7
この世界に来て、一つ、どうしても理解できないことがある。 わたしは財布から自分の免許証を取り出して、眺めた。 わたしはこの世界の人間じゃない。 違う世界で産まれ、育った。 今となっては、この世界の”登場人物”として、生きていこうと決意して生活しているけれど、初めから存在していたわけじゃない。 わたしはイレギュラーな存在のはず。 時代も歴史も世界も全てが異なる世界から、何が原因かはわからないけれど、この世界にやってきた。 だったら、この世界に、わたしの存在を証明できるものなど、あるはずがない。 そう、思っていた。 「住民票ですね。免許証はお持ちですか?」 それを確認するために、江戸の役場へ行き、もし存在しない人間の免許証を持ってる、とかいう事態になって、警察を呼ばれたらどうしよう、なんて考えながら、免許証を受付の女の人に差し出した。 わたしがこの世界に来た時、着ていたスーツの懐のポケットに、免許証だけが入っていた。 それは、わたしが飛び降り自殺を図ったときに、もし顔とかがぐちゃぐちゃになったりして、身元が判明できなかったら警察に無駄に迷惑が掛かるかな、なんていうおかしな気遣いから、自分で財布から抜き出して、スーツのポケットに入れておいたものだ。 そのとき着ていたスーツとシャツ、下着と、免許証だけが、前の世界からわたしが持ってきたもの。 スーツは汚れて敗れてしまって使い物にならなくなっていたので、おばさんと話し合って捨ててしまった。 シャツや下着も、なんだか気持ち悪くて、捨てた。 そして、わたしの手元に残ったのは免許証だけ。 その免許証に、おかしな点を見つけたのは、役場の受付のお姉さんが「少々お待ちくださいね」と、免許証を返してきた時だった。 ふと目を落としたわたしの免許証。 その写真も名前も紛れもなくわたしなのに、一箇所だけ、おかしな部分があった。 『!?………か、ぶき町…?』 免許証の、住所の部分だ。 わたしは前の世界では、東京都の練馬に住んでいた。 だから、免許証に記されている住所も、練馬区だったはずだ。 なのに、役場の受付の前で立ちすくむわたしの手の中の免許証の、住所のところには、はっきりした書体で、”かぶき町ーーー番地”と、記されていた。 わたしはこんがらがる頭を必死に動かしながら、その住所のところを指で擦ってみたり、何度も目で見つめたりした。 けれど、そこに並ぶ文字は、住所は、やっぱり、かぶき町で。 『……(この世界に溶け込むように、変化、した…?)』 前の世界の住所は、この世界に無いのかもしれない。 この世界で生きていくために、免許証の住所が、変化したのだろうか。 背中を、ツ、と冷や汗が流れた。 この、変化した住所は、どこの住所だろう。 それを確かめなければと、わたしは受付に置いてあったメモ用紙に、ボールペンでその住所を書き写した。 後で、行ってみようと決めて。 「お待たせしました。こちら、住民票です」 戻ってきた受付のお姉さんの声に、どきりとした。 免許証を財布にしまって、お姉さんの手から、住民票が入っているという封筒を受け取る。 手が、震えていた。 役場を出て、裏路地でその封筒を開いて、住民票を恐る恐る取り出した。 『……かぶき町……』 住民票に綴られている、わたしの名前と住所を見て、震えは止まる。 わたしがこの世界に存在しているという、証だ。 住民票があるということは、戸籍謄本も、あるということ。 そして、住民票に綴られている住所も、免許証に記されていた住所と、同じ文字が連なっていた。 ぐらりと脳が揺れる感覚に目眩がする。 情報量に、頭がパンクしそうだった。 わたしはこの世界で生まれたわけじゃない。 この世界には、血を分けた親も、親戚も、誰一人、わたしの”生”を証明できる人なんていない。 なのにどうして? どうして、わたしはこの世界に、はっきりと明らかに、裏付ける確証とともに、存在しているの? どうして? 誰が、こんなことをした? 一体、どこの誰が、どんな力を、空間や世界を歪める力を用いて、こんな、あり得ないことを? どうして、 『…どうして、わたしなの……』 怖かった。 免許証の住所が変化していたことも、わたしの住民票が存在するということも。 戸籍謄本には、何が書かれているのか、という、ことも。 きっとそこには、実の両親の名前なんて無い。 きっと、免許証や住民票みたいに、捏造された、嘘の、証明だ。 怖い。 一体、莫大な何かは、わたしを、何のために、この世界に送り込んだのだろうか。 わたしには戸籍謄本まで確認する勇気は無かった。 怖くて、仕方がない。 『……………………』 そして、今。 わたしは、免許証と住民票に記されていた、身に覚えのない”わたしの住所”に居る。 かぶき町×××番地。 もう何も考えられない、いや、考えたくなかった。 だってそこは、わたしの存在を証明した住所は、ただの、川だった。 何人かの通行人に道を聞いて、たどり着いた、免許証と住民票に記されていたその場所は、深くて大きな川だった。 住所を書き写したメモ用紙を握りしめる。 ぐしゃ、と、紙は潰れた。 後ろを人が通ったので、振り返って声をかけた。 『あの、すいません』 「?何だい」 その人は歳をとった男性。 おじさん、よりは、おじいさん、という呼び名が似合うような人だった。 もう夜になりかけていて、辺りは暗い。 日が落ちるのが早い季節だ。 『ここは、以前から川でしたか?』 「ん?あぁ、わしが生まれた時から、ずっと川だねぇ」 『…そうですか』 「なんだいお嬢さん、おかしな事を聞くんだね」 『…いえ、ありがとうございます』 いえいえ、と笑ったおじいさんは、ゆっくりとした歩みで去っていく。 わたしは目の前の川に目を移した。 深くて、大きな、綺麗な川だ。 きっと魚がいるだろう。 土手を降りて、砂利を踏む。 大きな石、小さな石、様々な形の石が敷き詰められている。 そして、ほど近い場所に一つ、大きな橋が架かっているのを見てから、わたしは川に足を踏み入れた。 冷たい水が、わたしのふくらはぎを撫でながら流れていく。 溢れた涙が頬を伝って、着物に落ちた。 こんな川で、わたしは生まれたとでもいうの? こんな川に、わたしは住んでいたとでもいうの? ざぶざぶと、濡れるのも気にせず深瀬に向かって歩く。 着物が水を吸って、重くて、涙が止まらない。 足にまとわり付く水を蹴るように歩く。 もう、太腿まで川の水に浸かっている。 寒い。 季節はもうすぐ冬になるんだから、当たり前だ。 肩まで浸かっていれば、凍え死ぬだろうか。 「お前のせいだ!!」 弟は溺れて死んだ。 この川に、よく似た川で、激しく荒れたこの川で。 苦しかっただろう。痛かっただろう。 怖かっただろう。 わたしが、殺した。 冷たい水がお腹に触れて、鳥肌がたつ。 水の流れと、川底の滑る石に足を取られて、バランスを崩したわたしは、川の中に崩れ落ちた。 ざぶん、と、冷たい冷たい、残酷な水に全身が包まれる。 止めた息を、水の中で吐いた。 ごぽ、と登っていくわたしの空気。 目を開けると、やっぱり水は澄んでいたけれど、もう夜だから、真っ暗で、何も見えない。 ただ、月の光が、水面に映って 『(きれい)』 ゆらゆら揺れる月明かりを目に焼き付けて、目を閉じた。川底の石に、体がぶつかる。 わたしの体内の酸素が、息が切れたとき、わたしは水を飲み込んで、息ができなくなって、死ぬだろう。 ごめんね。 あのとき、嫉妬や怒りで、弟を殺した。 愛されたかっただけなの、なんて、言い訳したって、小さな命を奪った償いになんてならない。 ごめんね。 本当はわたしも、弟を、愛したかった。 愛されたかった。 息が切れる、その直前。 突然わたしを包む水が激しく波立って、腕を誰かに強く掴まれた。 驚いて目を開ける前に、強い力で引き上げられる。 『ごほっ!ゴホゴホ、ぐっ、ごほ…っ!』 空気の中に引き戻されたわたしは、激しく咳き込んだ。 川の水が目に入って、痛い。 ああ、死ねなかった。 そんなことを思いながら、未だにわたしの腕を強い力で掴んでいる、正面にいる”誰か”を見るため、目を開ける。 川に沈んで死のうとしていたわたしを助けたのは、見紛うはずもない、”この世界”の主人公だった。 「こんな寒い晩に水遊びか?」 冷たい声を出す彼の、銀色の髪の毛が、月明かりに照らされて、綺麗で。 声音はわたしを嫌っているのに、腕を掴んだままの大きな手は、暖かくて、力強くて。 川に落としたはずの涙が、止まらなくなる。 『…っ、……』 「何してんの、つーか、何してた?」 『………足を、つりました』 「あっそ。じゃ、なんでこんな寒空の下、川になんざ入るんだ?なんか見つけたか?カッパとか?いたなら俺にも教えてくれよ」 『…………………』 嘘を付いた、けれど、他に言い訳が思い付かずに、わたしは息を上げる。 涙が止まらずに、息が苦しくて、喉から嗚咽が漏れた。 坂田さんの赤い瞳が、月明かり下、わたしをじっと、見下ろしている。 『っ、ごめ、んなさ…っ』 ぐっと腕を引かれて、自然と足が進む。 坂田さんはわたしの腕を強く掴んだまま、川から上がった。 湿った下駄や、ずぶ濡れの着物、水が滴る髪の毛、折られるんじゃないかってくらい、強く掴まれた、左腕。 真っ赤な、瞳。 それら全部が、この川が、恐ろしくて、わたしは泣き止むことができない。
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