「なまえは、バルバッドという国を知っているか?」
就業時間が終わるとすぐ、シンさんの部屋に呼ばれた。
そこにはジャーファルさんとマスルールが居て、何やら地図を見ながら話している。
そこにわたしも参加すると、まずシンさんが、そんな質問をしてきた。
バルバッド、という、聞き覚えのない国の名前。
『いえ』
「そうか…バルバッドは、さほど大きな国ではないが、昔俺が教えを授かった恩人の国なのだよ」
『そうなんですか』
シンさんの恩人、初めて聞く話だった。
話の意図はわからないけれど、シンさんが昔話をしてくれるので耳を傾ける。
昔、貿易を始めたばかりで無知だったシンたんたちに、貿易や国について教えてくれたという恩人が、今は亡きバルバッド先王だと言うのだ。
「そのバルバッドが、突然シンドリアとの交易を打ち切ったんだ」
『……友好関係があって長く続いた交易を…?』
「あぁ。元王は先王の長男なんだが、いまいち信用ならない男でね。先王には多大なる恩があるから、意味もわからないまま関わりを立ちたくは無いんだよ…」
『……』
「だから、しばらくシンドリアを開けることになる」
『……つまり』
「バルバッドへ向かうことにしたんだ」
なるほど、ここへ呼ばれた理由がわかった。
突然シンドリアとの交易を打ち切ったバルバッドへ、シンさんが自ら理由を探りに交渉へ行く、とわざわざ伝えてくれたのだ。
ソファに背中を預けながら、蜂蜜色の瞳を見つめる。
「理由もわからないから何があるかわからない。だからどれくらいで帰って来れるかはわからない」
『…はい』
「同行してくれるか?」
『……え、わたしも行くんですか』
「アレ、伝わってなかった?」
二人して顔を見合わせてキョトンとすること、数秒。
わたしは今までの厳かな雰囲気の理由を今知った。
なんでしばらく国を離れると教えてくれるためだけにこんなに厳しい顔をするんだろう、と思っていたけれど、シンさんは初めからわたしについて来いと言っていたらしい。
しまった、全く気付かなかった。
シンさんの後ろで、ジャーファルさんが苦笑いをしている。
それとマスルールとも目が合った。
『すみません、全然わかりませんでした』
「いや、いいんだ。俺の言い方が悪かった」
『……えっと…わたしもバルバッドへ?』
「ああ。来てくれるか、一緒に」
『行きたいですけど…お役に立てるかどうか……』
わたしなんかが同行して、大丈夫なのだろうか。
ものすごく光栄なお話なのはわかってるけど、もし足を引っ張ったら、と思うと、素直に頷けない心境だった。
けれどシンさんは呆れたように笑って、首を振る。
「なまえは自分の力をいまいち理解していないな…」
『……』
「いいか、おまえは強い。九人将の中でもトップクラスだと俺は思ってる」
『え、いや、そんな…シンさんはちょっと、買いかぶりすぎです』
「そんなことはないよ。誰が見てもおまえは強い。現に、剣の腕じゃ右に出る者はいないとされていたシャルルカンだって、なまえには敵わないじゃないか」
『……』
「もっと自信を持ちなさい。さあ、答えを聞かせてくれ」
シンさんは、ちょっとわたしを買いかぶりすぎだと思う。
いつも思うけど、わたしの刀は”剣の腕”なんて呼べるほど立派なものでも綺麗なものでもないのだ。
でも、いくら内心否定をしようが、まっすぐに見つめてくる蜂蜜色の瞳を見ていれば、頷くしか無くなる。
不思議なもので、シンさんにはそんな力があるような気がするのは、わたしがただ弱いだけなのだろうか。
『光栄です…同行させてください』
「なまえ、それは嬉しいがこういうときの決め台詞があるだろう?ほら、教えたじゃないか!」
『……あ、ああ…そういえば』
「さ、仕切り直してもう一度!」
『…仰せのままに、王よ』
なんでシンさんはこんな恥ずかしいことわたしにやらせるのだろう。
と思ったけど、シンさんとジャーファルさんが満足そうに頷くので黙っておいた。
ジャーファルさんの隣にいるマスルールと目が合う。
その視線の意味はわからなかった。
「そうと決まれば三日後に出発だ、長くなった時のために長旅の準備をしておきなさい」
『はい』
「……ちなみに、なまえ」
『はい』
「シンは一言もマスルールが同行するかは言っていませんが…気にならないんですか?」
ふとジャーファルさんに話しかけられて、その可能性をやっと思いついた。
そうか、王が国を出る際のお付きは基本的に二人のことが多いから、わたしが行くとなればもう一人はジャーファルさんの線が高い。
ということはマスルールはシンドリアに残って、わたしは長ければ数ヶ月か、もし何かあれば数年マスルールと会えないということになるのだ。
その可能性を微塵も考えなかったのは、ただわたしが馬鹿なだけで、それにやっと気付いたわたしは、はっと目を見開いた。
『………』
「そんなこと考えてなかった…って顔ですね」
「マスルールが一緒じゃなければ、なまえは来てくれないのか?」
わたしを試すような顔でそう尋ねてきたシンさんに目を移して、考える前に首を振った。
そんなはずがない。
恋愛だのを仕事に持ち出すことは好きではないし、シンさんのために共に戦うと決めた日から、わたしの運命はシンさんの進む未来とともにあるのだ。
『そんなわけないじゃないですか、わたしを何だと思ってんですか』
「いや、すまない。ちょっとからかっただけだ」
「でも、そんなに簡単に決めていいんですか?長ければ数ヶ月…旅先で何かあれば数年会えなくなる可能性だってあるんですよ?」
『まあ…そりゃ、会えなくなるのはさみしいですけど…だからって常に一緒にいられるわけじゃないし…マスルールはわたしのこと待っててくれるかなーと思って』
「…当たり前だ」
「当たり前なんですか…」
「当たり前っス」
「旅先でなまえが行方不明になってしまったとして、いつ帰ってくるかも生死すらわからないなまえを何年でも待つのか…」
「…そのときは探しに行かしてください」
「愛だな…」
「愛ですね…」
『…話が逸れてますけど』
マスルールは、わたしがどこかで行方不明になって生死もわからなくなったら、そのときばかりは探しに来てくれるらしい。
普通にキュンとしてしまった。
子供の成長でも見守ってる親さながらにホロリときたのか、ジャーファルさんとシンさんがわざとらしい泣き真似を始めたのでツッコむと、シンさんはニコッと満面の笑みを浮かべた。
「バルバッドには美味い魚料理があるぞ!きっとなまえも気に入るだろう!」
『そうですか。楽しみにしてます』
「さあなまえ、女性の旅支度はいろいろと物入りでしょうから、マスルールと一緒に街へ買い物にでも出掛けたらどうですか?」
『そうですね。じゃあ、行ってきます』
「ええ、気をつけるんですよ」
『はい。行こ、マスルール』
「ああ」
優しい顔で見送ってくれるジャーファルさんとシンさんに軽く会釈をしてから、マスルールと一緒に部屋を出る。
バルバッドへの出発は3日後、なかなかに急な話だ。
まだ長旅に赴く実感が湧かず、隣を歩くマスルールをちらりと見上げた。
3日後シンドリアを出たら、わたしは数ヶ月、マスルールと会えなくなる。
前を見据えるまっすぐな横顔を見つめていると、ふと不安になった。
思い返してみると、マスルールと出会ってから、1日も顔を見ない日はなかった。
毎日最低一度は顔を合わせていたし、他の九人将のメンバーよりも共に過ごした時間は多い。
もはやマスルールはわたしの日常なのだと、やっと理解したのだ。
じくり、胸が熱くなる。
バルバッドへの旅に、マスルールは来ない。
胸からお腹へ、不安は広がっていく。
『………』
「………」
マスルールは、今何を思っているのだろう。
隣を静かに歩く、その横顔からは感情を読み取ることはできない。
わたしが見上げれば、いつもすぐに見下ろして目を合わせてくれるのに、今だけはそれをしないのは、マスルールもわたしと同じことを考えているからなのだろうか。
この、莫大な不安を。