I am loved

マスルールの瞳の色が忘れられない。
わたしの頬に触れた、目尻を撫でた指先の熱が、消えない。

シンドリアに来る途中の船で、わたしはマスルールに「お前の瞳は綺麗だ」と言って欲しいと、泣いてせがんだ。
あのときから。
あのときから、マスルールはわたしを見つめ続けていたのだ。
そして、今までに抱いたことのない感情を、わたしなんかに抱いてくれた。
”恋”、と、マスルールは言った。
シンさんとジャーファルさんに、そう言われたと。

確かにそれは、恋なのかもしれない。
マスルールは、わたしに恋愛感情を抱いている、と、昨日知った。

そして、怖くなった。
わたしを好きだという、マスルールが。
わたしが他の男に触れられるとイライラする、そういったマスルールが。
誰よりもわたしを見て、わたしの感情を理解する、マスルールが。
どうしてか、なんて、わからない。
怖くて仕方なかった、あの、紅の瞳が。

「お前は愛されないよ」
そう言った”彼”の瞳は、青みがかった黒だった。
わたしを見つめるふりをして、わたしの向こうに母を愛していた”彼”の、わたしを見る瞳が、重なったのだ。
昨日、わたしを見つめたマスルールの赤い瞳に。
形も色もなにもかもが違うのに、似ていると思った。
わたしを見る、目が。
熱のこもった視線が怖くて、わたしは逃げた。
きっと傷付けた、優しいマスルールを。

愛されるために生きよう、そう決めたはずだったのに。
わたしは何がしたいんだろう。
自室のベッドの上、膝に顔を埋めて泣いた。
今日が非番で良かった、こんな顔、誰にも見せられないから。
愛されたかっただけなのに、わたしはどうして、マスルールを受け入れられないのだろう。
苦しくて、痛くて、涙が止まらない。

わからない、なんて言ったって、わからないふりをしたって、本当は何処かで、わかっていた。
愛されたいと、生きると誓ったのに、わたしは、愛されることすら怖い。
わたしは誰にも愛されない、そう言われて育ってきた。
本当に、わたしはこれまで、誰にも愛されなかった。
母はわたしに言った。
「あんたさえ、いなければ」
あの人はわたしに言った。
「お前は愛されてなんかなかったんだ」
彼はわたしに言った。
「愛してるよ」
「お前は愛されないよ」
「愛してる、文江さん」


「お前は、愛されないよ」

それでも、わたしは愛されることを諦められなくて、生きている。
それなのにどうして、マスルールに想われることが、恐ろしいんだろう。

わかってる。
それは、わたしが、”彼”を忘れられないからだ。
過去だと、割り切れずに、いつまで経っても、”彼”に囚われて縛られて、がんじがらめにされているからだ。

マスルールはわたしを好きだと言う。

けれど、”彼”だって、わたしを愛していると言った。
なのに、それは嘘だった。
全てが。
愛も言葉もキスもセックスも、思い出も、あの日も、あの日もあの日もあの日もあの日も。
”彼”が愛していたのはわたしじゃなかった。
”彼”はわたしを愛しているふりをして、まんまと”彼”を愛したわたしを殺した。
騙して、死ぬ間際に、わたしを地獄の底へと突き落とした。
”彼”は、わたしではなく、わたしに重なる母の面影を、愛していた。

わたしはあんなにも、愛していたのに。

マスルールは、わたしを好きだと言う。
どうして?
どうして、汚れていて誰にも愛されないわたしなんかを?
信じられない、信じられない信じられない。
嘘だ。
きっと信じて愛してしまったら、また、わたしは騙される。
本当は愛してなんかなかったんだよって、殺される。

怖い。
愛されないことが辛い。
愛されることが怖い。
愛されることを、信じられないわたしが、恐ろしい。


コンコンコン、と、部屋のドアがノックされた。
びくりと背が震える。


「……なまえ?居るのか…?」


扉の外から、シンさんの声がした。
息を詰めると、喉の奥から嗚咽が漏れる。
きつく自分の膝を抱きしめて、あふれる涙を着物に染み込ませた。


「…入るよ」


そう、優しい声がすると、ゆっくりと部屋の扉の開く音がする。
シンさんが、わたしの部屋に入ってきた。
とてもじゃないけれど顔を上げられなくて、ベッドの上に体育座りをしたまま、動けない。
何も言えなくて、みっともない嗚咽ばかりが、口から漏れていく。


「……今日は一度も食事を摂ってないんだろう。侍女たちが心配していたよ」

『…………っ、…』

「もちろん、皆も心配している。ジャーファルなんか慌ててね、何度も部屋の前まで来ていたんだが…泣き声が聞こえるから、入れなかったそうだ」


知らなかった。
みんなに心配をかけて、わたしってなんて馬鹿なんだろう。
弱くて、嫌になる。
ひくひくと、喉から漏れる嗚咽が止まらなくて、息がし辛くて、たまらない。
このまま死んでしまうんじゃないか、なんて思う。
シンさんは、ベッドに腰掛けると、優しい声で話しかけてくる。


「……何かあったんだろう、マスルールと」

『ひ…っ、く、ぅ、…っ』

「…昨日、お前たちが二人きりになるように仕向けたのは俺なんだ。すまなかった、なまえ」

『…、ち、ちが…っ、わ、たし、が…!』


シンさんが謝るから、耐えきれなくなって声を出した。
横隔膜が痙攣して、うまく言葉を紡げない。

だけど、謝らないといけないのはわたしの方だ。
シンさんが謝ることなんて何一つない、それなのに。
わたしが、弱いせいで。


『わたし、が…っ、わる、い、の…、シンさんは、なにも…っ、』

「いや、悪いのは俺だよ。珍しくマスルールが思い悩んでいるようだったから、いろいろと世話を焼きすぎたんだ。入れ知恵をしたのも俺だよ」

『ふ…っ、ぅ、でも、っ」

「なまえは悪くない。俺たちが焦りすぎたのが、悪かったんだ。なまえの気持ちを考えずに、本当にすまなかった」


すまなかった、なんて、もうやめて。
謝られるたびに、心臓が悲鳴をあげる。
わたしは謝る資格なんてない、シンさんは謝るようなことはしていない。
目に着物の袖を押し付けて、深く息を吐いた。


『シンさんたちは、悪くない、…っ、わ、わたしが…、わたし、が、っ、』

「………………」

『…っ、マスルールに、ひどいこと……っ』


わたしなんかを好きだって、言おうとしてくれた。
想ってくれたマスルールをわたしは、勝手に疑って、過去と重ねて、マスルールを見ることさえせずに、拒んだのだ。
マスルールは、あんな嘘をつくひとじゃない。
好きじゃない人にあんなこと、言うひとじゃない、そう、わかってるのに。
頭ではわかってるのに、わたしは弱いから。

瞳が、”彼”の目を映し出す。
耳が、”彼”の声を響かせる。
肌が、”彼”の体温を思い出す。

わたしの全てが、”彼”に恐れて、先を見ることができない。
”彼”が怖い。
”彼”を、どうしても忘れられなくて、馬鹿みたいに誰かに重ねる。
そして勝手に恐ろしくなって、わたしは勝手に傷ついて、勝手に泣いて。

愛されない、だなんて馬鹿みたい。
もうとっくに、わたしを見てくれる人が近くに居るのに、いつまでも”彼”に縛られていて、その手を取ることができない。

”彼”が消えない。


「…なまえ、君はまだ、自分は愛されないって思うのか?」

『…っ!』


思わない、そう、言えなかった。
そんなこと、もう思っていない。
なのにわたしは矛盾していて、息が詰まって、言葉にならなくて。
しゃくりあげるように泣くわたしを、シンさんはどう思うだろう。
どんな顔で見ているだろう。

知りたいのに、わたしは顔を上げられない。


「とっくに愛されているのに、知らないふりをするのは何故だ?とっくに求められているのに、首を振るのは何故だ?とっくに、大切に想われているのに、その手を取れないのは…」

『………っ』

「君が、愛することを怖がっているからだ」


息が、止まった。
世界から何もかもが消えたような気がして、目を見開いた。

わたしは、愛することが、怖い。

だって、愛したらわたしは。
誰かを愛したら、わたしは何もかもを、失ってしまう。
かつて、愛していた。
母を愛していた、あんなにも。
世界の全てだった。
だけど母はわたしを憎み、一度も愛してはくれなかった。
あの瞬間、わたしは全てを失った。

そして、”彼”を愛していた。
世界の、全てだった。
”彼”を護るためならば、命さえ捨てた。
だけど”彼”はわたしを騙し、やっぱり愛してはくれなかった。
あの日々は偽りだったのだと知った、あの瞬間、わたしは死んだ。

わたしは愛していた。
わたしを成す全てを持って、愛していた。

次に誰かを愛してしまったら。
わたしは今度こそ、尽き果てるだろう。
与えられた全てを持って愛しても、わたしは愛されないんだから。
愛されるはずがない。
愛したら、わたしは今度こそ、本当に死ぬ。
与えられた命、ぬくもり、全てを失って、この世界から消えてしまう。

それが、恐ろしくて、仕方がないの。


「信じられないんだろう。何度も何度も愛した人に裏切られ、愛に飢え、体温に怯え、自らの愛さえも拒絶してしまう君には」


わかってる、マスルールは、酷いひとじゃないって。


「確かに、過去のなまえは誰にも、愛されなかったかもしれない」


そう、わたしは愛されなかった。
ただ愛されたかっただけなのに。


「けれど、今の君はどうだ?愛されていないと、言えるのか?こんなにも大勢の国民に慕われ、俺たちに求められ、一人の女として、一人の男に想われている君が、愛されていないなんて言う人間が、果たしているだろうか」

『!』

「…前に、俺は言ったね。なまえ、君は必ず愛される、と」


シンさんは言った。
過去を明かしたわたしに、絶対に愛されるよ、と。
つ、と涙が頬を滑る感覚に、思わず目を見開く。
手を降ろすと、微笑むシンさんが瞳に映った。


「少し、変えさせてくれ」

『…………』

「なまえ。君はもう、とっくに愛されているよ」


ぶわっと、風が吹いたような、不思議な感覚に陥った。
風なんて吹いていないのに、鼻の奥がすっきりする。
何故わたしは泣いていたのか、なんて、とぼけた考えが頭に浮かんだ。
馬鹿みたいだ、わたし。
そんなことにも気付かないなんて。

迷宮で別れたジュダルの笑顔が、遠い昔のように感じた。
国民のたくさんの笑顔が、わたしに向いている。
九人将の戦士たちが、わたしを見て微笑む。

わたし、いつの間にこんなに、護りたいものが、増えたのだろう。


「過去は変えられない、忘れ去ることもできない。けれど、古い”足枷”を壊して、軽くなった足で進むことはできる」

『………』

「古い”手錠”を壊したら、暖かい誰かの手を、取ることだってできる…なまえ、君の手足を縛る”足枷”と”手錠”を壊すことができるのは、なまえだけだ」


古びた、汚れた、重い足枷を壊すイメージをした。

わたしには、護りたい人たちがたくさんいる。
昔とは違う。

わたしの手を、過去の暗闇へと縛り付けていた手錠を、粉々に壊す、イメージをした。

わたしには、ただ純粋に、わたしだけを想ってくれる、手を差し伸べてくれる、人がいる。

ぽろ、と、最後の一粒が、右目から転がり落ちた。
涙がもう、出なくなっている。
シンさんの、わたしを見る瞳が眩しくて、目がくらむ。
堪らず目を細めると、奥の方に紅が見えた気がした。


「……泣き顔ももちろん可愛いが…やっぱり、なまえは笑っている顔が一番、綺麗だよ」

『…、シン、さん…』


シンさんが優しく笑うので、つられてわたしも笑った。

知らなかった。
わたしの灰色の瞳に映る、この世界が、こんなにも綺麗だったなんて。

目を閉じる。
暗闇の中、最後に見たのは、燃えるような、紅だった。

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