he is displeased

「なまえ様!!」

『あ、はい…?』

「東地区の果樹園地帯に、南海生物が出ました!王により九人将が招集されています!」


非番の兵士相手に剣の鍛錬をしていたら、いきなり走ってきた兵士がそう大声で言う。
南海生物が出たそうだ。
シンドリアのある海域には、南海生物と呼ばれる超巨大な海獣が生息していて、それが年に数度、沖の警戒網をくぐり抜けてシンドリアを襲って来るらしい。
そしてそれを王とその配下の精鋭”九人将”が撃退する、それをパフォーマンス化して、国民たちの恐怖心を和らげているそうだ。
仕留めた南海生物は国中で食べるらしく、その収穫祭を、”謝肉宴(マハラガーン)”と呼ぶ、と、シンドリアに来たときにシンさんから聞いている。

なので、今兵士がわたしを呼びに来たのは、シンドリアを襲ってきた南海生物を退治するため、シンさんと九人将が退治に向かうためだろう。


「こちらです!」


南海生物が出たと言う東地区の果樹園地帯へ、兵士に案内されながら向かう。
その途中でジャーファルさんやマスルールを始めとした、他の九人将の人たちと合流した。


「なまえは南海生物は初めてでしょう?」

『はい』

「毎回、シンが指名した者が南海生物を撃退するんです。なまえが指名されるかはわかりませんが、一応その気でいてくださいね」


でも多分、なまえが指名されると思いますよ。と、ジャーファルさんが笑いながら言う。
多分一番下っ端で、しかも国民の前で剣を取るのは初めての、まだ知られていないわたしの実力を国民に示すべく、シンさんはわたしを指名する、とジャーファルさんは読んでいるんだろう。
段々と果樹園地帯に近付くと、国民たちの湧いた声が聞こえてくる。


「アバレダコだ!!」


アバレダコ?
国民たちが騒いでいる中から聞き取った単語に首をかしげる。
アバレダコってなんだろう、そう思いながら、シンさんと揃った九人将のみんなの後を歩いていると、目の前に目的地の果樹園地帯が広がった。
到着だ。国民が、「王と九人将が来た!!」と騒いでいる。
しかし、わたしはシャルさんの隣で動けずにいた。
果樹園地帯を荒らす、その、南海生物と呼ばれる巨大な巨大な、タコを目にして。


『………………』

「今日の獲物はお前の剣で仕留めろ、なまえ!!」


シンさんがそう、大声で言った。
目の前で果樹園を荒らしている南海生物、巨大なタコは、第12迷宮で戦ったウツボクジラ並みの大きさで、その上ヌメヌメぬるぬるうねうねしている。
正直気持ち悪い、そう思ったけれど、ジャーファルさんの予想通りシンさんに指名されたので、こころをきめて刀を抜いた。


『仰せのままに、王よ』


これが決め台詞というか、決まり文句らしいので、そう言ってから地面を踏み込んだ。
後ろで、シャルさんたちが「頑張れよ!」とエールを送ってくれているのを聞いてから、段になっている地面からジャンプする。
ギラリと時雨が光ると、アバレダコと呼ばれる巨大すぎるタコは、わたしに気付いて威嚇のような音を出した。

気持ち悪、そう思ったのがタコに通じたのかはわからないけれど、アバレダコがその、大きな吸盤のついた足を、何本もわたしに伸ばしてくる。
ぬめぬめうねうねしながらヒュッと伸びてきたその何本もの足を、刀を素早く動かして、とりあえず輪切りにしていく。

地面に落ちていくそのデカイタコの刺身を見ながら、苦しんでいるのか身体をくねらせるアバレダコの頭に着地した。
ぶよぶよしていてバランスが取りづらいので、そこを踏み込み空中にジャンプする。
重力に従って下へと落ちながら、アバレダコのその巨大な頭から図体に掛けて、一気に時雨を振り下ろし、真っ二つに割いた。
ブシュッ、と、真っ二つにされたアバレダコから、勢いよく黒い墨が散った。
汚れたくないのでそれを避け、時雨の刀身に付着したアバレダコの体液をふるい落としてから、鞘に収める。
チン、という高い音と同時に地面に着地すると、さっき空中で斬ったアバレダコの足の切り身が、わたしの周りを囲むようにボトボトと落ちた。
地面には、さっき国民が大きな布のようなものを敷いていたので、後で国中で食べるのだというアバレダコの切り身はよごれていないだろう。

なんて思った瞬間、わたしが顔を上げる前に、周りにいた大勢の国民が、一斉にワアッと湧いた。


「なまえ様!!ありがとうございます、すっごくお強いんですねぇ!!」

『あ、いえ、それほどでも』

「そんなに小さくていらっしゃるのに、剣の腕はシャルルカン様を超えるほどと聞きました!噂通りお綺麗でお強くて、なまえ様がシンドリアに来てくださって嬉しいですわ!!」

『え、ああ、いや、そんな。わたしこそ歓迎してもらって、ありがとうございます』


「まあ!健気だわ!!」


突然湧いた歓声に驚いていると、近くにいた国民のご婦人が数名、話しかけてきてまた驚いた。
とってもフランクで有難いけれど、褒められすぎて少し困る。
興奮した様子で話してくるご婦人たちに何とか言葉を返しながら、わいわいと楽しそうにタコの切り身を運び出した人たちを見つけて、もう少し細かく斬ればよかったなと思った。


「鍛錬以外でなまえが刀を使ってるのを初めて見たが、いやぁ美しいもんだな!」


わたしの元へと降りてきてくれたシンさんが、そう言って笑う。
そういえば、シンさんに剣の腕をきちんと見せたのはこれが初めてだったかもしれない。
続いて集まってきた九人将に囲まれながら、わいわい湧く国民たちに目をやった。
が、バシン!と背中を叩かれて、驚いて前のめりに倒れそうになる。
それを前にいたヤムライハさんが受け止めてくれて転ぶことはなかったけれど、叩かれた背中は当然痛いので、後ろにいる、わたしの背中を叩いたシャルさんを振り返った。


『いたいです』

「おっまえー、やっぱ強ェなァ!!金属器も使わず南海生物倒しちまうなんざ!」

『そりゃどうも…』

「でもムカつくな、お前さっき俺より強いって言われて嬉しそうにしてただろ!?」

『嬉しそうにはしてないですけど』

「いーやしてたね!」

『拗ねないでくださいよ。シャルさんのほうが強いですよってちゃんと言っときましたから』


なるほど、シャルさんはさっきのご婦人が自分よりもわたしの方が強い、と言ったことに対して拗ねているらしい。
あんなの方便だろ、子供か。と思いながら、拗ねられていても面倒なのでご機嫌を取る。
ぶすっとしていたシャルさんが、まんざらでもなさそうに笑ったのを見てから、こっそりため息をついた。


「なまえ、初めての南海生物撃退お疲れ様です」

『あ、ありがとうございます』

「さすがに初めてで一人は無理だろうと思ったんですが、全然平気でしたね。あっという間にさばくもんだから驚きましたよ」

『でも、もーちょっと小さく斬ればよかったかな、と思いました』

「ああ…ハハ、運ぶのが大変そうだからですか。可愛らしいですね、なまえは」


優しく労ってくれたジャーファルさんに、今回の自分の反省点を告げれば、そんな返事をされた。
ジャーファルさんがそんなことを言うのは珍しい、なんて思いながらも、何が可愛かったのかよく分からずに首をかしげる。
それでもジャーファルさんは笑うだけで何も言わないので、まあ大した事じゃないんだろうと自己完結した。

それから、まだ半分以上残っている、アバレダコの切り身を運んでいる国民たちの元へと向かった。


「なまえ様!どうされたんですか?」

『運ぶの手伝います』

「え…えええ!?いやいや、そんな!これは私共の仕事です、九人将に謝肉宴の準備をさせるなど!!」

『え、えー…?でも、わたし結構ほら、力持ちだし』

「いえいえ!そんな細い腕にこんな重いものを持たせるなど、私にはとても!!」

『いや、でもほら、マスルールも手伝ってるし、わたしも…』


あれ、思ってたよりかなり拒否られている。
自分がそんな偉い立場の人間だなんて思えないので、イヤイヤと首を振り続けるおじさんから、半ば無理やりアバレダコの切り身を奪った。
そしたら悲鳴を上げられた。
周りでは、わたしたちの様子を見て国民たちが笑っている。
向こうでマスルールが大量の切り身を運んでいるのを見ながら、わたしもそれに続いた。
まあ重いよ、確かに重いけれど、それよりも、嬉しくて。
わたしなんかを受け入れてくれる国民たちに、できるだけ恩返しがしたくて。
だから、明日筋肉痛になっても、わたしは切り身を運びます。



「シンドバッド王と南海の恵みに感謝を!!」


ウォオオオオオオ!!


夜になると、南海生物の肉の収穫による、謝肉宴(マハラガーン)が催された。
思っていたよりも、かなり盛大なお祭りだ。
城も城下も、国中が一丸となり、南海生物の肉の収穫を喜んでいる。
乾杯の音頭と雄叫びが国中から上がり、思わず耳を塞いでしまいたくなるくらい、今夜のシンドリアは騒がしい。
こんな盛大なお祭りは見たことがない。
ワアアア、と常に湧いている城下を、城のバルコニーから見下ろして動けなくなる。


「どうだ、すごいだろう」

『すごいですね。こんな盛大なお祭り見たことないです』

「この謝肉宴に立ち会って喜んでくれる客人は多い。それに国民も楽しみにしているんだ、大いに盛り上げねば!」

『へー…』


想像していたよりももっと、この国は豊かだ。
みんな優しくて逞しい。
そして生活を楽しんでいるのがよくわかる。
なんか、こういうのっていいな。
自然と口角が上がるのを感じながら、酒の入ったグラスに口をつけた。


「なまえも、下へ行って祭りを楽しんでくるといい。ピスティかマスルールでも連れて行きなさい」

『あ、はい』


シンさんがそう言うので、お言葉に甘えて祭りで賑わっている城下へ行くことになった。
シンさんや他の九人将の人たちも、すぐに城下へ降りて宴を楽しむそうだ。
グラスのお酒を飲み干してから、それをテーブルに置いて、とりあえずピスティを探す。
一緒に祭りを回ってくれる人を探しているのだ、こんなに盛り上がっている中を一人じゃさみしすぎる。
しかしピスティは見つからず、ヤムライハさんの姿もない。
ということで、シャルさんに絡まれているマスルールのところへ向かった。


『ねぇ、マスルール』

「どうした?」

『一緒にお祭り回りに行こうよ』

「ああ」


マスルールの服の裾を引きそう誘えば、特に間も置かず頷いてくれる。
ということで、二人で城を降りようとしたとき、隣に居るシャルさんが、ニヤニヤしながら口を開いた。


「ほぉ〜?」

『?』

「なんすか先輩」

「いやァ…そーか、お前らそーいう…そーかそーか」

『はあ…?』

「何すか」

「とぼけんなよお前ら、考えてみりゃよく二人で居るし、俺がなまえに引っ付くとマスルールが剥がしにくるし…祭り行くのに俺も誘わねぇってことは、つまり…お前ら付き合ってんだろ?」


にこーっと、いい笑顔でそう言ったシャルさんに、どこかの芸人のように素っ転びそうになった。
この人はアホなのかな。


『違いますよ。シャルさん酔うと面倒くさいんで誘わなかっただけです』

「お前さらっと酷いこと言うね」

『酔ってるときのこと覚えてないからそんなこと言えるんですよ。シャルさん、酔うと何言ってるかわかんないのにすごい話しかけてくるし、すごい密着してくるし、酒臭いし重いし…こないだなんて、お尻撫でてきたんで思わずビンタしましたよ』

「……あっ!?お前、こないだの原因不明の頬っぺたの腫れ、アレお前が原因!?ビンタって、お前、どんだけ強く叩いたんだよ!」

『どんだけって言われても…普通に。再現しますか?』

「しねーよ!おま、アレすげぇ腫れたんだぞ!マスルール、お前もあん時いたよなァ!?居たなら止めろよ!!」

「酔ってコイツのケツ撫で回す先輩が悪いんスよ」


しばらく前の宴の席での、シャルさんの失態を暴露してみれば、何故かわたしが責められる事態になっている。
まあマスルールもシャルさんを責めてくれたので、問題はないが。
マジかよ、とショックを受けているらしいシャルさんは、一体何にショックを受けているのか。
自分が酔って後輩のお尻を撫でたことへの自責なのか、それともわたしにビンタされた事実への衝撃なのか。

わからないけれど、まあそんなことどうでもいいので、まだワアワアと文句を言っているシャルさんを無視して、マスルールの手を掴んでバルコニーから出た。
建物の中に入ると、お祭りの熱気が遠くに追いやられて、少しだけさみしくなる。
マスルールの手を掴んでいた手を離して、袖から抜いて懐で腕を組んだ。


「何しに行くんだ?」

『うん…シンさんが誰か連れて楽しんで来いって言うから、見て回ろうかなって』

「飯なら上でも食えるぞ」

『まあそーだけど…ほら、踊り見たりとか』

「女が踊ってるのを見てお前は楽しいのか?」

『いや別に…』


城から出ると、賑わう街を歩く。
国民の人たちが肉や魚、そして今日わたしがさばいたアバレダコの料理を差し出してくるので、両手に持って食べながら。
隣で、同じように大量の料理をもぐもぐと食べているマスルールは、不思議そうに尋ねてくる。


『ごめん、回るのいやだった?』

「嫌じゃない。何をするのか聞いただけだ」


そう、と、短く返事をしてから、ステージで音楽に乗って踊る踊り子たちを見つけた。
足を止めれば、マスルールも隣に立ち止まる。
マスルールが料理を食べる音を聞きながら、目の前で華麗に踊る、セクシーな衣装を着た女達を眺めた。
そういえば、謝肉宴の際は女達は、セクシーな衣装を着て花を配るのだそうだ。
わたしもさっき、セクシーなお姉さんにお花を首に掛けてもらった。
マスルールは食えないものはいらないとか言って断っていたが。

綺麗だなあとか、上手く踊るなあとか思いながら踊り子の舞を見て、ふと隣を見上げると、マスルールは踊り子ではなくわたしをじっと見下ろしている。
マスルールも踊り子を見ているものだと思っていたから、目が合ったことに少し動揺した。


『なに、わたしなんか見てないで踊り見なよ。お姉さんたちセクシーだよ』

「別に興味無い」

『マスルールの好きな胸の大きい人もいるよ』

「…お前を見たらいけないのか」


そんなことを無表情で言われても。
本当によくわからない男だ。
わたしが自意識過剰な女でないのなら、マスルールはよく、わたしのことをじっと見つめている。
真顔のままじっとわたしを観察するかのように見つめ、話しかけてくることもあれば、無言で目を逸らすこともある。
その理由が全くわからないので、その真っ直ぐで赤い視線が、少し居心地悪いのだ。

変わらずじーっと見下ろしてくるマスルールを見返しながら、手の中にある肉を頬張った。
塩とバターの味がしておいしい。


『べつに…だめじゃないけど。なんでいっつも、わたしのこと見てくるの?おもしろい?』

「…まあ」

『ふーん…変なの』


わたしを見てると面白い、と、肯定したマスルールを見上げながら、肉を咀嚼する。
謝肉宴もそろそろ佳境に差し掛かっているのか、通りでは国民の何人かが、何かの仕掛けの準備をしていた。
何をするんだろう、そう思いマスルールから目をそらし、せっせと何かの準備をしている国民を見ていると、ふと、頬に何かが触れる。
見れば、マスルールが手を伸ばして、その親指で、わたしの頬を拭うように触れていた。
何か付いていたのだろうか。
頬から離れたマスルールの指を目で追えば、彼は何故か、その親指をぺろっと舐めた。


『は?』

「ソースが付いてた」

『…あ、そう……』


わたしの頬に肉のソースが付いていたから、それを拭って舐めたらしい。
いつからお前はそんなチャラ男みたいなことするようになったんだ、とか思ってから、いつから、とか言えるほど前のマスルールを知らないと思い出した。
もともとこういうスキンシップが多い人間なのかもしれない。
そういう風には全く見えないけれど。

特に気にする必要もないだろうと、食べかけの肉をかじる。
肉汁が滴って、指を汚した。
もぐもぐ顎を動かしていれば、また、頬にマスルールの指が伸びてきた。
またソースが付いているのか、わたしは子供か。そう思い、拭ってくれるのなら有難いと、その指を受け入れる。
けれど、マスルールの指はわたしの頬を軽く撫でると、そのままするすると肌をなぞり、さっき首に掛けてもらった花の首飾りに触れた。
その熱に、つい目を細める。
マスルールの体温は、他の人よりも高い。
ファナリスだからだろうか。
わたしの首の花を指先で弄っているマスルールは、全く読めない表情のまま、花からわたしの瞳へ、ついと視線を移した。


「…お前は、食い物を食うとき、ガキっぽくなる」

『はあ…?』

「酒を飲むと、すぐ頬が赤くなる」

『…………』

「剣を持って戦うとき、別人みたいな顔になる」

『…別人…?』

「…相手の命を奪うことしか考えてない奴の、目になる」


ああ、それは、その別人は、過去のわたしだ。
なんの前触れもなく、わたしの顔や態度について語り出したマスルールに、何も言えなくなる。
今、そんなわたしの観察結果を報告されたって、どう反応すればいいのか全然わからない。
なんでそんな話をするのかも、なんで観察しているのかも、何を考えているのかも。

マスルールはわたしの首の、花の首飾りをそっと持ち上げて、わたしの頬へ触れさせる。
その感触がくすぐったくて、目を逸らした。


「寝起きのお前は、不機嫌でぼんやりしてる」

『……………』

「からかうと怒る。先輩に絡まれると迷惑そうにする」

『…………』

「自分の昔の話をするときと、誰かに触られた時は、」


じっと、わたしを見つめる紅が怖くなった。
馬鹿で、何でも力任せに解決しようとする、何も考えていなさそうな、マスルールが。
何を考えているのか、考えついてしまったから。
わたしの頬に花を添えるようにして、わたしに触れるマスルールの体温に、ぞっとした。
周りはこんなにも、お祭りで賑わっているのに。
わたしだけが静寂に飲み込まれそうで、恐ろしい。


「冷たい目になる」

『…………マスルール…』

「…前に話してた”男”を思い出した時は、泣きそうな顔をする」

『!』


”彼”のことを、思い出した時、なんて。
マスルールの前で、いや、人前でなんて、”彼”のことを考えないようにしているのに。
どくん、と心臓が跳ねて、胸が痛くなる。
マスルールがわたしを見つめる意味が、やっと、分かった。

胸が痛い。
花から手を離したマスルールの手が、わたしの頬に触れる。
指先でゆっくり目尻を撫でられて、息が詰まった。


『…やめて。思い出してなんかない』

「お前のその顔を見てると、イライラする」

『…………』

「…俺に触られるのが、嫌か?」


ぞっとした。
マスルールの紅色の鋭い瞳がわたしだけを射抜いていて、マスルールの熱い指先がわたしの目尻を、優しく撫でて、隠されていた感情に、気付いてしまって。
マスルールの、わたしを見る目が、怖い。
似ている。
わたしを見た、”彼”の目に似ている。

ああ、気付かなければよかった。
マスルールの視線の裏の、感情になんて。
手が震えて、持っていた肉の骨が、地面へゆっくり落ちていく。


『………いつ、から……?』

「……………」

『…いつから、わたしを……』


視界が揺れる。
じわりと、冷たい涙が瞳を覆って、世界が歪んだ。
怖い。
どうして、こんなに怖いのか、わからない。
手が震える。
わたしは、これを求めていた、はずだった。
なのにどうして。
どうして、こんなに、逃げ出したいの。


「…船で、お前が」

『……………』

「泣きながら縋ってきた時だ」


マスルールの答えを聞いて、思い出した。
シンドリアへと来た、あの大きな船での出来事を。
体温に怯えて、シンさんに刀を向けたわたしを、自分の部屋へと連れ出したマスルールに、わたしは縋った。
ベッドの上で泣きながら、服の裾を引いて、請うた。
”お前の瞳は綺麗だ”って、言って欲しいと、涙を流して、わたしはマスルールにせがんだのだ。

あのとき、わたしの瞳を綺麗だと、嘘を吐いてくれたマスルールの声が、脳内で木霊する。


「…あの時から、お前が気になって仕方ない。お前が他の男に触られているとイライラする」

『……………』

「お前が、昔の男を思い出して泣きそうになっているのを見ると、胸の辺りが気持ち悪くなる」

『…もう、いい』

「…この変な感じは何なのか、シンさんに聞いた。念の為ジャーファルさんにも聞いてみた」

『もう、いいってば…聞きたくない』

「”恋”だと言われた」


ばく、と、心臓が収縮した。
その痛みに、まつ毛が濡れて、涙が頬を滑る。
嫌だ、聞きたくない。
どうしてわたし、こんなに怖がっているの。
あんなに、あんなにも、求めていたはずなのに、誰かに想われたいって、愛されたいって。
なのに、どうして。


「俺は、お前がーー」


思わず、マスルールの胸を押して、拒んだ。
その体温と声を。
息が苦しくて、大きく数度、吐いたり吸ったりしたけれど、心臓が痛くて、呼吸は元に戻らない。
マスルールの赤い目が、わたしを見ている。


『……ご、めん…』


耐えきれなくて、マスルールに背を向けた。
駆け出すと、涙がぽたぽたと着物に落ちる。
全力で走って、街を抜けた。

わたしは最低だ、人が大事な話をしているときに、思いの丈をぶつけている最中に、泣いて逃げ出した。
踏みにじった。
わたしなんかを、想ってくれたマスルールから。
どうして、こんなにも怖いの。
どうして。
どうして、わたしはこんなにも、


『弱いの……?』


わたしには、マスルールに想われる資格なんて、ないのに。

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