「いやぁ、毎年のことだが…バレンタインデーは町中がピンク色に染まっているな!」
王宮のバルコニーから街を眺めるシンさんが、嬉しそうに言う。
今日は一年に一度のバレンタインデー、街は大いに色めき立っている。
いつもよりも男女のカップルが多く、そこかしこで愛の告白合戦だ。
シンさんも女の人を小脇に数人抱えているけれど、いつものことなので気にならない。
ついでに言うと、街はピンク色一色だけど、王宮はそうでもなかった。
ヤムライハさんは相変わらず部屋にこもって魔法の研究に明け暮れているし、スパルトスさんやドラコーンさんは外勤に赴いているし、ヒナホホさんは子供たちの相手で忙しそうだし、ジャーファルさんは書類に追われているし、ピスティは男を漁っているし、シャルさんはいろんな女の人に手を出そうとして失敗している。
まあみんなバレンタインデーなんていう柄じゃないから、全く違和感はないけれど。
そしてマスルールだけど、さっきからその姿が見えない。
用意したプレゼントを渡したいのに居ないので、わたしは少し困っていた。
『あの、マスルール見ませんでした?』
「マスルール?マスルールならさっき、街へ行くところを見ましたよ」
申し訳なかったけど、忙しそうにしていたジャーファルさんに尋ねてみた。
そうしたら、意外な答えが返ってきたので疑問が浮かぶ。
マスルールが街へ?
滅多に街なんか行かないくせに、今日に限ってなんの用なんだろう。
もしかして告白でもされているのだろうか、顔は整っているし九人将だしモテないことはなさそうだ。
そんな妄想をして、自分の胸の内がもやもやと曇っていくのがわかった。
どれだけ勝手な女なのだろう、わたしは。
マスルールの想いに応えてあげられていないくせに、嫉妬は一人前にするなんて頭がおかしい。
けれどマスルールのことだ、他の女とどうこうなったりしている可能性はゼロに近い。
と、そう信じている。
毎日毎日好きだと言われていれば、そんな風に根拠のない自信だって湧いてしまう。
きっと何か用があるんだろう、そう考えて、一足先に自室へ戻っていることにした。
マスルールは毎晩眠る前にはわたしの部屋を訪ねてきて、わたしが眠るまで話をしたりしているので、きっと今日も来てくれるからだ。
もし来なかったら、その時は探しに行こう、そう決めて。
「……入るぞ」
コンコンコン、と、扉を叩く普通よりも強めのノックの音が聞こえて、はっと意識が浮上した。
ソファに座って本を読んでいるうちに、いつの間にかうたた寝してしまっていたらしい。
ドアの向こうから聞こえてきた声によって、誰がわたしの部屋を訪ねてきたのかはわかっていたけれど、返事を待たずに開いたドアに少し驚く。
「…寝てたのか」
無遠慮に部屋に入ってきたのは、やっぱりマスルールだった。
ソファに寝転んでいた体を起こして目をこするわたしを見てから、扉を閉めてずかずかと近寄ってくる。
外はもう薄暗いけど、今は何時なのだろうか。
非番だったからだろう、いつもの鎧を着けずに官服を着ているマスルールは、手に何か小さな箱を一つ持っていて、わたしの側へと来ると、大きな手で頭をそっと撫でてくれる。
『…寝癖ついてる?』
「いや、ついてない」
わたしの隣に腰掛けたマスルールは、寝癖はついていないと言いながら、髪の毛を梳かすようにしてわたしの頭を弄んでいる。
マスルールの体重でへこんだソファの生地を撫でながら、赤い目を見上げた。
今日の朝から会っていなかっただけなのに、探してもマスルールが見つからなくて少しだけさみしかったのは、わたしが欲張りになったからだろう。
じっとわたしを見つめる赤い瞳が細められて、まるで愛してるって言われてるみたいだった。
わたし、いつの間にこんなにマスルールを好きになったんだろう。
半日会えなかっただけなのに、いま目の前にマスルールが居て、触れられることが堪らなく幸せだと感じる。
優しい手つきでわたしの頭を撫でているマスルールを見つめながら、手を伸ばして頬に触れた。
ぴく、と大きな手が反応する。
マスルールの目尻を親指でそっと撫でると、紅色の濡れた瞳が、愛おしそうに、また細められた。
『……どこ行ってたの?』
「…街だ。頼んでおいたものが出来上がったから、取りに行っていた」
『……』
「探したか…?」
『…うん』
何も言わずに出て悪かった、と謝るマスルールに、心臓が小さく震えた。
そんなの、マスルールが謝ることじゃない。
街へ出るくらい、別に報告しなくたっていい。
なのに、勝手に不安になったわたしを気遣って謝ってくれたマスルールが、愛おしくて、心臓が痛くなった。
マスルールはすこし、優しすぎる。
その優しさに甘えて、漬け込んで、残酷なことをしてるわたしは、きっと世界で一番、ひどい女だ。
『謝らなくていいよ。外出するのにわたしの許可なんていらないでしょ』
「…おまえが俺を探してたのに」
『マスルールは召使いじゃないんだから…わたしのことなんて気にしなくていいよ』
「俺がしたくてしてるんだ、おまえこそ気にするな」
『…いや、するよ。マスルールのこと縛り付けてるみたいで、なんかやだし』
「…おまえが俺を呼んだとき、すぐに駆けつけるって約束した」
『…………したっけ、そんな約束』
「した。俺の心の中で」
心の中でか、ならそれはわたしとの約束ではないな、と変なことを冷静に考えた。
マスルールはほんとに馬鹿だなぁ、と、思う。
どうして、わたしなんかをそんなに好きでいてくれるんだろう。
馬鹿だよ、ほんとこいつ。
『そんな忠犬みたいな約束しなくていいから』
「気にするな、俺が勝手にしてるだけだ」
『……』
「…用があるのに俺がそばにいないときは、でかい声で俺を呼べ。聞こえる範囲にいればすぐ行く」
『……じゃあ、マスルールもわたしがいないとき用ができたら、すごいでかい声で呼んでね』
わたしはマスルールみたいに耳良くないから、と笑うと、マスルールも口角を持ち上げて笑ってくれた。
表情の乏しいマスルールはあまり笑わないけど、かすかに表情を変えることはよくある。
一緒にいるうちに、その微かな変化に気づけるようになれたのが嬉しい。
それに、わたしといるときによく微笑んでくれることも。
ふと、マスルールの唇の下のピアスを見て、忘れかけていたバレンタインデーのことを思い出した。
いけない、買ったプレゼントを忘れるところだった。
テーブルの上に置いている小さな箱を手に取ると、マスルールは少し不思議そうな顔をした。
『今日バレンタインデーっていう記念日だって、ヒナホホさんに教えてもらったの』
「…ああ……」
『……これ、マスルールにあげる』
小さな箱に巻き付けられていたリボンを解いて、ふたを開けた。
中から現れたのは、木製の、黒に近い茶色の指輪が二つ。
大きいサイズの方は、黒い塗料でシトリーのものにそっくりな紋様が描かれている。
そして小さなサイズの方は、赤い塗料で同じ紋様が描かれている、所謂ペアリング、というやつだ。
マスルールは、ペアリングの意味を知っているだろうか。
ペアリングは、恋人同士が同じ指に嵌めるものだと、わたしはこの世界に来てから知ったのだけど、それも国や地域によって意味が変わったり、そんな文化がなかったりするらしい。
市場で買った木製のリングの入った箱を手のひらに乗せて、マスルールを見つめる。
マスルールは、ぴたりとフリーズしていて、しばらく動かなかった。
『……何固まってんの』
「…………それ、俺にか…?」
『…そうだよ。もらってくれる?』
驚いているんだろう、マスルールは瞬きもせずに、指輪をじっと見つめている。
わたしがバレンタインデーに贈り物をするとは、微塵も思っていなかった、という顔だ。
それがおかしくて、少し笑った。
『これ、暗黒大陸にだけ生えてる大木から作られた指輪なんだって』
「!……暗黒大陸…」
『マスルールの故郷でしょ?』
「…ああ……」
『…前に故郷へ行ったとき、ファナリスが一人もいなくてさみしい思いしたって、シンさんに聞いた』
「……ああ…」
『でも、それでもそこはマスルールの故郷なんだよね。わたしは行ったことないけど…いつか、行ってみたいな』
「…ああ…」
『…分かってる?』
「…?」
『……連れてって、って意味だよ』
フリーズしたままの、マスルールの大きな左手を、自分の左手で握った。
それから、右手で摘んだ指輪を、マスルールの左手の薬指に嵌める。
サイズはかなり悩んだけど、すっと入ったその指輪は、きちんとマスルールの指にフィットしてくれた。
よかった、サイズが合って。
マスルールの大きな手に、暗黒大陸の木でできた指輪が、よく似合っている。
『似合ってる』
「………」
『…いらなかったら、外していいから』
「…なまえ」
『!…』
指輪のはまった大きな手を見つめながら言うと、握っていた手をぐっと引っ張られて、マスルールの胸の中に抱き寄せられた。
目を見開く前に、ぎゅっと強く抱きしめられる。
背中に回った太い腕がすごく暖かくて、きっと喜んでくれたんだ、と安心した。
もう、マスルールの体温が怖くない。
わたしもそっと、大きな背中に腕を回した。
人と触れ合うのって、こんなに暖かかったんだ。
こんなに幸せなことが、怖かったなんて、わたしは馬鹿だ。
少しだけ、泣きそうになる。
「…………」
『……』
「指輪…一生、大事にする」
『…うん』
「……なまえ…」
『ん…?』
「…好きだ……」
頭の後ろで、マスルールの低い声がする。
じわっと、体温が上がる。
目が潤む。
わたしも好き、そう、心の中では、頭の中では思ってるのに、口が動かないのはどうして。
伝えたいのに、伝えることができない。
ぎゅっと、マスルールの胸に強く抱きついた。
離さないでって言うみたいに、強く。
『…マスルール……』
「……泣くな」
『…泣いてないよ』
「泣きそうなときの声だ」
『……うん…』
「…心配しなくても、ちゃんと伝わってる」
『!』
「好きだ、なまえ」
ぎゅうっと、マスルールの腕にさらに力が入って、息が苦しくなる。
本当に、わたしの想いは伝わっているのだろうか。
言葉無しで、行動だけで。
そんなはずないのに、マスルールが優しい声を出すから、わかってくれている気がして、わたしはまたそれに甘えてしまうのだ。
早く、強くなりたい。
マスルールに、ためらい無しに気持ちを伝えられるくらいに。
『…その指輪の紋様、シトリーの肌の紋様にそっくりなの』
「……ああ…おまえのジンの…」
『うん』
「…確かに…なまえが全身魔装したときに肌に浮かび上がる、黒い模様に似てるな」
『うん』
「……でも、なんで指輪二つあるんだ…?」
力を緩めてくれたマスルールと抱き合ったまま、いつもより小さな声で会話をする。
この時間が好きだ。
マスルールと二人きりの、この時間が。
『もう一つはわたしのだよ』
「…なまえの?」
『うん。気に入ったからおそろいで着けようと思って…イヤだったらやめとくけど』
「……嫌なわけないだろう」
『…なんか間があったけどいま』
「いや、可愛かったから…手が出そうになったのを堪えただけだ」
手が出そうになった、というのは、おそらく殴りそうになった、という意味ではない。
だとしたら性的な意味だろう。
なんでマスルールはそういうことを馬鹿正直に言ってしまうんだろう、逆に恥ずかしくなる。
それに反応にも困る。
返事の代わりにため息を吐くと、少し身体を離したマスルールが、小箱からもう一つの指輪を取り出す。
マスルールの指に摘まれた指輪はすごく小さく見えた。
「俺と同じ指にはめるのか?」
『うん』
わたしの左手を取ったマスルールが、ゆっくりとおそろいの指輪をはめてくれる。
サイズは店で確認していないのにピッタリなので、やはりこれは運命だとしか思えなかった。
木製の指輪のはまった左手を見つめる。
幸せだ、なんて、今日何度目か知れないけれど思った。
「…左手の薬指にはめるのには何か意味があるのか?」
『知らないの?』
「知らん。指輪は着けたことがない…シンさんはジャラジャラ着けてるけど」
『じゃあシンさんに聞いてみなよ。物知りだから知ってるかも』
「…おまえは教えてくれないのか」
『うん。秘密』
左手の薬指にペアリングをはめる理由なんて、恥ずかしくて口にできないからだ。
レームのアゼントリアという港町の辺りでは、結婚した夫婦や恋人同士が、こうして左手の薬指に同じ指輪をはめる、という風習がある。
それをマスルールは知らないと言うので、わざわざ言う必要もないだろうし、言わないでおくことにした。
だって、贈る意味を教えてしまったら、まるでプロポーズみたいだから。
そんなつもりはないけれど、やっぱり恥ずかしい。
それでもおそろいの指輪を着けているというのは、目に見えて幸せを感じる。
本当はこうして目に見える、先に残る形で、気持ちを確かめるのは好きではないけれど。
マスルールはこの先もわたしを好きでいてくれる、そう信じているから。
わたしはまた一歩、踏み出すことができたのだ。
「…失くさないよう気をつける」
『うん』
「……何があっても外さない」
『…うん。わたしも』
「…風呂とか着けたままで大丈夫なのか」
『コーティングしてあるから大丈夫だって言ってたよ』
そう答えると、マスルールは安心したように指輪を撫でた。
ちゃんと喜んでもらえたみたいで嬉しい。
わたしも同じように自分の指にはまっている指輪を撫でると、ソファの上で何かがカチャ、と音を出した。
目を向けると、マスルールが持ってきた小さな箱が、わたしの足に当たって音を出したようだ。
そういえば、作らせたものが出来上がったから取りに行っていた、とか言っていたけど、マスルールは何を誰に作らせたんだろう。
不思議に思って顔を上げると、わたしを見ていたマスルールと目が合った。
「…俺も、おまえに渡すものがある」
『……バレンタインデーの…?』
「そうだ」
『………!』
マスルールが持ってきた小さな箱は、わたしへのプレゼントだったらしい。
なんとなく予想はついていたけれど、マスルールもプレゼントを用意してくれていたんだとわかって、素直に嬉しかった。
記念日とか気にしなさそうな顔をしてるのに、意外だなと思いながら、箱を開けているマスルールを眺める。
マスルールがわたしへ、と買ってきてくれた箱の中に入っていたのは、二つの銀細工のアンクレットだった。
ひとつは華奢なもの、もう一つは少し無骨なデザインのもの。
その美しさに、一瞬息を飲む。
『……』
「…足飾りだ」
『………二つ、ある』
「……銀細工の職人に、なまえへのプレゼントを作って欲しいと言ったら、ペアにしろと言われたから…そうした」
じわっと、涙が浮かんだ。
なんでわざわざ職人に頼むの、とか、ペアリングも着けてアンクレットもペアにしたら、おそろいのものが二つになる、とか、いろいろな感想が浮かんだけど、なによりやっぱり、嬉しかった。
こんな綺麗なものをわざわざわたしのために用意してくれた、だなんて。
溢れる寸前まで目に溜まった涙を袖で拭うと、マスルールは優しい顔をする。
『…っ…きれい…』
「ああ…お前に似合う」
『……こんな、きれいなの…、いいの…?』
「…おまえのために用意したんだ」
『…う、嬉しい……』
「……着けるぞ」
しゃら、と小さな音を立てて華奢な方のアンクレットを手に取ったマスルールは、床に跪いて、わたしの左足を持ち上げた。
右脚が露出しているのに、わざわざ左足を選んで着ける、というのには、何か意味があるんだろうか。
よくわからないけれど、マスルールの大きな手がわたしの足首にアンクレットを着けて、その冷たい銀が、わたしの肌へぴたりと触れる。
「………」
『……刀振っても、壊れないかな』
「頑丈に作ってもらったから…ちょっとやそっとじゃ壊れたり外れたりしない」
『…ありがとう、マスルール』
「ああ……よく似合ってる」
わたしの前に跪いたままのマスルールを見つめて、足を少し動かすと、足首のアンクレットがしゃら、と綺麗な音を立てた。
銀細工が、すごく綺麗。
箱に残っているもう一つの、サイズの大きい少し太くて無骨なデザインのアンクレットを手に取ると、マスルールがゆっくり立ち上がる。
ついでみたいにテーブルの上に足を乗せたので、わたしはソファに座ったまま、マスルールの左足首にアンクレットを着けてあげた。
マスルールの言う通り、アンクレットの装着金具はかなり頑丈なものになっている。
これなら戦闘中でも壊れたり外れたりしなさそうで、一安心だ。
アンクレットを着け終わると、マスルールがテーブルから足を下ろした。
かちゃ、と、金属同士がぶつかる音がする。
マスルールはもともと足首に金属の輪っかをつけているから、アンクレットがそれにぶつかってカチャカチャ鳴るんだろう。
『マスルールは歩くとき、カチャカチャ鳴って分かりやすいね』
「………」
分かりやすい、と言ったばかりなのに、マスルールはカチャカチャ鳴るのが気に食わなかったのか、もともと着けていた金属の輪っかを少し上の位置にずらした。
それでぶつからなくなったので音は鳴らないけど、その不満げな顔が可愛くて少し笑う。
『マスルールって、バレンタインデーにプレゼントとかするんだね。意外だった』
「…おまえにやったのが初めてだ」
『…そうなの?』
「ああ」
『……そっか』
初恋なんだから当たり前だろう、とマスルールの顔に書いてある。
そうだ、バレンタインデーにプレゼントを贈り合う意味を忘れていた。
恋愛感情が確かに絡んでいるのだ。
足首に光るアンクレットを見てから、左手の指輪を見る。
きっとわたしが指輪をプレゼントした意味を、マスルールはきちんとわかってくれている。
『わたしも、こんなに嬉しいプレゼントは初めて』
「……抱きしめてもいいか」
『…うん』
さっきは何も言わずに抱きしめてくれたのに、と思いながら、自分から腕を伸ばして見せた。
そっと、上からマスルールが、肩口に顔を埋めてくる。
その吐息が、体温が。
愛おしくて、わたしは生まれて初めて、本当の幸せに浸った。