「お、うまそー。コレさんま?俺さんまの塩焼きすげー好き。いい仕事すんなーなまえは」 研磨と一緒に起きてきた黒尾さんは、テーブルに並べた朝昼兼用のご飯を見てそう嬉しそうに言ってくれた。 黒尾さんはさんまの塩焼きが好き、と新たな情報を脳にインプットしてから、わたしは研磨の隣に座って、三人で食卓を囲んだ。 そしてご飯を食べ終わると、黒尾さんが洗い物をしてくれると言うので、お言葉に甘えてその間にわたしは化粧をしてもってきた服に着替えた。 ちなみに、白とグレーの細いボーダー柄の七分袖のサマーニットに、ダメージ加工されたホットパンツ、という服装である。 脱衣所で着替えを終えてからリビングに戻ると、相変わらず研磨はゲームしていて、黒尾さんはまだ洗い物をしている。 「おー、おかえり」 『あ、はい』 「いやそこはただいまだろ」 『…ただいま』 「ハイおかえり」 かちゃかちゃと手際悪く洗い物をしている黒尾さんに近付くと、目を合わせながらそう言われた。 家の中で移動しただけなのにな、と思いながらも返事をしてから、黒尾さんの泡だらけの手を見つめる。 『洗い物やらせちゃってすみません。残りやりますよ』 「いやいや、飯作ってもらったんだし洗い物くらい俺がやるから」 『でも…』 「いーから、なまえはのんびりしてろ。これ済んだらスパルタ数学授業始めんだからな」 ニヤッと笑ってそう言った黒尾さんに仕方なく頷いて、研磨の横に腰かけた。 手持ち無沙汰にテーブルをふきんで拭いていると、研磨がこっちを見る。 「…テスト、いけそう?」 『多分……基礎問はいけるはず』 「まあ…基礎問と応用問題何個か覚えてたら、赤点は免れるんじゃない」 『うん…でもなんか不安だわ、数学って1日目だったよね』 「うん。明日だよ」 『明日か…』 数学は数日間にわたって行われる期末テスト1日目に設定されてるので、なんだか明日までにちゃんと問題を克服できるのか不安だ。 今回の期末テストだけじゃない、これからも卒業するまでにたくさんのテストもあるし、受験にも数学のテストはある。 こんなところで足踏みしてるヒマはないのに…と頭の悪い自分に少し苛立った。 苦手分野がなければ、この勉強の時間を他の有意義な目的にあてられるのに、とか、研磨や黒尾さんに迷惑かけることもなかったのに、そう思うと余計に気ばかり焦る。 はぁ、と小さくため息を吐いて俯くと、後ろで足音がして、ぽん、と頭に大きな手が乗せられた。 驚いて顔を上げると、洗い物を終えたのか黒尾さんがわたしの頭に手を置いて、じっと見下ろしてくる。 「焦ってもいいことねぇぞ。今はできることだけやりゃいいんだ、いらんこと考えんなよ?」 『……はい』 真剣な顔でそう言われて、返事をしながら、じんと胸が熱くなった。 黒尾さんは、人の気持ちを汲み取るのが上手い。 いつも欲しい言葉をくれる。 大きな手が、くしゃりと優しくわたしの頭を撫でて離れていくと、条件反射みたいに少し寂しくなる。 わたしは、もっと黒尾さんに触って欲しいと思っているのかと、自分の変態じみた欲に頭が熱くなった。 こうして黒尾さんが優しくしてくれるたび、触られるたび、この人が好きだと思う。 いつか、そんな気持ちが口からぽろりと出てしまったらどうしよう。 好き、なんて言ったら、黒尾さんはどんな顔をするのだろうか。 一瞬、困ったように笑って「ごめん」と呟く黒尾さんを想像してしまって、慌てて考えるのをやめた。
・ ・ ・ 「わかんねぇとこあったらすぐ言えよ」 『はい』 「………」 『……』 「…ふ…どこ?」 研磨の部屋に上がって、昨日の数学の勉強の続きを始めた。 ノートに問題を書き写して、早速わたしの手が止まると、黒尾さんはちょっと笑いながら手元を覗き込んでくる。 その距離と黒尾さんの匂いにドキドキしながら、理解できない数字と記号の並んだ数式を指差して見せた。 「あー…お前基礎問やってる時もここんとこで躓いてたな、そういや」 『すみません…なんかよくわかんなくて』 「つーか、分数苦手だろ?」 『…はい……分数の足し算とかならまだできるんですけど、割り算とか意味わかんなくて…』 「おい、そりゃ小学生レベルじゃねーか」 『だって…例えば、5分の2割る16分の3、とかあるとするじゃないですか』 「うん」 『5分の2を16分の3で割るって…意味わかんなくないですか?』 「…いや、わかるけど?」 『いやいや、だって分数の時点で何個かに分けられてるじゃないですか。りんごに例えたら、5個に切り分けたりんごの中の2つを、16個に切り分けた中の3つで割るんですよ?』 「ちょ…ちょっと待て、何言ってんのお前、なんでりんごに例えてんの」 『え…割り算といえばりんごに例えるもんだと思って…』 「いや、それ小学校で分数習う一番最初とかだけだろ。そりゃいちいちりんごに例えてたら訳わかんなくもなるわ」 『……』 「とりあえず物に置き換えずに数字だけで解き方を覚えろ、式の意味は理解しなくてもいいから」 割り算をりんごに例えたら、ものすごい困惑した顔をされた。 まるでさっきまで日本語で話してた奴が聞いたことのない外国語を喋り出した、みたいな。 いや変なたとえ話してる場合じゃなかった、今日中に数学の範囲をしっかり理解しないといけないんだった。 まだ全然書き込まれてないノートに向き直ると、黒尾さんが分数の問題の解き方を丁寧に説明してくれる。 要所要所をノートの端に書き込みながら、教科書の応用問題を一つ一つ解いていった。 「おーいなまえちゃーん、また計算ミスしてんぞー」 『えっ』 「ここ。16+5。どう考えても11ではねぇな?」 『…21』 「さては引き算したろ」 『多分…』 「ちゃんと問題読めよ、焦らなくていいから」 ニヤニヤしながらミスを指摘してきた黒尾さんは、わたしが間違えて書いた答えを消しゴムで消してくれた。 それから指で消しゴムを弄び始める。 わたしどんだけアホなんだ…とちょっと自分のことが信じられなくなりながらも、もう一度計算し直して答えを書いた。 「正解。うん、計算さえミスらなきゃ60点は取れんじゃねぇかな」 『え!60点も…?』 「え?何?60点で喜んじゃうの?」 『え?60点ってすごくないですか』 「なまえ……」 60点、というわたしの中では高得点に驚いたら、哀れむような顔をした黒尾さんが両手で肩を掴んできた。 子供に何か言い聞かせるみたいに、黒尾さんはゆっくり喋り出す。 「18点とか取っちまうお前の中じゃ、60点はすげぇのかもしれない。でもな…世間じゃ、60点は普通だ。いや、学校によっちゃ平均以下だ」 可哀想な子…とでも言いたげな顔をする黒尾さんに思わずイラッとして殴りたくなった。 いや言ってることは正論かもしれない、でもあからさまにわたしを馬鹿にしている。 確かに馬鹿にされても仕方ない、でもムカつくものはムカつく。 前に研磨がばらしたわたしの数学のテストの点数(18点)を、何故か未だに覚えている黒尾さんの記憶力が憎たらしい。 ついちょっと眉をしかめると、真正面にある黒尾さんの顔がいつものにやけ顔に戻って、次の瞬間吹き出した。 「ぶっ…!くっ…ぶはははは!」 『……』 「ひゃっひゃっひゃ…!く…っ、なまえ、お、お前、そんなあからさまにイラッとすんなよ…ぐっ、ぶっひゃっひゃっひゃ、あははは!」 『………』 「ひー……って、お、おい?お前俺の前髪掴んで何する気だ!?」 『…黒尾さんなんてハゲちゃえばいいんだ……』 「ちょっ…抜くな!抜くなよ!?」 余りの苛立ちにこれまでに募らせた恋心がどっかに飛んでいき、わたしは目の前にある黒尾さんの長い前髪を鷲掴みにした。 爆笑のピークを過ぎても未だに笑いを堪えているような顔をしている黒尾さんは、ハゲるのは嫌なのかわたしの腕を掴む。 冷房で冷やされた肌が暖かくて大きな手に包まれて、いつもならときめきで赤面するところだけど、今はどうにかして仕返しがしたい一心だった。 でも本気で黒尾さんの前髪を引っこ抜くつもりなんてあるわけがないし、黒尾さんもそれはわかっているんだろうけど、わたしたちはどちらも髪と腕から手を離そうとしない。 あれ、これどのタイミングで手離せばいいんだろう。 苛立ちが萎んでいくと、今度はどうすればいいかわからなくなってきた。 「なまえも俺がハゲたら嫌だろ?だから、な?手ぇ離せ?」 『別にわたしは黒尾さんがハゲても気にしませんよ?』 「マジで?見てくれがどうなろうと俺への気持ちは変わらないって?やべぇなそれ、深いななまえの愛って」 『あ、愛とか言ってな、ぶっ!』 「ぐがっ!」 黒尾さんがニヤニヤしながら愛とか言い出したので慌てて否定しようとすると、いきなり顔面に柔らかいものが勢いよくぶつけられて、視界が真っ白になった。 突然の衝撃に無様な声を上げて後ろに倒れると同時に、バコンと音がして黒尾さんも変な声を上げたと思ったら、何故かお腹に重いものがのしかかってきた。 『!?』 「いってぇー…」 何が起こったのかわからず放心するわたしの顔からぽろりと、さっきぶつけられたものが落ちて視界が戻ってくる。 わたしの顔面にぶつかってきたのは、白いクッションだった。 そして次に確認できたのが、お腹に乗っかってきたものの正体。 それは黒尾さんだった。 後頭部を左手で押さえて痛そうにしている黒尾さんが何故か、わたしの上に倒れこんできたのだ。 わたしのお腹にのしかかっているのは、黒尾さんの頭から胸までだった。 その様子に半端ない羞恥を感じ、かあっと顔が熱くなる。 いや、ていうか、それよりも、今の何!? なんでわたしと黒尾さん、攻撃されたの!? とテンパりながら顔を上げると、さっきまで勉強机で勉強していた研磨が、黒尾さんの後ろに立ってわたしたちを見下ろしていた。 「二人ともうるさい」 研磨の不機嫌そうな声と顔で、事の真相をやっと理解した。 わたしのお腹からやっと顔を上げて離れてくれた黒尾さんも、研磨を見上げて半笑いの顔をひくつかせている。 そんな黒尾さんのそばには、飲みかけのペットボトルが転がっていた。 つまり、わたしと黒尾さんが騒いで機嫌を損ねた研磨が、わたしにクッション、黒尾さんにペットボトルを勢いをつけて投げつけたのだ。 「研磨ァ……いくらうるさかったからって、人の後頭部にペットボトルぶつけんなよ…結構痛かったぞ」 「特にクロがうるさかったから」 「つーかお前、俺がもうちょっと上に倒れてたら過激なラッキースケベ起こるとこだったぞ」 「さっきのもクロにとっては十分ラッキースケベでしょ…なまえのお腹に顔埋めて幸せそうにしてたじゃん…キモ……」 『え…キモ……』 「おいおい、事故なんだから仕方ねーだろ!まぁ確かに柔らかくて幸せだったけど」 『……』 「……」 「おい…二人してそんな目で見るなよ…そろそろ泣くぞ……」 「いらないこと言うからでしょ……いちいち変態くさいし…」 好きな人にお腹に顔埋められて柔らかいとか言われて、泣きたいのはわたしの方だ。 でも黒尾さんがしゅんとしてしまったのでこれ以上責めることもできず、なんだかいたたまれなくなった。 いや多分落ち込んでる芝居なんだろうけど、この人のこういう言動は大体冗談とおちょくりだし。 『黒尾さん、頭大丈夫ですか?』 「え、酷くね?更に追い討ちかける?」 『あ、いやそうじゃなくて…ペットボトル当たったとこ、痛くないですか?』 「ああ、うん。もう痛くねーし平気平気」 『じゃあよかったです』 「なまえは優しいな…もう一回腹に抱きついていい?」 『……顔面殴らせてくれるなら…』 「あ、ゴメンなさい。もうしません」 「ふざけてないでさっさと勉強再開しなよ…また何か投げるよ」 「よーしなまえ、ガンガン勉強しよーぜ!」 もうペットボトル攻撃には懲りたのか、わざとらしい笑顔を浮かべた黒尾さんに背中を押されて机に向かわされる。 シャーペンを持って解いていた問題の続きに目をやると、さっき黒尾さんに激しく馬鹿にされたことを思い出して、ちょっと笑えた。
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