「なまえ」 『あ、研磨。お疲れ』 「ん」 放課後、ババロアを作り終えてから下駄箱で研磨を待っていた。 ユカはまた一緒に帰るうう!としつこく騒いでいたけど、リツコに引っ張られて帰っていった。 そしてしばらくしてから、部活を終えた研磨がジャージのまま現れたので、わたしも立ち上がる。 うちのバレー部はもう大会で敗退してしまったので研磨はもういつでも部活を引退できるのだけど、高校に上がってからもバレーをするから、ブランクをできるだけ少なくするために今もちゃんと部活に出ている。 下駄箱からスニーカーを取り出して履いている研磨を見ながら、未だにざあざあと降り続いている雨の音を聞いた。 案の定土砂降りである。 『研磨、これババロア』 「え、全部くれるの?」 『うん。5つ入ってるから、研磨んちにお土産』 「5つも?ありがと」 『ん。』 傘立てから傘を取りながら、手に持っていたババロア入りの紙袋を研磨に渡した。 ババロアはカップに入ってるし、そのカップもタッパーに入れてるし、タッパーも紙袋に入れてるし、それをさらにビニール袋に入れているので雨対策はバッチリである。 リュックを背負っている研磨にその紙袋を渡したので、少しわたしは身軽になった。 代わりに研磨は荷物が増えたわけだけど、まあ嫌がらないのでこのままでいいんだろう。 二人で並んで傘を広げながら、学校を出た。 最近暖かくなってきて日が伸びてきたのに、雨の日は空が暗くて夜みたいだと思った。
・ ・ ・ 『……あっ』 「え?」 『………』 わたしたちが通っている中学校から少し離れた場所に音駒高校はある。 なので研磨んちは中学校からも音駒からも近くていいなあと思うんだけど、今はそんなことを言っている場合ではないのだ。 いや、たったいま、そんな場合ではなくなった。 わたしと研磨は、中学校を出てからしばらく歩いて、音駒に一番近いコンビニに入った。 もう目と鼻の先に音駒高校がある。 そしてコンビニの中で、黒尾さんに渡すための傘を手に取って、いざレジに並ぼうとしたとき。 財布を取り出そうとスクバに手を突っ込んだわたしは、お菓子コーナーの前でみっともない声をあげた。 研磨も立ち止まってわたしを見る。 わたしはいま、スクバの中を手探りでごそごそしてから、やっと自分の過ちに気付いたのだった。 『……財布が…』 「…え、ないの」 『……ない』 「……」 そう、わたしはスクバに入っているとばかり思っていた、最近買った黒い長財布が無いことに今気付いたのだった。 「…忘れたの?」 『……うん…』 思い返してみれば、確かに昨日の夜、レシートを捨てようと思って部屋で財布を出して、そのままテーブルに置いたままだった。 わたしは馬鹿なんだろうか。 持っているとばかり思っていた自分を責めたい。 「……買えないね、傘」 『…ごめん、昨日部屋で財布出したの忘れてた……』 「俺は別にいいけど…」 『………』 「…とりあえず傘戻して…クロ迎えに行こう」 『うん…』 研磨に促され、手に持っていた新品の傘を売り場に戻す。 わたしも研磨も財布を持ってないので、黒尾さんが差すはずだった傘を買うことができなかった。 これじゃ黒尾さんを迎えに来た意味がない、結局黒尾さんにはわたしか研磨の傘に入ってもらうしかなくなってしまった。 なんかもう自分が情けない。 研磨がコンビニを出て行くのを見ながら、わたしも後を追う。 『…あ、じゃあさ』 「うん?」 『研磨の傘でわたしと研磨が相合傘して、黒尾さんにはわたしの傘使ってもらうっていうのは?』 「え、やだよ。俺濡れたくないし…それに俺なまえより荷物多いんだから、なまえがクロ入れて」 『黒尾さんは荷物扱いなんだ』 「梅雨に傘忘れるとか、完全にお荷物でしょ」 『まぁ、たしかに…』 ということは、やっぱりわたしの傘に黒尾さんが入って、相合傘なるものをするってことだろうか。 想像してみて、果たしてそれは大丈夫なのか考える。 身長差と体格差のせいで傘は機能を失いそうだな、と思いながら、コンビニの傘よりは大きい自分の傘を見上げた。 音駒高校の校門に到着すると、研磨はぴたりと立ち止まる。 そりゃそうか、迎えに行くと行っても部外者は中に入る訳にはいかないからここで待つしかないのだと気づく。 でも、黒尾さんは部室から校門まで、どうやって来るんだろう。 雨は相変わらずざあざあ降りだし、傘もないのに。 『黒尾さん、ここまでどうやって来るの?』 「友達の傘に入れてもらうんじゃないの。校門までは帰り道みんな一緒だし」 『ああ…なるほど』 そりゃそうか、と納得した。 帰る方向は違っても、大抵の生徒は校門から帰るもんね、と思いながら、部活動を終えた高校生たちが傘をさして校門を抜けていくのを眺める。 たまに珍しそうにチラチラと見られるのが少し居心地悪かった。 まぁ、高校の校門に中学生が突っ立ってたらそりゃ見るか。 「あ、バレー部の人だ」 『あ、ほんとだ。部活終わったんだね』 バレー部の真っ赤なジャージを着ている人が、何人か校門を通った。 部活を終えて出てきた人たちのはずだから、そろそろ黒尾さんもやって来るだろう。 そういえば、黒尾さんのあの髪型は頑固な寝癖らしいけど、水に濡れたりしたらぺちゃんこになったりするのだろうか。 寝癖が取れなくて悩んでる、とか言っていたのを思い出して、ちょっと考えてみる。 でもあの髪型の黒尾さんしか見たことがないので、髪型が崩れた黒尾さんを想像することはできなかった。 「お、いる。研磨、なまえー」 「あ、クロ」 しばらく、研磨としりとりをしたりして時間を潰していたら、後ろから聞きなれた声がわたしと研磨の名前を呼んだ。 雨の音に負けないくらいの声量だったのでちょっと驚きながら振り返ると、校庭には赤いジャージを着た黒尾さんの姿がある。 研磨がクロ、と呟くのを聞きながら、わたしはこっちに歩いてきている黒尾さんと、その隣にいる、見たことのある知らない人を眺めた。 その、背の低めの人が持っている傘に、少し腰を屈めた黒尾さんが入っているからだ。 「お迎えご苦労、待たせたか?」 「結構待ったよ。ね、なまえ」 『あ、うん』 「マジか、すまん」 「黒尾、この子らがさっき言ってた幼馴染?」 わたしと研磨の近くまでやってきた黒尾さんは、全然悪いと思っていなさそうな顔で謝った。 そのすぐあとに、黒尾さんを傘に入れてあげている、黒尾さんの友達らしきバレー部の人が、黒尾さんにそう尋ねる。 その人は、バレー部の赤いジャージを着ていて背が低め(研磨と変わらないくらい)で、ベージュっぽい髪色をしている。 「おー、そう。こっちの男の方が幼馴染の研磨」 「へー、お前の話によく出てくる研磨クンか。よろしく、俺黒尾のチームメイトの夜久」 「…どうも……」 「こっちの女の子は?研磨クンの彼女?」 「いや、違ぇよ。こっちはなまえ、研磨の親友」 「あー、黒尾が拾ったネコ引き取ったっていう?」 「ああ、そうそれ。わさびの飼い主」 「あーな。なまえちゃん、だっけ?」 『あ、はい』 「俺、夜久衛輔。黒尾からネコの写メ見して貰ったことあるよ、かわいいよなわさびちゃん」 『そうなんですか。ありがとうございます』 ニコニコ人当たりの良さそうな笑顔でよろしく、と言ってくれた夜久さんにぺこりと軽く頭を下げてから、隣にいる研磨に目をやった。 研磨は人見知りだからこういうの嫌いだろうな、と思いながら。 それと気になったのは、黒尾さんがサラッとわたしを研磨の親友と言ったことだ。 わたしって研磨の親友なんだろうか。 ただ黒尾さんが話を盛っただけかもしれないけど、ちょっと嬉しかった。 初めて会った夜久さんは、黒尾さんと初めて会ったときのような胡散臭さとか恐怖感とかがないし、わさびのこと褒めてくれたし、すごいいい人っぽい。 ていうか、初めて会った、とは言ったけど、わたしは夜久さんになんとなく見覚えがある。 多分見に行ったバレーの試合に出ていたんだと思うんだけど。 『あの、夜久さんってリベロの…』 「お、そうそう!なんで分かった?」 『何回か音駒の試合見に行ったことがあって…』 「あ、そーなんだ!」 「来週も観に来てくれんだっけ、なまえ」 『あ、はい。研磨と行きます』 「まぁ夜久は来週は出られるかわかんねぇけどな?」 「あ!?うっせー黒尾!つーか迎え来たんならさっさと俺の傘から出て行け」 「いてっ、悪い悪い…って、アレ?研磨、俺の傘は?」 ボコッと夜久さんに背中を殴られた黒尾さんが、不思議そうに研磨を見下ろすので、わたしがぎくりとした。 だって黒尾さんの傘を買えなかったのは半分はわたしの責任だからだ。 夜久さんの傘から追い出されかけている黒尾さんは、気まずそうに何も言わない研磨をまだ不思議そうに見ているので、だんだんいたたまれなくなってきた。 『あの、黒尾さん』 「ん?」 『今日わたしも研磨も財布家に忘れてきて、傘買えなかったんです』 「え、お前ら二人とも?」 『…はい』 「…ん?でも研磨、俺がラインしたときは買って来てくれるって言ってたよな?」 「…さっきコンビニに傘買いに行ったときに、なまえも財布忘れたことに気付いたから」 「あー…んじゃ研磨、家まで入れてくれ」 「やだよ。なまえに入れてもらって」 「絶対そう言うと思ったわ」 呆れ顔でそう言った黒尾さんは、ふとわたしを見下ろした。 目が合うと心臓が変な動きをする。 ざあざあと傘を叩く雨の音と一緒に、わたしの心臓まで動く速さを変えた。 「じゃーなまえ、俺と相合傘しよっか」 『あ、はい。どうぞ』 「え」 『え?』 おきまりのニヤニヤ顔の黒尾さんを見上げたまま頷けば、予想外の返事だったのか黒尾さんは驚いたように動きを一瞬止めた。 わたしが頷くと思わなかったんだろう、黒尾さんを驚かせることができてなんとなく面白い。 「え、いーの?」 『いいですよ』 「お、おお…じゃ、お邪魔しようかな」 『わたしの傘が嫌なら濡れて帰ってもらってもいいですけど』 「嫌な訳ねぇだろ。お邪魔しまーす」 少し傘を浮かせると、黒尾さんは夜久さんの傘から、腰を屈めながらわたしの傘の中へと入ってきた。 とたんに、心臓がどきりと跳ねる。 「ん、傘俺持つわ」 『あ、はい』 黒尾さんが手を差し出すので、素直に傘の持ち手を手渡す。 大きな手に握られたわたしの傘の柄。 しましま模様のそれは見慣れたものなのに、なんだか知らない傘みたいに見える。 「え、なに?なまえちゃんは黒尾の彼女なの?」 自分の傘から黒尾さんを追い出した夜久さんが、ニヤニヤしながら言った。 その意味を理解して、かあっと頬に熱が集まる。 『え、違います。傘買えなかったので仕方なく入れてあげるだけです』 「だってよ黒尾、ドンマイ」 「なんだ…なまえは俺と相合傘すんの嫌じゃねぇんだって思ってちょっと嬉しかったのに…」 『…いやではないですよ』 「おおっ、マジか!」 『したくもないですけど』 「あ、そお…」 「ハハ、ウケる。振られてやんの」 「うっせー夜久」 「ま、せいぜいなまえちゃん濡らさないよーに気をつけろよ」 「おー」 「じゃーな」 「おー」 「研磨クンとなまえちゃんも、またなー」 「…サヨナラ……」 落ち込むふりをしている黒尾さんを笑ってから、夜久さんがわたしたちに背を向ける。 またなと言ってくれたので、わたしも挨拶をしてから軽く頭を下げた。 「じゃ、俺らも帰るか」 「…疲れた……」 「お疲れさん」 『研磨、人見知りしてたね』 「研磨は初対面のヤツと話すと疲れるもんな」 「だって初対面だし…」 『夜久さん優しそうだったのに』 「優しそうでも初対面だし…」 知らない人と少し接しただけで、ずーんと疲れている研磨を見て少し笑う。 どんなに優しそうな人相手でも研磨は人見知りするんだなぁとわかった。 研磨の家へ向かうため、三人で歩き出す。 傘は二つ、ざあざあと土砂降りの中、いつもよりゆっくりと歩いた。 何気なしに黒尾さんを見上げると、黒尾さんもわたしを見下ろす。 目が合って、条件反射みたいに心臓が跳ねた。 「濡れてねぇか?」 『はい。黒尾さんは大丈夫ですか?』 「俺はちょっとくらい濡れても大丈夫だから気にすんな」 『わたしも大丈夫なんで、黒尾さんがちゃんと入ってください』 「平気だって、俺ジャージだし」 相合傘にはつきものだけど、やっぱり黒尾さんの右肩は濡れてしまっている。 それに比べてわたしは、左腕が少し濡れてるくらいなので、黒尾さんが意識的に傘をわたしの方に寄せているんだとわかった。 その優しさに、お腹の奥がくすぐったくなる。 でも、黒尾さんが濡れると困るので、傘の支柱を押して黒尾さんの方にずらした。 わたしは別に風邪ひいたっていい、でも黒尾さんは大事な大会中だから。 『制服は替えあるんで気にしなくていいです』 「頑固かお前は。女の子は体冷やしちゃいけません」 『黒尾さんも体冷やしたらだめです』 「あー、じゃあほら、もーちょいこっち来い」 ぐいぐいと傘の押し付け合いをしていたら、傘を右手に持ち替えた黒尾さんの腕が背中に回された。 暖かい大きな手が左肩に回ってきて、ぐっと黒尾さんの方に引き寄せられる。 それによって、わたしの右肩と黒尾さんの左腕がぴたりと密着してしまって、わたしはまた、頬が熱くなるのを感じた。 「これでまぁマシだな…離れんなよ?」 『……はい…』 頭が茹だりそうだった。 黒尾さんの左腕がわたしの背中に回されたままで、息がしづらい。 それはできるだけ二人ともが傘に入るためだとわかっているのに、大きな手が背中に遠慮がちに添えられてることが、あまりにも恥ずかしくて。 どうして黒尾さんは、平気でこんなに密着したりできるんだろう、恥ずかしくないんだろうか。 カッコいいしモテるらしいから、こういうの、慣れてるのかな。 そんなことばかり考えて、胸がじくじくと痛くなった。 わたしの隣、傘がぶつからない程度に離れたところを歩いている研磨に目をやると、研磨もこっちを見ていて、目が合う。 顔が赤くなっているのを見られるのは恥ずかしかったけど、この胸の痛みから助けて欲しくて、意味もなく研磨を見つめた。 「……クロ、耳赤いけど」 「…研磨、そういうことは思っても言っちゃダメなんだぞ?」 「クロが頑張ってカッコつけてるの、面白いよ」 「研磨?分かってるなら俺の頑張りを無駄にしないでくんね?」 「…平常心保とうと頑張ってるんだな、と思って」 「研磨クン?なーんでお前はカッコつけさせてくれないのかな?」 「いや…このままだとなまえが、クロが女慣れしてるって勘違いしそうだったから…」 「だからってなぁ…あのさ、そういうのは俺がいないとこで言ってくんね?」 『…ふっ…ふふ…』 黒尾さんが情けない声で研磨を責めるので、おかしくなって笑った。 肩が震えて、黒尾さんのジャージに擦れる。 研磨はわたしのために、ああやって教えてくれたんだな、と分かって、さっきまでじくじく痛かった胸が、じわりと暖かくなった。 きっと小さい頃から黒尾さんと一緒にいた研磨にしか分からない、それくらいの変化だったんだろうけど、黒尾さんも相合傘をなんとも思ってないわけじゃないんだと知って、またお腹の奥がくすぐったくなる。 その感覚はなんなんだろう。 何かがお腹の奥からせり上がってくるみたいな感じがして、息が苦しくなるのは。 「なまえもな。こーいうときは笑っちゃダメだぞ、聞かなかったフリしなさい」 『いや…だって、なんかすごい、慣れてるんだなって思ってたので…』 「慣れてるわけねぇだろ。相合傘なんて初めてしたわ」 『でも、くっついても平気そうだったし』 「いちいち照れてたらだせぇだろ、男は女の子の前じゃカッコつけるもんなの。お前はも少し男心ってヤツを勉強した方がいいぞ」 『ふふ…わかりました』 たく、とばつが悪そうな顔をした黒尾さんを見上げてから、研磨の方を向く。 目が合った研磨は、嬉しそうな顔で優しく微笑んで、わたしと黒尾さんを見ていた。 いつもはあんまり笑わないのに、どうして笑っているんだろう。 理由はわからなかったけど、わたしも嬉しくなって笑う。 研磨が笑っていて嬉しいのか、黒尾さんも相合傘に少しは照れてくれていると知って嬉しいのかは、自分のことなのにわからなかった。 「なーんか…思った数倍は近いんだな、相合傘って」 『…そうですね』 「ごめんな、さっきのコンビニで傘買って来りゃ良かったわ」 『べつにいいです…嫌じゃないので』 「…そっか」 『…はい』 もうコンビニは行き過ぎたのに謝るから、わたしまで少し申し訳なくなった。 ぱちぱちと傘を叩く雨の音の隙間に、優しい声が落ちてくる。 見上げると、黒尾さんは、声と同じくらい優しい顔で微笑んでいて、わたしの胸はまた軋む。 ぎゅっと息が苦しくなる。 居心地悪くて、そっと目を逸らした。 「迎えありがとな、研磨もなまえも」 『はい』 「次からは行かないから。ちゃんと傘持って行きなよ」 「はいはい、分かってますよ」 土砂降りの雨にうたれる傘の中は、本当に狭くて。 黒尾さんのシーブリーズの匂いとか、それとは違う黒尾さんだけの匂いとか。 黒尾さんの腕がわたしの肩と密着していて、大きくて暖かい手が背中に触れていて、胸がどきどきして、どんな顔をしていればいいのかわからなくなる。 寄り添うように歩く、この状況が恥ずかしくて仕方ない。 でも、それと同じくらい嬉しくて、息がしづらいのは、幸せを感じてるからで。 ざあざあと降り続ける雨の中、2人だけが傘の中に閉じ込められてるみたい、なんて思った。
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