この世界に来て、一つ、どうしても理解できないことがある。
わたしは財布から自分の免許証を取り出して、眺めた。

わたしはこの世界の人間じゃない。
違う世界で産まれ、育った。
今となっては、この世界の”登場人物”として、生きていこうと決意して生活しているけれど、初めから存在していたわけじゃない。
わたしはイレギュラーな存在のはず。
時代も歴史も世界も全てが異なる世界から、何が原因かはわからないけれど、この世界にやってきた。
だったら、この世界に、わたしの存在を証明できるものなど、あるはずがない。
そう、思っていた。


「住民票ですね。免許証はお持ちですか?」


それを確認するために、江戸の役場へ行き、もし存在しない人間の免許証を持ってる、とかいう事態になって、警察を呼ばれたらどうしよう、なんて考えながら、免許証を受付の女の人に差し出した。
わたしがこの世界に来た時、着ていたスーツの懐のポケットに、免許証だけが入っていた。
それは、わたしが飛び降り自殺を図ったときに、もし顔とかがぐちゃぐちゃになったりして、身元が判明できなかったら警察に無駄に迷惑が掛かるかな、なんていうおかしな気遣いから、自分で財布から抜き出して、スーツのポケットに入れておいたものだ。
そのとき着ていたスーツとシャツ、下着と、免許証だけが、前の世界からわたしが持ってきたもの。
スーツは汚れて敗れてしまって使い物にならなくなっていたので、おばさんと話し合って捨ててしまった。
シャツや下着も、なんだか気持ち悪くて、捨てた。
そして、わたしの手元に残ったのは免許証だけ。

その免許証に、おかしな点を見つけたのは、役場の受付のお姉さんが「少々お待ちくださいね」と、免許証を返してきた時だった。
ふと目を落としたわたしの免許証。
その写真も名前も紛れもなくわたしなのに、一箇所だけ、おかしな部分があった。


『!?………か、ぶき町…?』


免許証の、住所の部分だ。
わたしは前の世界では、東京都の練馬に住んでいた。
だから、免許証に記されている住所も、練馬区だったはずだ。
なのに、役場の受付の前で立ちすくむわたしの手の中の免許証の、住所のところには、はっきりした書体で、”かぶき町ーーー番地”と、記されていた。
わたしはこんがらがる頭を必死に動かしながら、その住所のところを指で擦ってみたり、何度も目で見つめたりした。
けれど、そこに並ぶ文字は、住所は、やっぱり、かぶき町で。


『……(この世界に溶け込むように、変化、した…?)』


前の世界の住所は、この世界に無いのかもしれない。
この世界で生きていくために、免許証の住所が、変化したのだろうか。
背中を、ツ、と冷や汗が流れた。
この、変化した住所は、どこの住所だろう。
それを確かめなければと、わたしは受付に置いてあったメモ用紙に、ボールペンでその住所を書き写した。
後で、行ってみようと決めて。


「お待たせしました。こちら、住民票です」


戻ってきた受付のお姉さんの声に、どきりとした。
免許証を財布にしまって、お姉さんの手から、住民票が入っているという封筒を受け取る。
手が、震えていた。
役場を出て、裏路地でその封筒を開いて、住民票を恐る恐る取り出した。


『……かぶき町……』


住民票に綴られている、わたしの名前と住所を見て、震えは止まる。
わたしがこの世界に存在しているという、証だ。
住民票があるということは、戸籍謄本も、あるということ。
そして、住民票に綴られている住所も、免許証に記されていた住所と、同じ文字が連なっていた。
ぐらりと脳が揺れる感覚に目眩がする。
情報量に、頭がパンクしそうだった。
わたしはこの世界で生まれたわけじゃない。
この世界には、血を分けた親も、親戚も、誰一人、わたしの”生”を証明できる人なんていない。
なのにどうして?
どうして、わたしはこの世界に、はっきりと明らかに、裏付ける確証とともに、存在しているの?
どうして?
誰が、こんなことをした?
一体、どこの誰が、どんな力を、空間や世界を歪める力を用いて、こんな、あり得ないことを?
どうして、


『…どうして、わたしなの……』


怖かった。
免許証の住所が変化していたことも、わたしの住民票が存在するということも。
戸籍謄本には、何が書かれているのか、という、ことも。
きっとそこには、実の両親の名前なんて無い。
きっと、免許証や住民票みたいに、捏造された、嘘の、証明だ。
怖い。
一体、莫大な何かは、わたしを、何のために、この世界に送り込んだのだろうか。
わたしには戸籍謄本まで確認する勇気は無かった。
怖くて、仕方がない。


『……………………』


そして、今。
わたしは、免許証と住民票に記されていた、身に覚えのない”わたしの住所”に居る。
かぶき町×××番地。
もう何も考えられない、いや、考えたくなかった。
だってそこは、わたしの存在を証明した住所は、ただの、川だった。
何人かの通行人に道を聞いて、たどり着いた、免許証と住民票に記されていたその場所は、深くて大きな川だった。
住所を書き写したメモ用紙を握りしめる。
ぐしゃ、と、紙は潰れた。
後ろを人が通ったので、振り返って声をかけた。


『あの、すいません』

「?何だい」


その人は歳をとった男性。
おじさん、よりは、おじいさん、という呼び名が似合うような人だった。
もう夜になりかけていて、辺りは暗い。
日が落ちるのが早い季節だ。


『ここは、以前から川でしたか?』

「ん?あぁ、わしが生まれた時から、ずっと川だねぇ」

『…そうですか』

「なんだいお嬢さん、おかしな事を聞くんだね」

『…いえ、ありがとうございます』


いえいえ、と笑ったおじいさんは、ゆっくりとした歩みで去っていく。
わたしは目の前の川に目を移した。
深くて、大きな、綺麗な川だ。
きっと魚がいるだろう。
土手を降りて、砂利を踏む。
大きな石、小さな石、様々な形の石が敷き詰められている。
そして、ほど近い場所に一つ、大きな橋が架かっているのを見てから、わたしは川に足を踏み入れた。
冷たい水が、わたしのふくらはぎを撫でながら流れていく。
溢れた涙が頬を伝って、着物に落ちた。
こんな川で、わたしは生まれたとでもいうの?
こんな川に、わたしは住んでいたとでもいうの?
ざぶざぶと、濡れるのも気にせず深瀬に向かって歩く。
着物が水を吸って、重くて、涙が止まらない。
足にまとわり付く水を蹴るように歩く。
もう、太腿まで川の水に浸かっている。
寒い。
季節はもうすぐ冬になるんだから、当たり前だ。
肩まで浸かっていれば、凍え死ぬだろうか。


「お前のせいだ!!」


弟は溺れて死んだ。
この川に、よく似た川で、激しく荒れたこの川で。
苦しかっただろう。痛かっただろう。
怖かっただろう。
わたしが、殺した。
冷たい水がお腹に触れて、鳥肌がたつ。
水の流れと、川底の滑る石に足を取られて、バランスを崩したわたしは、川の中に崩れ落ちた。
ざぶん、と、冷たい冷たい、残酷な水に全身が包まれる。
止めた息を、水の中で吐いた。
ごぽ、と登っていくわたしの空気。
目を開けると、やっぱり水は澄んでいたけれど、もう夜だから、真っ暗で、何も見えない。
ただ、月の光が、水面に映って


『(きれい)』


ゆらゆら揺れる月明かりを目に焼き付けて、目を閉じた。川底の石に、体がぶつかる。
わたしの体内の酸素が、息が切れたとき、わたしは水を飲み込んで、息ができなくなって、死ぬだろう。
ごめんね。
あのとき、嫉妬や怒りで、弟を殺した。
愛されたかっただけなの、なんて、言い訳したって、小さな命を奪った償いになんてならない。
ごめんね。
本当はわたしも、弟を、愛したかった。

愛されたかった。

息が切れる、その直前。
突然わたしを包む水が激しく波立って、腕を誰かに強く掴まれた。
驚いて目を開ける前に、強い力で引き上げられる。


『ごほっ!ゴホゴホ、ぐっ、ごほ…っ!』


空気の中に引き戻されたわたしは、激しく咳き込んだ。
川の水が目に入って、痛い。
ああ、死ねなかった。
そんなことを思いながら、未だにわたしの腕を強い力で掴んでいる、正面にいる”誰か”を見るため、目を開ける。
川に沈んで死のうとしていたわたしを助けたのは、見紛うはずもない、”この世界”の主人公だった。


「こんな寒い晩に水遊びか?」


冷たい声を出す彼の、銀色の髪の毛が、月明かりに照らされて、綺麗で。
声音はわたしを嫌っているのに、腕を掴んだままの大きな手は、暖かくて、力強くて。
川に落としたはずの涙が、止まらなくなる。


『…っ、……』

「何してんの、つーか、何してた?」

『………足を、つりました』

「あっそ。じゃ、なんでこんな寒空の下、川になんざ入るんだ?なんか見つけたか?カッパとか?いたなら俺にも教えてくれよ」

『…………………』


嘘を付いた、けれど、他に言い訳が思い付かずに、わたしは息を上げる。
涙が止まらずに、息が苦しくて、喉から嗚咽が漏れた。
坂田さんの赤い瞳が、月明かり下、わたしをじっと、見下ろしている。


『っ、ごめ、んなさ…っ』


ぐっと腕を引かれて、自然と足が進む。
坂田さんはわたしの腕を強く掴んだまま、川から上がった。
湿った下駄や、ずぶ濡れの着物、水が滴る髪の毛、折られるんじゃないかってくらい、強く掴まれた、左腕。
真っ赤な、瞳。
それら全部が、この川が、恐ろしくて、わたしは泣き止むことができない。

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