2セット目、音駒は苦戦していた。 今のスコアは20-22で、梟谷がリードしている。 あと3点で試合が決まってしまう、でも、音駒があと5点取れば。 応援や歓声で騒がしい体育館で、わたしは黙って手をきつく握りしめる。 黒尾さんはたくさんブロックした、レシーブした、点だって取った。 他の選手だって同じ。 梟谷学園の木兎という人の力強いスパイクだってきちんとブロックできてるし、つなぐ力は音駒が上だ。 でも、梟谷の2、3年生の攻撃力が凄まじいのだ。 木兎という選手が霞むくらい強いスパイカーがいる。 わあっと歓声が上がって、わたしははっと我に返った。 梟谷学園のスパイクが決まったのだ。 スコアボードの数字がめくられる。 20-23。 息がどんどん苦しくなっていく、みたいな感覚を覚えた。 「…やばいね」 『……うん…』 負け、の二文字が迫ってくる。 頭では、まだ大丈夫、負けるはずない、勝つのは音駒だと信じているのに、それでもどこかで不安にならずにはいられなかった。 梟谷サポーターが客席で湧くたびに、わたしは嫌な胸騒ぎに眉をしかめる。 『!落ちた…!』 「うん、クロが決めた」 黒尾さんが、セッターの上げたボールを相手コートにスパイクした。 それが綺麗に決まって、今度はこっち側の客席が湧く。 これで21-23。 少し差が縮まった。 胸がどきどきするのを、右手で押さえて気にしないふりをした。 震える空気や周りの声援がやけにびりびりと肌を震わす。 ここは遠い。 コートから、選手から、黒尾さんから遠い場所だ。 わたしは来年も再来年も、こんな離れた場所から観戦することしかできないのだろうか。 たとえば同じ高校に入ったとしても。 ばくん、と心臓が大きく跳ねた。 音駒側のベンチを見下ろして、また跳ねる。 もっと側で、近くで見ていたい、と思ったのだ。 そして他に、見ているだけじゃなくて、わたしにもできることがあるのならば、したいと。 黒尾さんや研磨がバレーをしているところを、一番近くで見ていたい。 決意した、瞬間だった。 たくさん勉強をして、少しでも役に立てるようになろうと。 あそこの、ベンチに座るために。 「あ、決まった」 隣で研磨がそう言って、わたしもスコアボードを見る。 落ち着かない心臓を抑えたまま、音駒側の数字がめくられた。 音駒の選手が1点決めたのだ。 22-23。 あと、3点。3点で、音駒が勝てる。 手をぎゅっと握って、ボールを目で追った。 それから、また音駒の選手が1点決めて、スコアは23-23の同点になった。 それでも安心なんて出来ずに、まさに手に汗握りながら試合を見つめていた。 すぐに、梟谷の選手が1点決めて、スコアにまた差が生まれる。 そして、マッチポイント。 23-24、あと1点で、試合の行方が決まってしまう。 ピーーーッ! 高く高く鳴った笛の音。 試合が、終わったのだ。 『…………』 「…あのさ。こないだ、クロがなまえに弱音吐いたことあったでしょ」 『……あれ…弱音、だったのかな』 「クロからしたら、立派な弱音だよ…クロってそういうこと思ってても、滅多に口に出したりしないから」 『……そうなの…?』 「うん。昔から世話焼きだし、責任感強いから…俺がしっかりしなきゃ、みたいなトコあるし、クロって」 『……』 それは研磨の世話役だから、っていうのも理由の一つなんじゃないだろうか、と思いながらも、何も言えなかった。 試合の結果や黒尾さんたちを直視することができなくて、うつむく。 三回戦を終えたコートは、まだ騒然としていた。 「……クロって、今までそういう…弱音とか言える…甘えられるっていうか、頼れるっていうか、そういう人がいなかったからさ。いつも頼られる側で、弱音とか吐き出せなかったんだと思うんだ」 『…うん』 「でも、なまえにはそういうの、言えるんだよ」 『……』 「女の子に弱音吐いたりしてカッコ悪い、ってクロは後悔してたけど、俺はちょっと嬉しかった」 『……嬉しかった?』 「うん。クロにも、やっと甘えられる人ができたんだなって」 『………』 どくん、と、一回だけ、心臓が大きく跳ねた。 その波に揺れるみたいに、胸のあたりがじわじわ熱くなる。 柔らかく微笑んだ研磨の言葉に、わたしは動けなくなるくらいの衝撃と、歓喜を覚えたのだ。 今までで経験したことのない感情だった。 研磨の、勘違いかもしれない。 思い過ごしかもしれない。 ただ、黒尾さんはぽつりと弱音をこぼしてしまっただけで、そこにわたしがいたのは偶然だったのかもしれない。 でも、研磨が言うことが、真実だったなら。 わたしは黒尾さんの、甘えられる存在になれるのだろうか。 心の、在りどころに。 強く望んだそれに、わたしがなれるのだとしたら。 わたしは、今までの自分の何もかもを変えてでも、捨ててでも、そうなりたい。 黒尾さんの特別に、ただひとつの存在に。 もう否定なんかできなくなった。 知らないふりなんて、気付かないふりなんて、わたしにはもうできない。 本当はとっくに気付いていた、自分に芽生えた初めての、特別な感情に。 わたしは黒尾さんに、生まれて初めての、たったひとつの感情を抱いている。 見えないふりができなくなってしまった。 黒尾さんと目が合うと、心臓が跳ねるのは。 黒尾さんのそばにいると、息がしづらくなるのは。 黒尾さんに触れられると、身体中に熱がこもるのは。 黒尾さんの声を聞くと、お腹の奥がくすぐったくなるのは。 黒尾さんのことを考えると、胸が苦しくなるのは。 黒尾さんの一番そばに、いたいと思うのは。 その、すべての理由に気付いてしまった。 見てしまったのだ、見て見ぬ振りをしていた、気付かないふりをしていた感情を。 『………ねぇ、研磨…』 「…ん…?」 『…わたし、黒尾さんのことが好き』 「……!…」 まだコートにいる、黒尾さんを見つめて言った。 きっと悔しいのに、それを表情やしぐさには出そうとしない黒尾さんのことが、わたしは好きなのだ。 いつからかはわからないけど、きっとしばらく前から。 観客席の手すりをぎゅっと握って、試合を終えて体育館から出て行く赤いユニホームを見送る。 その赤いユニホームを着た、黒尾さんの大きな背中を。 『…好き、みたい』 「……うん。知ってた」 知ってた、そう優しく笑った研磨を見て、わたしは泣きそうになった。 もう戻れない。 一度口にしてしまえば、きっとこの感情は抑えることも止まることもできないまま、ひとりふくらんでいく。 もう、知らないふりをしていたころのわたしには、引き返せない。 黒尾さんのことが好きだと、気づいてしまった。 インターハイ予選三回戦、音駒対梟谷。 23-25で、音駒の敗戦が決まった。
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