still take time

「マスルールなら、森で昼寝でもしてるんだろう」


マスルールを探してる、なんて一言も言っていないのに、シンさんはそう言って笑った。
そう、わたしはマスルールに、謝らなくちゃいけない。
大切な気持ちを伝えてくれていたのを、わたしは怖くなって、逃げ出した。
最低なことだ。
愛されたいなんて言って、いざそうなったら逃げ出すなんて。

食事を取り、侍女たちに昨日のことを謝ってから、部屋に戻って時雨を腰に差した。
そして、心を決める。
まだ怖い、マスルールと話をするのは。
あの瞳を見るのが、怖くてたまらない、だけど。
もう、わたしは、逃げない。


マスルールがよく昼寝をしているという森へ入ると、オラミーが足にすり寄ってきた。
リスのような生き物で、その大きな尻尾の中には、まだ小さな子供が三匹ほど守られている。
ふわふわとした毛が足に当たってくすぐったい。
人懐こい性格なので、こうしてすり寄ってきたのだろう。
その愛くるしさに、薄く笑んでしゃがみ込み、オラミーの身体を抱き上げた。
結構重いな、と思いながら、オラミーを腕に抱く。
甘えるように小さく鳴いたオラミーを抱きしめながら、マスルールを探して森の中を進んだ。


『…あ……』


いた。
そう小さく呟けば、腕の中でオラミーがわたしを見上げる。
森の中をしばらく進んだところで、草の上に身体を寝かせて昼寝をしているマスルールを見つけたのだ。
すやすやと気持ちよさそうに眠っているその周りには、たくさんの動物たちが集まっている。
攻撃的なパパゴラスが、慕うようにマスルールの側にいるということは、彼が森の動物にとても懐かれているということだ。

目を閉じて眠っているマスルール。
その寝顔を見て、少し息が苦しくなる。
未だに、信じられなかった。
この人が、わたしを特別に想ってくれているということが。
胸の辺りがむずむずして、たまらず小さく息を吐く。
大きな鳥のような生き物、パパゴラスが、マスルールをわたしから守るみたいに、威嚇の声を上げた。
マスルールはまだ、起きない。


『……マスルール…』


ごめん。
それが言いたくて来たのに、意気地なしのわたしは、彼を起こすことすらできない。
腕の中にいるオラミーをぎゅっと抱き締める。
それからマスルールの名を小さく呼べば、地面に寝ているマスルールの耳が、ぴくりと動いた。


「…………なまえ」

『……』


起こしてしまったのだと、マスルールの目が開くのを見て分かった。
覚醒したマスルールに名前を呼ばれて、体が勝手に強張る。
それに驚いたのか、オラミーがわたしの腕の中からすり抜けて、マスルールの元へ走っていった。
のそっと、ゆっくり身体を起こしたマスルールは、その膝に擦り寄るオラミーの頭を指先で撫で、欠伸をする。
そして、オラミーに向けていた視線を、ついとわたしへと向けた。

その紅色の瞳と視線が絡んで、一瞬、心臓がひきつる。
その瞳に込められた、感情が、わたしには分からなかった。
分からない、はずだったのに。


「…どうした?」


いま、マスルールがわたしに向ける視線の意味が、それに込められた感情が、伝わってきて。
わたしはまた、泣きそうになる。
どうして、こんなに強くて、優しい人が、わたしなんかを、って、息が苦しくなる。


『…………この間、…謝肉宴のとき…』

「………」

『……ごめん…』


声が、小さくなった。
マスルールの顔を見られなくて、うつむく。
違う、もっと、言わなきゃいけないことは、たくさんあるのに。
シンさんには言えたのに。
ぐっと、自分の手を握りしめる。
謝らなくちゃいけないことは、まだたくさんあるのに、声が出ない。
なんでわたしは、こんなに。
こんなに、弱いんだろう。


「好きだ」


時間が、止まったのかと思った。

マスルールの声が、やけにはっきり聞こえて、他の音、例えば動物の鳴き声とか、喧騒とか、何もかもが聞こえなくなった。
一瞬。
それは一瞬だったけれど、わたしには、マスルールの声しか、聞こえなかったのだ。
まるで、世界にわたしとマスルールだけが、置き去りにされたみたいに。


『……え………』

「お前が好きだ、なまえ」


壊れるんじゃないかってくらい、心臓が震える。
怖いからじゃない、だけど、なんでなのかはわからない。
いまわたしの中に湧き上がる、この感情を、一体何と呼ぶのか。
わたしには、わからない。

ドクン、と、全身が心臓になったみたいな、感覚がした。


『…………な…んで……』

「謝肉宴のとき言えなかったから、お前が逃げて」


違う、そうじゃない。
なんで、わたしなんかを、って、思ったの。
なんで、こんな、弱くてみじめで、自分のことばかりを考えてるような、こんな、汚いわたしを。

どうして。


「…お前を好きだと自覚したら、それをお前に知って欲しくなった」

『…………、…』

「お前のことばかり考えていたら、シンさんに”言わないと伝わらない”と言われた。なまえは、誰かが自分を好きだなんて考えもしないだろうから、と。……言えばすっきりするのかと思って、言っただけだ」


マスルールはそう言って、地面にあぐらをかいたまま、わたしをじっと見つめる。
その紅い瞳を見つめているうちに、じわりと心臓が、熱くなった。
細かく震えて、背中へとその熱が溶けていく。

これは、何……?
息が詰まって、何も考えられなくなる。
わたしが何も言えずにいると、ふ、と、マスルールの視線が、わたしから逸らされる。
大きな膝に擦り寄るオラミーを見下ろしている、その顔を見て、目頭が熱くなった。


「でも、お前が嫌ならもう言わない」

『!』

「困らせて悪かった」

『っ、嫌じゃない!』


気付けば、怒鳴っていた。
マスルールがわたしを見上げる。

はっと我に返って、無意識に口に出した言葉を今更理解する。
嫌じゃない。
わたしはマスルールに好きだと言われて、嫌じゃない。
嫌なはずがない。
つっと、頬を水滴が滑り落ちて、気付く。
また、自分が泣いていることに。
昨日馬鹿みたいに泣いたのに、まだ涙は枯れずに、わたしの涙腺は緩んだまま。

ぽたっと地面に落ちる涙を目で追ってから、マスルールの正面に座り込んだ。
ぺたりと、草の上に腰を下ろすと、わたしの膝にオラミーがすり寄ってくる。
所謂女の子座りをした、わたしの右足に涙がぽたぽたと落ちて、それをオラミーがざらついた舌で舐めた。


『…いやじゃ、ない……』

「……………」


俯いて、もう一度、確かめるように呟いた。
嫌じゃないよ、嫌なわけない。

ぽたぽたと目から溢れ続ける涙が、露出した右脚をゆっくり濡らしていく。
視界に映る、自分の脚とオラミー、緑色の草の生えた地面、そしてマスルールの、白い布に覆われた大きな膝。


「…この前は聞きたくないと言っただろう」

『……あのときは……ごめん』

「……………」

『…びっくり、して…怖く、なって、逃げた……ごめん、マスルール…』


目をぎゅっと瞑る。
睫毛が濡れて気持ち悪い。
膝にオラミーの毛が当たって、くすぐったい。

あのとき、マスルールの瞳に”彼”を重ねて、逃げたことを、やっと謝れた。
ごめん、ごめん、何度言ったって足りないけれど、それ以外の言葉、わたしは知らない。


「…謝らなくていい」

『…でも、…ごめん』

「すまん」

『え…?……なにが』

「いきなり言った俺が悪い」

『マスルールは悪くないよ。…あ……ありがとう…』

「?…何が」


さわ、とぬるい風が吹く。
ありがとう、って、なんでわたし、お礼なんて言ってるんだろう。
自分でもよくわからなかったけれど、気付く。

ああ、わたし、嬉しかったんだ、と。


『…わたしなんかを…好きだって、言ってくれて……嬉しい』

「………嬉しそうには見えん」

『……嬉しいよ』


マスルールの顔を見ることができずに、オラミーを見つめてつぶやく。
好きだと言ってもらえて、心臓が震えるほど、嬉しい。

だけど。
だけど、手放しで喜べるほど、わたしの過去は、過去になりきれていない。


『ほんとに、嬉しい……けど…わたし、まだ、信じられない』

「…………」

『…マスルールが、そんな嘘つく人じゃないって、わかってるよ。…でも、まだ……忘れられないの』

「…昔の男か?」

『……うん。…まだ好きだとか、そういう意味じゃないよ』


むしろ、一度は憎んだ。
かつて愛した”彼”は、死んでなお、わたしを縛り付けている。


『…”あの人”が、わたしを愛してるって言うのを、わたし、信じてた……なのに、愛されてたのは、わたしじゃなくて…わたしの母で』

「…………」

『……”あの人”が、愛してるって、わたしを見てた、あの瞳が…忘れられないの。……全部、嘘だったのに』

「…………」

『あの…愛おしそうな目は、わたしじゃなくて、母を見てた』


だから、怖い。
愛おしそうな視線を向けられるたび、怖くなる。
マスルールのその瞳が、本当に見ているのが、誰なのかわからなくて、信じられなくて。

そっと、頬にマスルールの手が伸びてきた。
触れられて、小さく肩が震える。
わたしの頬を撫でて、指先で目尻を拭ってくれるマスルールの手は、驚くほど優しくて、止まっていた涙が溢れてくる。

ゆっくり顔を上げれば、マスルールが、感情の燈った瞳で、わたしを見つめていた。


「俺は、お前を見てる」

『…っ』

「なまえしか見てない」


たまらなくなって、わたしの頬に触れるマスルールの大きな手を、ぎゅっと握った。
その手の甲は硬くて、でも暖かくて、心臓が痛くなる。

こんなまっすぐな人を信じられないだなんて、わたしは馬鹿だ。
怖がって、大事なものを取りこぼしてしまう。
だけど、怖いの。
マスルールが愛おしそうな瞳をわたしに向けるたびに、それがわたしではない他の、誰かを見ているんじゃないかって、怖くなる。
マスルールが愛おしそうにわたしを見つめるたびに、いつか、わたしではなく他の、誰かにそれを向ける日が来るんじゃないかって、怖くなる。
そんなの誰にもわからないのに。

ねぇ、信じてもいいの?
心の中で、誰かに問いかけた。
答えなんて、わたし自身で出すしかないのに。
信じてもいいかなんて、わからない。
だけど、わたしの心臓は、脳は、心は、目の前の、マスルールを信じたい、そう、叫んでいる。


『っ、信じたい…っ』


マスルールの瞳を見つめて、口がまた、勝手に言葉を紡ぐ。
頬から、マスルールの手が離れて、急に不安になった。
触れられていたい、なんて、わたし、いつから。
いつから、人の体温を、求めるようになったのだろう。

マスルールの大きな手は、甲に触れていたわたしの手を、ぎゅっと強く握ってくれた。


「信じろ」

『…………っ…』

「…今じゃなくていい。信じてもらえるように俺も努力する」

『…うん…っ、ありがとう、マスルール…』


マスルールはそう言って、紅の瞳で、わたしだけを見つめた。
そっと指先で涙を拭ってくれる。

いつか、わたしはこの人を信じよう。
そして、その”いつか”がやってきたのなら。


「なまえ」


優しくわたしの名を呼んで、愛しく思ってくれる、マスルールの暖かく大きな手を、きっと、握り返すことができるはずだ。

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