川底で生きていく
坂田さんに腕を引かれて、万事屋に連れてこられた。 神楽ちゃんや志村くんはいなくて、真っ暗な部屋に灯をともした彼は、冷たい声のまま、風呂に入れ、とわたしに言った。 未だに泣き続けるわたしと、目を合わせることもなくお風呂にお湯を張った坂田さんは、お風呂場にわたしを押し込んだ。 きっと、こんなずぶ濡れの状態で帰ったら、おばさんが心配するから、という、優しさなんだと思う。 彼がわたしではなく、おばさんに向ける優しさに、甘えることにした。 水を吸った分厚い着物を脱いで、体を流してからお風呂に体を沈めた。 さっきの川とは違い、暖かい。 さっきから、涙が止まらない。 冷静になってみると、わたしはとんでもないことをしたんだと、自覚したから。 自殺、だなんて。 わたしを拾ってくれた優しいおばさんに、顔向けできない。 だけど、あのときは本当に、もう嫌だと思ったのだ。 この世界で生きていくのも、この世界の残酷さも、何もかもがわからない、”わたし”という存在も。 そして、免許証と住民票に綴られていたあの住所が、弟が溺れ死んだ川にそっくりの川だと知った瞬間、死のうと思った。 弟が死んだのと同じように、わたしも川の水に溺れて死のうと。 同じでは、ない。 弟が死んだ日のあの川は、前日の大雨のせいで水量は増していたし、荒れていた。 同じではないけれど、きっと、死因は同じように、死ねる。 弟と同じように。 弟と、一緒に、死のう。 そう思った。 『………あ、の…』 「座れ」 『……………』 置いてあったシャンプーや石鹸を借りて入浴を済ませ、髪をタオルで拭いただけの状態で、脱衣所に置いてあった坂田さんのものらしき着流しを着て居間に出ると、坂田さんは低い声でそれだけ言った。 まさか、お風呂ありがとうございました、とか、神楽ちゃんはどうしたんですか?とか、言い出せる雰囲気ではない。 黙って、促されたまま、坂田さんが座っている向かいのソファに腰掛ける。 彼の着流しは大きくて、袖も裾も長いし、胸元の合わせも油断したらすぐにはだけるけれど、そんなことを気にしている場合ではなかった。 「下着、悪ィけど乾かしたから」 『はい、ありがとうございました』 脱衣所に、さっきまでわたしが着けていた下着が、乾かされて置いてあったので、わたしがお風呂に入っている間に彼が乾かしてくれたことは分かっていた。 坂田さんが暖かいお茶を出してくれたので、湯呑みを両手で包み込む。 彼は、俯いたまま、何も言わない。 『……坂田さん…』 「…………………」 『…すいません、でした』 「…何が?」 いつものおちゃらけた雰囲気が嘘みたいに、真っ直ぐな眼で射抜かれた。 どくん、と、久しぶりに、胸が騒ぐ。 怖い。 彼は、わたしには、怖い。 湯呑みを包む手に力を入れて、俯いた。 坂田さんの着物の、青い模様が目に入る。 『…………』 「謝られる筋合いは無ェけど、川で何思って沈んでたのか、教えてくれよ」 『…………し、のう、と…』 「あ?」 『…死のうと、思ってました』 また、目に涙が浮かんだ。 きっと、彼は、自ら命を絶つような、人間は嫌いだ。 だって、怖いほど真っ直ぐなひとだから。 それに、知ってる人間なら、なおさら。 きっとわたしを軽蔑している。 母が再婚して家に入ってきた、”新しいお父さん”だった男の目を思い出した。 死んでくれ、って、言ってる、わたしを軽蔑して、蔑む、あの目を。 「へェ。生きるのがそんな辛いの、お前」 『……坂田さんは…人を殺したこと、ありますか?』 顔を上げると、涙で歪む視界の中、彼の目が鋭くなるのを見た。 答えは知っている。 人、と呼ぶのかはわからないけれど、彼は命を、奪ったことがある。 何度も。 わたしのそれと理由は全く違えど。 「…何だよいきなり。質問してんのはコッチなんですけど」 『わたしは、あります』 彼の紅の瞳が一瞬、揺らいだ。 同時に、わたしの目から、涙が零れおちる。 『弟を、殺しました』 「………………」 『…何の罪もない、わたしを慕ってくれてた…半分血の繋がった弟を、わたし、殺しました』 坂田さんの目を、こんなにも長い間、じっと見つめたのは初めてのことだった。 紅が、わたしの涙で揺れて、歪んで、きれい。 手が震える。 『…生きるのが、辛いです』 「弟を殺したからか?」 『…いいえ。…わたしが死ぬことを、心から願ってる人が、いるから』 「…どこに?」 『……遠くに』 「そんな奴のために死んでやろうってか?優しいねェ、お前」 わたしは死ぬことも、許されないのだろうか。 二度の自殺とも失敗に終わった。 1度目の自殺ははたして、成功したのだろうか。 そんなこと、確かめる方法なんて、ないけれど。 「なんで殺した?可愛くなかったのか、弟が」 『…可愛かったですよ。わたしに懐いてくれました。…家で、わたしに笑いかけてくれるのは、弟だけでした』 「…血が半分しかってこたァ、再婚とかか?」 『はい。幼い頃に父は死んで…13歳の年に、母が再婚しました。新しい、お父さんだって。でも、その人はわたしが嫌いで、いつも、消えてくれって、いなくなれって、言われました』 「……………」 『…わたしが16歳の年に、母とその男の間に、子供が産まれました。…弟です。その頃から、わたし、母にまで疎まれはじめて…会話もしてもらえなくなって、食事も、自分で作って、一人で食べてました。……わたしには、話しかけもしない、顔を合わせれば舌打ちをするような母とその男は、弟にはニコニコ嬉しそうに笑って、たくさん話しかけるんです。生まれてきてくれてありがとうね、とか、かわいいね、とか、えらいね、とか…わたしは、そんなこと、言われたことなかった。いつも、消えろとか、死ねとか、…っ……あ、愛される、弟が、羨ましかった…』 ぼろぼろと流れる涙を、借りたばかりの着流しの袖で乱暴に拭う。 なんでわたし、こんな、主要人物の中の主要人物、主人公である坂田さんに、こんな話、してるんだろう。 弟を殺したことへの、言い訳? 苦しくて、息が詰まる。 泣いていたら死ねるだろうか、なんて、くだらないことを考えた。 『でも、羨ましい、よりも、わたし、弟が、嫌いでした。あの男が、母と、再婚する、まで、は…っ、お母さん、優しかった、のに…、弟が、生まれてくるまでは、…わたし、お母さんに、愛されてたのに…!』 「………………」 『っでも、お姉ちゃん、って、笑ってくれる弟が、可愛くて、でも、憎くて、わたし、……っ、嫌いでした、大嫌いで、いなくなれって、思って…、っ』 坂田さんは、正面のソファから立ち上がって、わたしの隣に座った。 何をするでもなく、ただ黙って、隣に座っている。 わたしは両手で顔を覆ったまま、嗚咽交じりに、一生懸命、思いを吐き出す。 『あの、日…弟が、死んだ日は……前の日に、大雨が降って……か、川が…』 「……川?」 『川、が、…水が多くて、流れが、すごく、早くて……わたし、弟と、公園に行く途中でした。……水が多い川に、弟が、はしゃいで、近付きました』 「……………」 『…危ないよ、って、言っても、弟は聞かずに…雨で濡れた、草に、足を滑らせて、川に……川に、落ちました』 ざぶん、と、上がった水しぶきを今でも鮮明に覚えている。 あの弟の表情も、わたしに伸ばされた小さな手も。 『…………わたし、伸ばしかけた手を、引っ込めたんです』 「………………」 『助けようとしたけど、母がまだ、わたしを愛してくれてた頃の、顔を、…声を、思い出して、……弟が、いなければって、思ったら、弟はもう、流されて、目の前からいなくなってました………あのとき、わたしが…手を、伸ばしていれば…』 「弟は、死なずに済んだ?」 隣で、低い声がそう言った。 わたしは何も返せずに、ただ泣いた。 手は涙でビショビショになって、せっかくお風呂に入ったのに、とか、明日目が腫れるんだろうな、とか、思いつきもせずに泣いた。 「確かに、お前が殺したも同じだ」 しばらくしてわたしが落ち着いたころ、坂田さんが言った。 息がくるしくなる。 わたしを攻めた、母やあの男の声が脳内で、聞こえたから。 「だがな、手を伸ばせば弟は死ななかったってのは、間違ってる」 『………でも…』 「お前が手を伸ばして、弟の手を握ったとしても、弟は死んだだろうよ。荒れてる川の水圧と早ェ流れで重くなった弟の体重、そんな柔っこい腕で引っ張り上げられる訳がねェ」 『………………』 「巻き添え食らってお前も川に落ちて、二人して水死してただろうな」 『……でも、わたし、』 「お前が後悔してんのは、弟を助けられなかったからじゃねェ。伸ばしかけたその手を、引っ込めたからだろうが」 坂田さんの声が、突き刺さった。 動けなくなる。 時間が止まったみたいに、息ができない。 真っ赤な瞳が、わたしを見る。 見透かされる、奥の深い部分まで、あの紅に。 「浮かばれたか?お前を好きだったまだガキの弟が死んで。お母さんとやらには、愛されたか?」 ぽた、と、太ももに涙が落ちた。 わたし、泣いてばかりだ。 『そんな、訳…!』 「…………」 『浮かばれるわけない!わたしなんかが、愛されるわけない!だから死んだの!』 「…死んだ?」 はっとした。 いま、死んだって、わたし、言った。 真っ赤な目がわたしを見ている。 怖い。 暴かれてはいけない部分まで、彼に、暴かれてしまいそうで。 『…自殺したんです。弟が死んで』 「………」 『死ねませんでした。それで、おばさんが、拾ってくれました』 「…そうかい。で、絶望して自殺未遂したお前を、訳も聞かずによ、あったけェ飯と寝床与えてくれたおばさんに拾われたその命、また捨てようってか」 『……………』 バシン! ぐらり、脳が揺れた。 何が起こったのかわからずに、わたしはソファから落ちた。 弾けるような刺激を受けて痛む頬を、手のひらで覆う。 ジンジン、熱を持っている。 わたし、いま、坂田さんに、殴られたんだ。 彼の広げられた手のひらと、痛む頬によって、そう理解した。 彼の大きな手のひらで、頬を強く殴られた。 「俺ァ女殴る趣味は無ェが、お前みたいな奴を見るとよ、殴ってやりたくて仕方ねェんだ」 『……………』 「女に手ェ上げたのは初めてだから、加減が分かんなくてなァ。痛かったか?」 床に倒れこんだままのわたしの傍にしゃがみ込んだ坂田さんに、頬を押さえていた手を取られる。 暖かい手にゆっくり剥ぎ取られて、わたしの手は床に触れた。 さっきのビンタが嘘みたいに、わたしの頬に優しく触れる坂田さん。 その目をじっと見つめることしか、できない。 「腫れたら、俺から女将に謝ってやるよ」 『……いえ。結構です』 「…………まだ死にてェか?」 頬に手のひらで触れられたまま、そう問われた。 『………いいえ』 「なら、生きてェか?」 『……はい』 「どうだか…お前、嘘つきだからな」 『…生きたいです』 奪ってしまった弟の人生。 おばさんに与えられた新しい人生。 わたしは生きなければならない。 わたしのこの命は、動き、脈を刻むこの心臓は、わたしのためだけに、動いている。 『生きて…いつか、誰かに、…』 愛されたい。 わたしの罪が、例え誰かに、世界に、弟に、一生、許されないとしても。 罪を背負って、生きていきたい。 そしていつか、誰かに、愛されたい。 愛したい。 ごめんね。 わたしは、この世界で、罪を償う。 例え一生、次に死ぬまで、誰にも愛されないとしても、疎まれて蔑まれるとしても、わたしは、生きる。 弟の分も、わたしが背負う。 ごめんね。 こんなお姉ちゃんで、ごめん。 わたしが奪ったきみの人生、わたしに全部、ちょうだい。 きっと、生き抜いてみせるから。
→ |