38

「身剣」

目が覚めた。視界のない目覚めは二回目だった。暗いなあと思ったら、いきなり。左隣から、低い声がした。
ビックリする。驚いた。息が止まるかと思った。手足がビクッとしてしまった。
微睡みが全くない目覚め。何も見えないので、今の状況はわからない。

「起きてんのか」

相澤先生の声だ。と、思った。
隣には相澤先生がいるらしい。よく意味がわからない。ここが病室だということは、思い出した。
お見舞いに来てくれたのだろうか。自分も入院中では?
見えない。何も。
とりあえず、声のした方に顔を向ける。

『相澤先生ですか?その声は!聞き慣れた声です。そなたは、相澤消太先生に他ならない!そうでしょう。そうなんでしょう!合ってますよね?相澤先生。あれ?違う?不安になってきた。誰だ!相澤先生じゃないのか?じゃあ誰だキサマはっ!フーアーユー!名を名乗れ!』
「合ってるよ。相澤先生だ」
『相澤先生だった!安心。ホッとしました。いや。まてよ?相澤先生は、自分のことを相澤先生とは言わない!さては…キサマ、誰だ!騙されないぞ。甘く見ないで!わたしは、アレだ!アレ。プロなんだから。声で人を見分ける、プロ。今決めた!今、そのプロになったところです!そうさ。だから、そう。貴様は相澤先生じゃない!多分。相澤先生だとしたら。ごめんなさい!!』
「自分の担任の声も忘れたのか。おまえには、他の数倍。説教したんだがな。この声は、記憶にねえか」

相澤先生だった。ホンモノだった。見えないと疑心暗鬼になっていけない。困ったことに。
隣にいる人は。多分、相澤先生だ。何故いるのかは知らないけど、声と台詞と話し方は。わたしの知る相澤先生に違いない。紛うことなき、担任。
ホッとする。少し。気が休まる。お腹が空いた。

『相澤先生。疑ったこと、謝ります。誠心誠意!謝罪します。悪うござんした。許してつかあさい。悪気は、ないです。悪気は。すみませんでした!!と、いうことで。それは、置いといて。お尋ねしたいことが!今についてです。今は、何時ですか?いつの。いつの何時か。知りたいです!時間の感覚、皆無です。昼ですか?朝ですか?夜ですか?ここは、どこですか!迷子です。わたしは迷子。困ったことに。まいごのまいごのこねこちゃんーあなたのおうちはどこですかー?です。わたしは、アレですか。まだ、病室ですか?なんとなく。少しだけ。消毒の匂いがします。不快だ!好きじゃないです。このニオイ!病室の匂い。きーっ!潔癖なニオイがする。違うのがいい。チョコの匂いとか!あ、チョコ食べたいな。相澤先生!チョコ持ってませんか?』
「ねえよ。今は昼の2時過ぎだ。ここは病室…菓子は、後で用意させてやる」

隣で、ギ、という音がした。何かが軋む音。相澤先生が動いたのだろうか。何かに座っているのかもしれない。
何故か。今日の相澤先生は、優しい。チョコを用意してくれるとは。ちょっと、変だ。この相澤先生。ホントは相澤先生じゃないのかもしれない。でも見えない。ので。信じるほか、ない。
ここは病院の病室。今は14時。多分、翌日。木曜日。昨日が敵の襲撃。わたしは寝た。というか、気絶した。そこから病院へ。一度起きて、ミッドナイトと話した。そのあと、リカバリーガールが来た。治癒しに来てくれたそうだった。
腰と肩にチューされて、怪我は治った。骨が折れていたらしい。ワープさせられた時、受け身を取らなかったからだ。狼狽していたので。ミスだ。痛いと思ったら、骨折。マヌケ。
目は、どうにもならないと言われた。知っていました。敵は情報を吐かない。
そのあと、寝た。二度寝。そして今起きた。14時に。少し、寝すぎたようだった。頭がシャキッとしない。戦闘と治癒で疲れたのかもしれない。
隣には相澤先生。起きたら相澤先生がいるなんて、ビックリだ。驚きの展開。いつからいたんだろう。何しに来たんだろう。怪我してるんじゃ。気になる。

「痛いとこ、ねえか」

相澤先生の声は穏やかだ。優しい。
心配してくれた。わたしのことがかわいそうなのかもしれない。同情かな。嘆かわしい。
担任の前でいつまでも寝転んでいるのは、忍びなかった。
なので、体を起こす。リカバリーガールの治癒のおかげで。体に痛みはなかった。完治。ピンピンしている。
ベッドに手をついて起きた。見えない。掛け布団が体からずり落ちたのは、わかった。
自分が今どんな格好をしているのかもわからない。コスチュームのままか。それか、病院服か。後者の方が可能性が高い。
ベッドに座る。相澤先生がどっち側にいるのか忘れかけた。左だ。左を向く。
見えないと、話しづらい。

『平気です!ノープロブレム。痛みを感じる箇所は、ないです。腰も肩も。痛くないですよ!リカバリーガールは、ほんとに。すごいですね。チューされたら、骨がくっついた!すごーい。そうだ!相澤先生。相澤先生は、大丈夫ですか。今、どんな感じですか?相澤先生は。大変な怪我をしたって。聞きました。痛いですか?相澤先生は、どんな感じに…こう。こう、なんというか。包帯は巻いてますか?目は見えますか?服は。病院服ですか?捕縛武器とか。着けてますか?腕は。腕は、大丈夫ですか!顔も。見えないので、わからないです。困りました。嘆かわしい。参った、参った。先生、いますか。そこにいるんですよね?相澤先生』

本当にいるのか、わからない。ほんとは誰もいないんじゃないか。いなくなってしまったんじゃないか。
見えないというのは。思ったよりも、大変だ。舐めていた。盲目を見くびった。

「俺のことはいい。おまえは。自分の心配だけ、してればいい」

低い声だ。相澤先生の声は。こんなに、低かっただろうか。それに、なんだか元気がない。と思った。そう感じる。
手を伸ばしてみた。相澤先生がいるであろう場所に。
何もない。手は空気にしか触れない。
わたしは今、目を開けているだろうか。開けているつもり。まばたきをしているつもりだけど、実感がない。
このままだったら。わたしは、諦めなくてはいけない。
ヒーローを。


(相澤視点)

身剣と目は合わない。
身剣の目は、焦点が合わずにじっと前に向いている。
本当に見えないんだな。と、今更確信した。どこかで嘘だと思っていた。
喉の辺りが軋む。イマイチ。よくわからない心情だった。形容しがたい気分だ。

身剣は眠っていた。
足は使えたので、腕や顔にアホみたいに包帯をグルグル巻きにされたが。歩いて、身剣の病室を訪ねた。
真ん中のベッドで、身剣は寝ていた。死んでいるみたいで、ぞっとした。
白い病室は無機質だ。真っ白なシーツに首まで覆われて眠る身剣の寝顔を見下ろした。顔が青白い。
枕元のパイプ椅子に座って、しばらく寝顔を眺めていた。良くはない。女子生徒の寝顔を眺めるのは。背徳的だった。
これは、情なのではないかと思った。いや、違う。そんなもん、移ってない。湧いてない。多分。恐らく。
絶対と、言い切ることはできなくなった。
情けない。身剣の額には、前髪がかかっていた。
それを分けてやろうと思った。前にも一度、考えたことだった。保健室で。あの時は躊躇ってやめた。それを、しようと思った。
が、俺の腕は動かないのだった。忘れていた。珍しく長く眠って、アホになったのかもしれない。
さっき、マイクから電話があった。スマホをスピーカーにして話した。操作は看護師がやった。
雄英は対応に追われている。会議や調査。マイクは辟易していた。後で見舞いに来るとか言っていた。来なくていい。
警察の取り調べは続いている。厳しい尋問を受けている敵。未だに、吐かないそうだ。身剣の視力について。
苛立つ。
青白い瞼を眺めていると、身剣の眼球が動いたようだった。薄い瞼がぴくりと動いた。

『相澤先生ですか?』

目を覚ました身剣は、声をかけると言い当てた。その声は掠れていた。
胸の辺りに言いようのない感覚が募る。ため息を吐きたくなった。が、耐えた。
身剣は平生を装う。台詞と声音は。微笑も、当然みたいに浮かべていた。
ただ、目が合わない。
俺の声を追って顔を向けることはする。こちらを向く身剣の目は座っている。
焦点が合わない。濁った灰色の目が、俺を捉えることはない。
ぼんやりとした目をして微笑む身剣に、わずかな恐怖心を覚えた。見えていない。俺が。何も。
あの目は本当に空っぽになったらしい。穴だった。
何も言えなかった。自分の心配をすればいい。俺の心配なんかしなくていい。
身剣は俺のことばかり尋ねた。大丈夫か。平気か。大丈夫でも平気でもないのはおまえの方だ。

『相澤先生。いますか?そこに』

身剣は微笑んだまま、俺の方に手を伸ばした。
病院服から伸びる白い腕が、ゆっくりと。俺を探している。
見えなくて不安を感じている。それは、わかる。だがそれだけではないのだろう。
ミッドナイトから聞いた身剣の様子とは、違う。リカバリーガールから聞いたそれとも、違う。
灰色の瞳は、きょろきょろと泳ぐ。暗闇の中に何かを探している。
見ていられなかった。
座ったまま、背中を屈める。身剣の手に頭を近づけた。

『ひ!な、なんだこれ。毛!?もじゃもじゃしてる。ん?いや、柔らかい。毛?これは。髪の毛ですか!相澤先生の?髪の毛!びっくりした。いきなり毛があるとは!意表を突かれました。犬か猫かと思いましたよ!可愛い小動物を。思わず期待してしまいました。相澤先生でよかった。でも、ビックリしましたよ!心臓によくない。相澤先生は、ビックリさせるのがお上手!』

こちらに伸ばされた白い手に、頭を触れさせた。
肩は届かなかった。腕は使えない。
身剣の手は、ぺたぺたと確かめるように俺の髪に触れる。
面白い気分ではない。致し方なかった。
少し骨ばっている。身剣の手は、どちらかと言えば男っぽい手だ。そこまで小さくもない。男に比べれば小さいが。指が長く、骨ばっている。
その指が、すっと耳の上に差し込まれた。髪の隙間に滑り込む。
やめろ。と言いたいところだった。というか、言うべきだ。
間違ったことである。不合理極まりない行為だった。
女子生徒に髪を弄られている。不快ではなかった。
身剣の目を見ると。何も言えなくなる。好きにさせよう。
不合理だが仕方ない。身剣の指は、ゆっくりと耳に触れた。
包帯に覆われているのがバレた。
一瞬止まった身剣の指が、するすると頬に滑ってくる。包帯の感触を確認しているようだった。

『相澤先生。顔、包帯だらけです。目…しか、出てない。ミイラみたいになってますね?それはいただけない。怖いですよ。相澤先生はただでさえ生気がないのに。夜の病院をうろついてみてください。きっと、看護師さんたちが次々に。悲鳴をあげて、泡を吹きます。倒れて、大騒ぎ!ミイラマンだ!って。あっという間に怪談ですよ』

身剣の台詞は、いつもより大人しかった。今日はそこまで狂っていない。勢いもない。マトモな方だ。と感じるのは。
俺がおかしいのか。感覚が麻痺してるのかもしれない。
椅子に座って前のめりでいるのは、腰にくる。疲れた。
身剣は手を離す気は今の所ないらしい。
両手でしっかりと。俺の頬を挟んでいる。繊細な触り方だった。気を使っているのがわかる。
そろそろと、指で包帯をなぞるように。身剣の指は首に降りていく。

『こりゃひどい。思っていたよりも。包帯まみれじゃないですか!グルグル巻きですね。腕なんか。ギブスですか、これ?両腕。もしかして、しばらく使えないんですか?ギブス生活?ミイラ生活?やだなあ。不自由だ。相澤先生。こんな大怪我して、いいんですか?こんなところにいて。わたしのところになんか来ずに、寝てらした方がいいですよ!ベタベタ触って。申し訳ないですが。触ってわかることは、把握しました!相澤先生は、中々の。思ったより、重症!治療に専念してください。自分の病室に帰った方がいいのでは?痛いですよね。たくさん怪我して。どれだけ痛かったか。想像もできません』

腕を一通り撫でてから、身剣の手は離れた。
肩から肘。肘から手首。手首から肘。肘から肩。そうして何度か往復しながら、俺の怪我の具合を見ていたようだ。
身剣がベッドに座り直すのを眺める。俺もパイプ椅子に座り直した。

「身剣。死んだら殺します。は、ねえだろ」

焦点の合わない瞳が、ゆらゆらしている。揺れている。
俺がどこにいるかわからないのか。自分がどこにいるかわからないのか。
不安げだった。起きてからずっと。何かを言いたそうにしている。
身剣はゆっくりと、表情を失くした。今の今まで浮かべていた笑みを消した。
穴のような目が伏せられる。

『懺悔があります。聞いてください。言わないといけません、相澤先生に。悔やんでいます。いいですか。言っても。懺悔。聞いてくださいませ』
「…何だ?」
『約束を、破りました。相澤先生との、約束です。殺そうとしました。わたし。脳無っていう、敵を。殺そうと思いました。殺したかったです。でも、できなかった。右腕しか。斬れませんでした』

不自由な話し方をしている。未だに、混乱しているのかもしれない。
それはそうだろう。普通の高校生は、敵と会することはない。戦うことも、まずない。元より、こいつは普通ではないが。
身剣は、無表情だ。微笑を取り去ったそこに、何もない。
これが素なのだろう。本来の性質と言える。見るのは三度目だが、慣れない。
少し、動揺した。かける言葉は無かった。
引っかかりのない言動。ミッドナイトやリカバリーガールには、隠した本心。
それを俺に、見せるのは。構わないのか。それを、良しとするのか。
普段。頑なに隠す本質を、曝け出している。
前と違うのは、自らそうしたことだ。以前は咄嗟のことだった。今回。俺は何も、言っていない。自主性を伺える。
他には隠し、俺には見せる。その理由は何だ。気を許したのか。懐いたのか。いや、違うだろう。
取り繕うことができないのかもしれない。身剣は、追い詰められているようだ。
思いの外。動揺する。身剣の本質を垣間見ると、よくわからない気分になる。
同情とは、違う。不快でもない。喜ばしくも、ない。胸を打たれる。それが一番近い。
敵を、殺そうとした。殺したかった。
「人を殺してはいけない。人の急所を斬らない」という、倫理観さえあれば誰でも知っている前提を、身剣に課した。約束とは違う。
それを破ったらしい。
悔いていると言った。身剣は、顔を伏せている。

「違う。おまえは、俺を救けようとした。殺すことが目的だった、訳じゃない」

救けることが目的だった。聞かなくてもわかる。敵を前にして、身剣の片手と視線は俺に向いていた。目的は、救出だった。敵じゃない。
殺さないという、課題を破棄した。とは、ならない。それには値しない。
身剣は、顔を上げた。徐に。ゆっくりとしている。
目は。相変わらず、見えていない。焦点が定まらずに、ゆらゆらと探している。暗い中に。俺を。

『目的は、そうでした。相澤先生を救けたかった。おこがましいです。でも、死んでほしくなかった。ので。つい、足が勝手に。言い訳です。けど、救けられませんでした。相澤先生は、眼に。後遺症が、残るかもしれないって。わたしは、弱かった。護れませんでした。思い上がりです。できると、思ったわけじゃないです。勝てないこと、知っていました。馬鹿でした。弱いのに、わたしは。叱ってください。馬鹿なことしやがって、とか。余計なお世話だった、とか』
「おまえは、弱くはない。俺の怪我も、おまえのせいじゃない。叱るつもりもない。馬鹿なことをした。それは、否定しねえ。だが、身剣が来なかったら。俺は、死んでたかもな」

甘いと、言われるのかもしれない。誰かに。俺はこいつを、甘やかしているのかもしれない。
身剣は、唇を結んだ。わずかに眉間に皺を寄せて、小さく唇を噛む。
血の気のない下唇が、歯に圧迫されて赤らんだ。血の色だ。
背徳感を強く抱いた。女子生徒の唇を凝視。それは、褒められたもんじゃない。不合理に尽きる。
身剣は俺を救けようとした。敵の懐に入り、俺を掴んだ。それは、結果的には叶わなかったが。時間を稼ぐことはできた。数秒か、数十秒であっても。敵の力が俺から離れたことに、変わりない。あの短い時間が無ければ。俺は、死んだかもしれない。
甘いのだろうか。誰に何を言われようが、どうだっていいが。

「おまえのおかげで、生きてると言ってもいい。ありがとうな、身剣」

自分で言って、鳥肌がたった。我ながら気持ち悪いな。歯が浮くような気分だ。全く、俺らしくない台詞だった。
本心ではある。が。言わなくても、よかった。他に言うべきことがある。身剣の言うように、教師として。叱るべき事も多くある。敵の腕を吹っ飛ばした。それも咎めなければならない。
だが。身剣は、本来の性質を隠すのをやめた。恐らく一時的なものだろうが。精神的な不安を多く抱えている。押し潰されそうになっている。
それを見て、思うことは少なくない。今の身剣に、厳しく当たることのできる人間も。多くはないだろう。
俺はただ、本心を口にしただけだ。優しさとかではない。決して。そうではない。

身剣を見て、一瞬息が止まる。ぎょっとした。直前に視線を外したことを後悔した。
身剣の目に、涙が溜まっていた。並々と。次にまばたきをすれば。もう、溢れる。
泣けるのか、と思った。人として当然であるその行為に、酷く驚いた。
身剣が泣いている。それを初めて見て、狼狽した。自分でもよくわからないが。肺を圧迫されているような感覚だった。意外だったのかもしれない。普段、感情を隠している身剣が、泣くというのは。
灰色の瞳が揺らいだ。つっと、頬に涙が伝い落ちる。大粒が青白いそこを濡らす。
言葉がない。かける言葉は、一向に思いつかない。
身剣は、ぼろぼろと涙を流している。止めどなく。その様子が、平生とは全く異なっていて、こっちの息も詰まった。
情緒に溢れている。身剣は、ゆっくりと膝を立てた。病院服に覆われたそれを抱く。自分の膝に顔を押し付けて、うずくまった。
泣き顔を隠したのだと分かる。半袖から覗く白い腕。膝を抱えるそれには、力が入っている。
静かだった。嗚咽さえ漏らさずに。静かに泣いている。
時折、苦しげに息を吐く。身剣の肩に触れようと思った。顔を上げさせて、涙を拭ってやろうと。しかし、俺の腕は動かない。再び、失念していた。
しかも、危うい思考だった。何を考えてるんだ。アホか。若干自己嫌悪した。女子生徒の泣き顔に触れる。意味がわからない程に不合理だ。
身剣の肩が震える。小さく。不自由そうな息遣いが聞こえる。泣くのが下手だ。

『相澤、先生。わたしは』

泣き声だった。小さく呟かれたそれを、聞き逃さないよう耳を傾ける。鼻声だ。何と言おうか。情に訴えかける、と言おう。それは、感情を揺さぶる。

『わたしは、ヒーローになれない』

ずっと、何か言おうとしていた。身剣は、目を覚ましてから。俺に何かを、伝えようと。
それだったのだろう。分かっていた。
身剣が今。何を考え、何を悲観するか。何に絶望するのか。それを隠したがっていたことも。
俺は。穏やかではなかった。わずかに緊張感を抱く。
目の前の少女に。してやれることは、何もない。かける言葉さえ。

『目が、見えません。何も。真っ暗で、真っ黒です。今、いる場所が。明るいのかも、暗いのかも。わたしには、わからない。誰も見えません。相澤先生が、どこにいるのかも。そこに、いるのかさえ。もう。ダメですよね?わたしは。見えないと、戦えないんです』

身剣の声は途切れる。泣いているせいで、途切れ途切れだった。
苦しそうだ。息の仕方がわからないらしい。背中でも、さすってやりたいが。俺の腕は、役に立たない。

『見えないと、何も。何も、できなくなりました。ひとりで、歩くこともできない。このままなら。見えないと、護れません。何も。ヒーローに、なれません。このままじゃ。わたしは、もう。そんなのは、嫌です。ヒーローに、なりたいんです。無理ですよね?盲目では、ヒーローになれない。わたしは。ヒーローに、なれませんよね。もう、ダメだ』

意図は知らない。ただ、今の声は。
死にたい、くらいの重みを感じた。死んでしまいたい。そう聞こえた。
何故こいつは、こんなにも。ヒーローに固執する。戦うことに。護ることに、執着している。
何がそうさせるのか。知ることは、叶わないんだろう。

「可能性は、ゼロじゃない。視力が戻る、その可能性は。十分にある」
『今日の、相澤先生は。変ですよ。優しすぎる。でも。それは、いらないです。わたしは。気休めは、欲しくないです』
「俺は。気休めは言わねえ。おまえこそ、今日はどうした?やけに、弱気だな。怖いか。見えないのは」

膝を抱く、身剣の手に力が入る。手の甲には血管が透けていた。病人のようだと感じる。色が白い。青白い。白い部屋に、いるからかもしれない。

『相澤先生。会ったら、言おうと思ってたことがあります。昨日、相澤先生は。飛び出して行ったじゃないですか。敵が現れて。わたしたちを置いて。階段の下に。相澤先生は、イレイザーヘッドでした。教師というより。ヒーローでした。元々、ヒーローなのは知ってます。でも、イレイザーヘッドを見たのは。初めてでした。先生をしてる相澤先生とは、ちょっと違います。かっこよかった。生徒を、護ったんですよね。わたしたちを、護ってくれた。すごく、かっこよかったです。本当に。ありがとうございました。護ってくれて、ありがとうございます。やっぱり、ヒーローはかっこいい。相澤先生。わたしも、相澤先生みたいになりたいです』

こいつは。少し、ずるいのではないか。平生は、支離滅裂で狂っているくせに。本質で他人の胸を打つとは。勘弁してほしい。不可解な気分になる。こいつはやはり、訳が分からない人間だ。俺の手には負えない。だというのに。
ため息が出る。意図的に抑え込んでいたが。脱力した。
ヒーローの時はかっこいいだと。普段はかっこ悪いのか。そんなもんどうでもいいが。
椅子の背もたれに背中を預ける。パイプ椅子は、軋んだ音を立てた。
身剣は、顔を上げない。うずくまったままだ。小さくなって、泣いている。

「もう泣くな。おまえ、昨日から飯食ってねえだろ」

小さな背中が震える。嫌に頼りない。病院服は、こいつに似合わない。
身剣は頷く。丸い頭が動いたのを見た。泣き止んでは、いない。
後悔しているのかもしれない。今。俺に素を明かしたことに。

『相澤先生は、わたしのこと。見限りますか? ヒーローになれない生徒は、いりませんよね。ヒーロー科には。A組には、もう。わたしは、不要ですよね。あ。いえ、違います。責めてるわけじゃ、ないですよ。相澤先生を、責めてはいません。なんだか。責めてるみたいな、言い方になりました。すみませんでした』

何も。答えることはできない。
よくわかっている、身剣は。今、自身の処遇が定まらないことも。視力が戻らなければ。少なくとも、ヒーロー科にはいられないことも。雄英に籍を置くことさえ危ういことも。
身剣は宙ぶらりんだ。不安定に揺らいでいる。雄英では、それが測られている。その全ては。身剣の視力を奪った敵が、握っている。
パイプ椅子から立ち上がった。ガタンと硬質な音がする。身剣は、わずかに肩を震わせた。

「病院食、文句言わずに食ったら。好きな菓子をやる。食いてえんだろ。マイクが後で来るから、買って来るように頼んでやる。おまえの好きなだけ、買ってやるから。泣くのはよせ」

苦しげに、息が吐かれる。今日の身剣は静かすぎる。調子が狂うのでやめて欲しい。
菓子で釣るというのは。本意ではない。身剣もそこまでガキじゃない。さっきこいつが『チョコが食べたい』と言っていたのを思い出しただけだ。他に台詞が浮かばなかった。
看護師を呼んで来なければならない。こいつはナースコールすら押せない。俺も押せないが。
確保してもらっている昼食を運んできてもらおう。ついでに食わせてやってもらわなければならない。
俺はさっき食わされたところだ。両腕が使えないからと、図体のでかい男の看護師に食わされた。面白い気分ではなかった。
しかし致し方ない。俺は怪我をさっさと治さねばならない。しばらくしたら体育祭もある。急を要する。リカバリーガールの治療には体力が必要不可欠。よって、マトモな食事を摂るようにと強く言われた。ゼリー飲料はしばらく禁止とまで。煩わしい。
二週間と少し後に催される雄英体育祭。それに身剣が出られるのかは。今はまだ、わからない。

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第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
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