わたしがテスト範囲の応用問題を全て解き終わる頃には、もう外は暗くなりかけていた。 途中で休憩を挟んだりしたから、思ったよりも時間が経ってしまったようだ。 教科書の問題は一通り解き終えたし、わからないところは黒尾さんが丁寧に解説してくれたから、なんとなく明日のテストに自信が持てた。 「なまえ、晩ご飯まで作らせてごめん」 『ううん、いいよ。お世話になったし迷惑かけたし、ご飯作るくらいしかお礼できないしね』 「…お礼?」 『数学合宿開いてくれたお礼』 「いや…合宿やろうって言ったの俺だし…お礼とかいらない」 『でもすごい助かったし、わたしのために提案してくれたでしょ。ありがとね、研磨』 勉強を終えて、晩ご飯を作り始めると珍しくゲームを置いた研磨とそんな話をした。 黒尾さんがトイレに行った隙に台所まで言いに来てくれたってことは、もしかしたらちょっと恥ずかしかったのかもしれない。 嬉しくなって笑ってお礼を言うと、研磨は照れ臭そうに視線を逸らして、別に、と呟いた。 ツンデレな猫みたいだぁと微笑ましい気持ちになる。 それからはまたリビングに戻ってゲームを始めて、黒尾さんが戻ってくると相変わらず素っ気ない返事をしていた。 「なまえ、もう手伝うことねぇか?」 『あ、はい。もう終わりました』 晩ご飯を作り終えて、あとは運ぶだけという段階で、今日も野菜の皮を剥いたりお湯を沸かしたり子供みたいなお手伝いをしてくれた黒尾さんが、パスタをお皿に盛り付けるわたしの背後に立って尋ねてくる。 なんで隣じゃなく隠れるように背後に立っているのか理解できずに振り返ると、不思議そうな顔で見下ろされた。 「ん?」 『…なんで後ろに立つんですか』 「ああ、小せぇなーと思ってつむじ見てた」 『……つむじは見ないでください』 「ハハ、なんでつむじ見られて照れてんの?」 『なんか嫌です…』 「心配しなくても可愛いつむじしてんぞ」 なんで人のつむじなんか観察するんだと思いながらちょっと睨むと、ニヤニヤしている黒尾さんは人差し指でつむじを突ついてきた。 なんでこの人は、簡単に可愛いとか言ったり必要以上に触ったりしてくるんだろう。 嫌なわけじゃないし、正直に言えば嬉しいと思うけど、誰にでもしているのかと思うと胸がもやもやする。 例えば学校で、とか。 黒尾さんの高校生活なんて全く知らないから、わたしにするみたいに他の女の人にも、とか考え出すとキリがないし、想像しただけでちょっと泣きそうになってしまう。 「あれ、怒った?」 『…怒ってないです。黒尾さんどれくらい食べますか?』 「ん?ああ、大盛りで」 『はい』 「いや、やっぱ特盛りで頼むわ」 うまそう、と言いながら手元を覗き込んでくる黒尾さんが、まだわたしの背後に立っているせいで、背中に黒尾さんのお腹がくっついている。 途端にドキドキと跳ね出す心臓のせいで手元が狂いそうになる。 ほんと、なんでこの人、こんなに躊躇いなくパーソナルスペースに踏み込んで来るんだろう。 こっちはいちいち胸がバクバクして頭に血が上るくらいテンパっているというのに。 ていうか、特盛りってどれくらいなんだろう。 よくわからない注文を付けてきた黒尾さんのお皿に、とりあえずたっぷりパスタを乗せてみる。 ちなみに今日の晩ご飯は、きのことベーコンの和風パスタとスープ、ささみのサラダという献立になった。
・ ・ ・ 「俺らが出たらちゃんと鍵閉めろよ。寝る前に家中の電気消してから部屋戻るんだぞ」 「それくらい言われなくてもする…」 ご飯を食べ終え洗い物を済ませて、しばらく三人でテレビを見てから、もう夜も遅いし、とわたしは帰ることになった。 昼に纏めておいた荷物を持って玄関から出ると、心配する黒尾さんに研磨がうざそうな顔をする。 黒尾さんってお母さんみたいだなぁと思いながら見ていると、研磨と目が合った。 「なまえ、今日寝るの?」 『え?うん…そりゃ寝るよ』 「……」 『?寝たらダメなの?』 「いや…なまえは寝たら覚えたこと忘れそうだから……」 「お前はなまえのことどんだけアホだと思ってんだ」 「だってなまえ、理科の授業のときに”へぇ、アメーバは人間の仲間なんだねー”とか言ってたし…」 「お…おいおい…なまえお前…」 『え、わたしそんなこと言ってないよ』 「…理科も教えた方がいいか?理科のテストいつだ?」 「二日目」 「なまえ…明日は放課後うち来るか…?」 『いや大丈夫です、理科は…多分』 「アメーバが人間の仲間とか思ってる奴は、理科は当然赤点だぞ」 『そんなこと言ってないですよ、ホントに』 「うん、ウソだよ。教科書の虫の写真見て悲鳴上げてたけど」 「虫嫌いなのか、なまえ。珍しく女子力高ぇな」 なんか、研磨と黒尾さんといるとどんどんわたしが貶められていくような気がする。 微妙な気持ちになりながら研磨を見ると、ちょっと笑っていた。 「じゃーな、さっさと寝ろよ研磨」 「うん。なまえ、また明日ね」 『うん、おやすみ』 「おやすみ」 家の中に入っていく研磨に手を振ると、研磨は小さく手を振り返してからガチャンとドアを閉めた。 昨日と今日ずっと一緒にいたからか、いつも通りの研磨のドライさがちょっと寂しい。 合宿と呼べるのかは謎だけど、数学強化合宿、楽しかったな。 「じゃ、帰るか」 『はい』 「ん。荷物貸せ」 いつもと同じように、駅まで送ってくれるという黒尾さんが手を伸ばしてくる。 優しさからなのはわかってるんだけど、毎回毎回荷物を持ってもらうのは悪いし、なんだか少し恥ずかしい。 『いや…いいです。自分で持ちます』 「言うと思った。お前には重いだろソレ、俺手ぶらだし素直に貸せばいいのに」 『黒尾さんに持たせたらわたしが手ぶらになるじゃないですか』 「手ぶらが嫌なら、俺の手でも持つ?」 ニヤッと笑って左手をひらひらさせる黒尾さんに、じわっと顔が熱くなる。 なんか、黒尾さんって、前から思ってたけど、どう考えても女慣れしてると思う。 そうじゃなければ、わたしをおちょくり対象物としか見ていないか。 なんだか面白くなくて、目を逸らして帰路に着いた。 歩き始めると、黒尾さんも隣に並ぶ。 『女ったらし……』 「あれ、今ぼそっと俺を罵倒した?」 『事実を言ったまでですよ』 「誰が女ったらしだ、俺はこの子と決めたら一途に尽くすタイプだぞ」 『…経験談ですか?』 「いや、予想」 『……多分黒尾さんは、女の子に”バレーと私どっちが大事なの?”って聞かれて、”バレー!”って即答してビンタされるんですよ』 「なんだそりゃ、なまえの経験談?」 『想像ですよ。経験談なわけないじゃないですか』 「でもなまえも、男に”ジャンプと俺どっちが大事なの”って聞かれて、”ジャンプ!”って即答すんだろ」 『え、わたしそっちの立場なんですか?』 「そりゃそうだろ、お前は”私と仕事どっちが大事か”みたいな面倒な質問しそうにねぇし」 『そりゃ、しないとは思いますけど…』 「しかも彼氏よりジャンプ優先しそうだろ、今日ジャンプ読みたいからデートキャンセルで。みたいな」 『いや、それはないですよ。キャンセルしなくても一緒に読めばいいじゃないですか』 「いや、”俺とジャンプどっちが大事なの”とか聞いちゃう心の狭い彼氏を仮定してるからな。デートにジャンプ持ち込んだ時点でキレられるぞ」 『……ていうか、そんな人を好きにならないと思います』 「あぁ、そりゃそうか……」 びっくりするほどくだらない話をしながら、駅の方へと並んで歩く。 わたしの歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれている黒尾さんをちらりと見上げると、後ろから吹いた生温い湿った風が髪を靡かせた。 顔にかかった髪の毛を耳にかけながら、もう一度黒尾さんに視線を向けると、ちょうどこっちを見ていたのか、目が合った。 ポケットに両手を突っ込んで少し猫背気味に歩く黒尾さんは、何も言わず小さく微笑む。 どきりとして、優しげに細められた目から視線を外した。 どうしていきなり優しい顔をするんだろう、何を考えているんだろう。 そんなわかるはずもない黒尾さんのことを考えて、少し息が苦しくなる。 黒尾さんがこんな風にくだらないことを話したり、意地悪く笑ってからかったり、頭を撫でたり触れたりするのが、わたしだけだったらいいのに。 さっき、黒尾さんの学校での様子を勝手に想像してもやもやしたことを思い出して、そう思った。 でもすぐに後悔する。 わたしは黒尾さんにとって、ただの後輩で研磨の友達でしかない。 独り占めしたい、なんてわがままなことを思う権利なんてないのに、馬鹿みたいだ。 今でも十分幸せなのに、わたしはこれ以上、何を欲しがってるんだろう。 なんだか自分がどんどん欲張りになっている気がして、少し怖くなった。 「なまえの髪見ると、わさび思い出すわ」 『…黒いからですか?』 「そうだろうな」 『黒尾さんの髪の方が、わさびの毛に近いと思いますけど』 「そーか?」 『ぴょこぴょこしてるとことか…』 「ぴょこぴょこって何だ、俺の髪はぴょこぴょこなんかしてねーよ」 『してますよ。それに柔らかいし、触った感じも似てました』 不毛な思考を振り払うように、前に黒尾さんの髪の毛を触ったときのことを思い出した。 わたしの部屋でお互いの頭を撫で合ったときの手の感触はもう無いけど、案外柔らかくて、なんだか可愛かったなあ、と思う。 また触ってみたいな、なんて変態じみた考えが芽生えて、内心少しだけ焦る。 滅多なことで人の髪になんて触れないんだから、と自分自身に言い聞かせて自己完結すると、ふと、頭を触られた感触がした。 驚いて顔を上げると、隣を歩く黒尾さんの手がわたしの頭に伸びていて、突然頭に触られたことに驚いた。 『え…』 「なまえの髪の方が柔らけえと思うけどな」 思わず足を止めると、黒尾さんは指にわたしの髪の毛を少し絡ませながら、わずかに微笑んで言った。 胸の辺りがぎゅうっと軋んで、息がせり上がってくるような、変な息苦しさを覚える。 「すげぇサラサラ」 黒尾さんはずるい。 わたしの頭から離れていく大きな手と、微笑んだままの柔らかい表情を見て思った。 黒尾さんの指に絡んでいた髪の毛が、そっと頬に当たる。 目を合わせていられずに、目を逸らした。 わたしが諦めて、願うことしかできないようなことを、黒尾さんは簡単にやってのける。 そんな優しい顔をして、こんな風に簡単に触れてみせる。 きっとそれは、わたしが強く抱いている感情を、黒尾さんがこれっぽっちも抱いていないからなんだろうけど、ずるいと思った。 元々ボディタッチの多い人なのかもしれない。 パーソナルスペースの狭い人なのかもしれない。 黒尾さんにとっては、こんなスキンシップは取るに足らない、何でもない事なんだろう。 その一つ一つに、わたしはいちいち過剰に反応してしまう。 触られるたびにドキドキするし、顔は熱くなるし、恥ずかしくてたまらないのに、何故か嬉しいとも思う。 いつもわたしだけが、翻弄されている。 それなのに不思議と嫌ではないのが、恋というものなんだろう。 わたしばかりがいちいち反応してドキドキするのは少しだけ悔しいけど、髪に触られたことに対する恥ずかしさと嬉しさの方が強かった。 何も言えずに、唇を結ぶ。 思わず立ち止まってしまった足を、再び動かした。 「スキあり!」 『えっ?あ、ちょっ』 センチメンタルというか、未だにドキドキしていてアンニュイな気分だったのに、突然横から手に持っていた荷物をかっ攫われて、間抜けな声が出た。 慌てて視線を向ければ、わたしのバッグを不意打ちで奪った黒尾さんの、悪戯っぽい笑顔が目に入る。 黒尾さんは、わたしのバッグを軽々と肩に担ぎながら、イタズラが成功したみたいに、ニヤッと笑った。 持ってくれなくていいって言ってるのに、黒尾さんはどうしていつもわたしの荷物を持ちたがるんだ。 行き場をなくした手をどうすればいいのかわからなくて、変な姿勢のまま黒尾さんが右手に持っている自分のバッグを眺める。 「お前の荷物は預かった。無事に返して欲しければ、無駄な抵抗はせず大人しく駅まで歩くように」 『何を誘拐してんですか…』 本当に小芝居というか、茶番が好きな人だ。 おかしくて少し笑うと、黒尾さんも笑ってくれた。 わたしは結局、いつぞやのクーラーボックスの時と同じく、また荷物を奪われてしまったのだった。
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