

「どこにも行くな…」

『うん…』


わたしの首筋に顔を埋めるマスルールに応えるように、わたしも体温の高い、彼の首筋に顔を埋める。
そこは、どくどくと激しく脈を打っていて、血が流れているのだとわかって、わたしはまたマスルールが愛おしくて、涙が止まらなくなるのだ。
わたしはこの腕で、手で、たくさんの命を奪ってきた。
そんな汚れた手で、わたしは無垢なマスルールの初恋を、大切にできるのだろうか。
こんな汚れた手で、わたしは、こんなにも一生懸命脈を打つ、強く生きているマスルールを、護ることはできるのだろうか。

わからないけど、でも、決めたんだ。
マスルールを、愛すと。
この人と一緒に生きていきたいと、この手を取りたいと、愛されたいと。
信じよう、そう、決めたんだ。

せつなげに息を吐くマスルールの、熱い吐息が首筋にかかって、体温が上がる。
ああ、好きだ。
この人が、愛しくて仕方ない。


「……なまえ」

『……ん?』

「…顔が見たい」

『…ん』


しばらく抱き合ったまま、マスルールの腕の中で泣いていると、ふとそう言われた。
本当は泣き顔なんて見せたくはないけれど、素直に頷く。
わたしを抱き締める腕の力を抜いたマスルールは、指先でやさしく、わたしの前髪を梳いた。
ゆっくりと顔を上げ、目を隠していた前髪を横に分けられると、涙で潤んだ視界に、マスルールの真紅の瞳が映る。
見慣れているはずなのに、綺麗だな、なんて改めて思った。
綺麗な、目だと。
目が合うと、マスルールは小さく微笑むように顔を綻ばせて、わたしの頬を撫でる。


「…綺麗な、目だ」

『……!』

「お前の瞳に俺の髪が映ると…朝焼けの空みたいな色になる」

『……』

「…知ってたか?」

『……ううん…』

「…綺麗だ」


やさしく、わたしの濡れた目尻を撫でながら、愛しそうに目を細めたマスルールが、そう繰り返す。
わたしの知らない、わたしの色を、マスルールだけが知っているのだ。
マスルールは、いつも、朝焼け色のわたしの瞳を見ていたんだ、他の誰も見ることはできない色の、わたしの瞳を。
きっと、わたしの瞳が朝焼け色になるのは、マスルールを見つめるときだけだから。

ぎゅっと胸が締め付けられて、思い出す。
アゼントリアからシンドリアに向かう船の中、マスルールに泣いて縋った日のことを。
”お前の瞳は、綺麗だ”と、わたしはマスルールに嘘をつかせた。
それが、いつの間にか本当になっていたんだ。


「…俺を見るその瞳が、一番好きだ」

『…っ…ありがとう…』

「でも…遠くを眺めてるときの、曇りの空みたいな色の瞳も、綺麗だ」

『…うん…嬉しい……』

「……どんなお前も、好きだ」


落ちる涙を親指で拭われて、息がつまる。
マスルールが惜しげなく、甘い言葉を口にしてくれるのは、きっとわたしを想ってのこと。
普段は、饒舌なんて言葉から程遠いマスルールが、わたしの前でだけは思ったことをきちんと伝えてくれるのは、わたしがすぐに不安になって弱ってしまうと知っているから。
マスルールの大きな手に触れて、そっと握る。
どこもかしこも、マスルールはわたしにだけ、甘くて優しい。
そんな特別が、死んでしまうんじゃないかってくらい、嬉しかった。


『わたしも、どんなマスルールも、好きだよ。マスルールの全部が、好き』

「……死ぬかもしれない」

『…え……?』

「…嬉しすぎて、死にそうだ」

『……』

「幸せで……殺す気なのか」

『………ばか』


本当にばかみたいなことを言うものだから、つい笑ってしまう。
繋いだ指を絡ませながら、マスルールも小さく微笑んだ。

幸せ、とは、こういうことを言うんだな、そう感じながらマスルールを見上げる。
やわらかく視線が絡む。
じっと見つめ合ってから、ゆっくりと、マスルールの顔が近付いてきた。


「………」

『……』


ゆっくり、ゆっくり、きっと、わざとわたしに逃げる隙を与えてくれているのだろう、マスルールが背中を屈める。
目を伏せるマスルールの赤い睫毛を見つめてから、わたしも心の準備と同じ速度で、ゆっくりと目を伏せていく。
どく、どく、と、わたしの鼓動なのか、それともマスルールの鼓動なのか、どちらかわからない心臓の音だけが、鼓膜を揺るがせた。
絡ませた指を手のひらで包み込むように握る。

目を閉じると、そっと、唇が重なった。


「…愛してる」


やわらかく、触れるだけのキスをしたマスルールは、温かい唇を少しだけ離して、掠れた声でそう言った。
その瞬間、心臓が溶け出すみたいに、震える。
わたしは、マスルールに愛されてる。
心から、深く、深く。
薄く開いた視界は、眩しくてたまらない。


『……わたしも、愛してる…』


つ、と、ひとすじの涙が頬を伝い、マスルールの指を濡らした。
頬に触れる大きな手の熱に、その涙は馴染んで溶けていく。
もう一度、触れるだけのキスをする。
今度は、わたしから。
そっと唇を離せば、あとを追うように、マスルールの唇がすぐにわたしのそれを塞いだ。
三度目のそれは、二度のキスよりも長く、熱い、やさしい口付けだった。

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