毎朝の朝議の時間を欠伸を噛み殺しながらどうにか耐え、これから内勤の人だけで朝食を食べに行こう、という話になった。
こっちの世界ってパンばっかりなんだよな、米が食べたいなあ、なんて考えながら、食間へ移動するみんなの後を追おうと身を翻した、そのとき。
「なまえ」
珍しく遅刻せずに朝議に出席していたマスルールが、少し離れたところからわたしを呼んだ。
しかし呼ぶだけで、そこから動こうとはしないので、仕方なくそちらへ歩み寄る。
『なに?みんな先行っちゃうよ』
「すぐに済む」
『?』
見上げれば、マスルールはじっとわたしを見下ろして、顔を近づけてきた。
そして、少し身体を屈めて、わたしの耳元に口を寄せる。
「…好きだ」
マスルールの髪の毛が頬に触れてくすぐったい、とか思っていたわたしは、鼓膜を揺るがせた低い声に、フリーズして動けなくなる。
『…………』
「…………」
『…は…?』
好きだって、言った?
頭でそれを理解すると、じわっと頬に熱が集まる。
意味がわからない。
なんで、みんなでこれから朝食を食べに行こうという時にわざわざ引き止めてまで、それを耳打ちで伝えるのか。
ていうか、こないだ聞いたばかりだし、何故また言う必要があるのかも。
その一連の出来事が恥ずかしくて、行き場のない気持ちを込めて、マスルールの胸を軽く叩いた。
『なに、いきなり…!』
「人に聞かれるのが嫌だって昨日、お前が言ったんだろう」
『いや、そうじゃなくて…なんでいま、言うの?』
わざわざ引き止めて耳打ちをした理由はわかった。
昨日の宴で、みんなの前で恥ずかしいこと言うな、とわたしが言ったからだ。
でも問題はそこじゃない。
恐らく頬が赤いだろう顔のまま、眉をしかめてマスルールを見上げた。
すると、マスルールはなぜか、ぴたりと動きを止める。
『……?』
「……………」
『……どしたの』
「……そんな顔されると、無理やりでも色々したくなる」
『……』
この男の嗜好が全く理解できなくて、眉のしわが深くなった。
そういえば、前にもわたしの怒った顔が好きだとか言っていたけど、なんなんだ、マスルールはわたしの不機嫌な表情にときめくのだろうか。
変態か、こいつは。
素直にドン引きしながら、身の安全を確保するため少し身体を離す。
話が脱線してしまった、マスルールのせいで。
何も言わずに黙っていれば、歯がゆそうに唇の片方を少しだけ動かしたマスルールが、何かを思い出したような顔をする。
「嫌なのか?」
『…何が?』
「俺に好きだと言われるのが」
なんて脈絡のない会話だろう。
一瞬思考が遅れたけれど、ああ、さっきの話に戻ったのだと理解した。
まっすぐにわたしの目を見つめてくるマスルールの、赤い瞳から視線を逸らして、所在なさげに体の横に垂らされている大きな手を見つめた。
『……いやじゃ、ないけど』
「……」
『意味がわかんなかっただけで…』
「昨日、好きとか言われるのが嬉しいってお前が話してたのが聞こえたから」
『……ああ…』
「毎日一回は言うことにした」
なるほど、と、何処か他人事のようにマスルールの突然の囁きの理由を理解した。
昨日の宴で、わたしがヤムライハさんとピスティと話していた内容が聞こえていたんだろう。
流石はファナリス、耳が良いことで。
きっと、この行動も、マスルールの言う「信じてもらうための努力」の一つ、なんだろう。
しかし、昨日の会話を聞いただけで、”毎日好きと言う”と決めるあたり、マスルールの本気さや必死さが伝わってきて、切なくなった。
昨日のアレは、”好きな人”に好きだと言われるのが嬉しい、と言う意味だったのに、マスルールは”男”に好きだと言われるのが嬉しい、と解釈したのだろうか。
そりゃ、マスルールを何とも思わない訳ではないし、他の男よりは断然好きだし、ある種では、特別な存在だと思っている。
けれど、まだ、マスルールの気持ちに応えられるほど気持ちの整理がついた訳でも、燃えるような恋心を抱いているわけでもない。
だから、大まかにカテゴライズしてしまえば、マスルールは、昨日わたしの言った”好きな人”の中には、入らないのだ。
わたしの言った”好きな人”とは、”最愛の人”、という意味だったから。
だって、わたしの”最愛の人”の中に入るのは、いつでもたった一人だけ。
その人は、自分では抑えられないような激情を抱くほど、わたしが愛する人。
いつか、わたしが強くなれれば、マスルールの手を取ることができたとすれば、マスルールがわたしの”最愛の人”になるかもしれない。
けれどまだ、わたしはそこまでマスルールのことを考えられるほど、強くない。
マスルールは少し、その意味を履き違えている。
けれど。
「嫌か?」
『…………』
けれど、毎日好きだと言ってくれるだなんて、マスルールがわたしを好きだという、大きな証明には、なるかもしれない。
いろんな葛藤を抱えているわたしの胸は、無駄にあれこれと悩んでいるくせに、たった三文字、短い声で、好きだと言われただけで、それが毎日続くのだと思うと。
『ううん…嬉しい』
嬉しくて、震えている。
きっと相手がマスルールじゃなければ、それはただ迷惑なだけなのに。
余りにも真っ直ぐで未知数な彼の気持ちに、わたしの気持ちまで動かされていた。
じんわり、心臓が熱くなる。
幸せだ、なんて感情が、多くの葛藤の後ろに隠れて、見え隠れする。
けれど、こんな時にでも、ふと重なってしまうのだ。
過去が、”彼”が、思い出が。
素直にマスルールを受け止めて、その手を握ってしまいたいと言う気持ちと、信じたらまた絶望の淵から突き落とされるんじゃないかなんていう気持ちが、融合することはなくぶつかり合っている。
『……本当にそう思ってくれてる、なら…嬉しいよ、すごく』
「…ああ」
『…でも、嘘なら…言わないで』
まだ、信じきれていない。
そう言ってるのも同じ台詞を呟いてから、後悔した。
わたしはまた、懲りずにマスルールに、酷いことを言っている。
気持ちを疑われて、傷付かない人なんていない。
ずき、と、傷付く資格もないのに、わたしの胸までも痛んだ。
はっとして、謝らないと、と、顔を上げる。
目の合ったマスルールの瞳が、あまりにもまっすぐで、指先が痛くなった。
『…ごめん……』
「俺は、お前に嘘はつかない」
『…………』
「約束する」
マスルールはどうして、こんなに強いんだろう。
何度拒絶されても、疑われても、怒ることも打ちひしがれることも、諦めることもしない。
その強さが、わたしには酷く羨ましい。
わたしももっと強ければ。
そんな、考えたって意味のないことばかり、頭を巡って、ぼろぼろと崩壊していくのだ。
マスルールの瞳を見つめた。
赤い瞳は、一度だってわたしから視線を逸らすことはない。
『……もう一回、言って』
「…お前にだけは、嘘をつかない」
『………さっきと違う』
「……そうか…?」
『……じゃあ…約束ね』
微笑んで、右手の小指をマスルールに伸ばした。
指切りげんまん。
実は、指切りをして約束をするのは初めてだった。
だって、子供の頃から戦争に出ていて、いつ死んでもおかしくない状況で、確かな約束をすることなんて、できなかったから。
今も、わたしはいつ死んだっておかしくない。
いつ、この世界から消えたっておかしくないけれど。
ふと、したくなったのだ。
マスルールと。
「ああ、約束だ」
マスルールの大きな手が伸びてきて、ゆっくり、太い小指が、わたしの小指に絡んだ。
『指切りげんまん、嘘ついたら針千本、飲ーます』
「?」
『指切った』
繋いだ小指を小さく揺らして歌ってから、そっと離した。
そうして見上げれば、マスルールは不思議そうな、いや、訝しそうな顔で、わたしを見下ろしている。
『…?』
「今の、何だ?」
『あ、知らない?わたしの故郷では、約束するときに指切りして、ああやって歌うの』
「知らん」
指切りは知ってるのに、変なの。
そう思ってから、そういえば、結局みんなに置いていかれてしまった、なんて思い出す。
今から朝食か、急がないと仕事に遅れそうだ。
『約束破ったら、ホントに針千本飲ますからね』
「まあ、いいけど…針千本なんて用意できないだろう」
『できるよ。かき集めるもん。でも、マスルールは針千本飲んだって平気そうだね』
「…流石に針を飲んだことはないな」
マスルールの通常運転な声に小さく笑ってから、朝食を取るため、食間への道を進む。
だいぶ遅れを取ってしまったから、もうみんな食べ終わってるかもしれない。
マスルールもわたしの後ろを歩きながら、まるで寝不足みたいに、大きなあくびを零した。
夜もよく寝て昼寝までしてるくせに。
今日もいい天気だから、きっとこの後、マスルールは森で昼寝でもするんだろう。
その様子を想像してみて、微笑ましさに口角が上がった。