10

『店長、店長』


そんな声に意識が浮上する。
微睡みのなか、非日常感を感じ目を開けると窓から差し込む朝日に眩む。
いつも閉めているはずのカーテンが何故か開いている。
しかも自分はソファで寝ていたようで、首が少し痛む。
何事だと目を擦ると、睫毛が入ったのか痛み出した。
しぱしぱと何度か瞬きをすると、視界に暗めの茶色をした長い髪の毛が入る。
軽くウェーブを描くそれに手を伸ばす。


『店長、朝ですよ』


聞こえた声に、はっとして空中で手を止める。
俺を覗き込んできた彼女の顔を見て、やっと自分のいる状況に気付いた。
昨日、ベッドを譲ると言う俺に、悪いからと遠慮してなかなか頷かなかった彼女をどうにか説得して、その寝顔を見てからソファで寝たのだ。


「おはようさん」

『おはようございます。もう10時ですよ』

「ああ、病院行くんじゃった」

『…ごめんなさい』


また。
彼女はすぐに謝る。
どうせ、自分のせいで俺の睡眠時間が削られて…とか考えているんだろう。
ため息を吐いて身体を起こす。


「謝らんでええんじゃ。今日病院行くのは俺が決めたんじゃから」

『でも…』

「でも、やなか。何でもかんでも自分のせいだと思うんは悪い癖じゃ」

『……………』

「…全く、変な癖ばっかり付けられてもうて、治さんといかんのう」

『…う……』


額を軽く小突くと、みょうじは困った顔をして呻いた。
謝るのも、でも、もダメだと俺が言ったから何も言えなくて困ってるんだろう。
その様子が可愛くて笑うと、彼女は少し拗ねたように眉を寄せ、唇を突き出した。
柔らかい髪の毛に触れ頭を撫でる。


「ええ子じゃなあ」

『こ、子供扱いしないでください』

「おお、怒った」

『な、も、もう…!』

「ふ…悪かったナリ、そんなにむくれなさんな」


笑われたのが嫌だったのか、彼女はもう知らないと言う顔をして立ち上がり、キッチンへ引っ込んでしまった。
微笑みながら、俺も立ち上がる。
初めて見た拗ねた顔やむくれた顔を思い出しながら、顔を洗いに向かった。


『朝ごはん、食べますか?』

「作ってくれたんか?」

『はい』

「……………」

『あ、もしかして、朝食べない派でしたか?』

「…いや、食う」


目覚めたら朝食が用意されているなんて、何年振りだろう。
高校生ぶりだろうか。
少し感動しながらソファに腰掛けると、不安そうに俺を見上げていた彼女がぱっと嬉しそうな表情を浮かべキッチンへ駆けていく。
可愛らしい。
素直にそう思えるのは、彼女が素直でいじらしいからだろう。
今まで付き合ってきた女や寄ってきた女は、みんな裏があった。
最初は控えめな振りをして近付いてきて媚を売るが、大抵、俺の容姿が目的で、ただ他の女に見せびらかしたいだけだった。
まあ、そんな演技や駆け引きがあまりにも見え透いていて、同情で付き合ってやったりもしたが、どれも長続きしなかった。
などと昔のことを思い出していると、みょうじが朝食を運んで来てテーブルに並べる。
白米に味噌汁、卵焼きに焼き鮭。
それにほうれん草のおひたし。
俺の好みが分からないからか、少し不安そうだ。


「俺が朝は米派だって、よくわかったのう」

『…ほんとですか?』

「あぁ。まあいつもはコンビニのおにぎりじゃが」

『よかったです』


嬉しそうに笑う彼女から、しばらく目が離せなかった。
こんなに綺麗だっただろうか。
じっと見つめる俺に、彼女が不思議そうな表情を浮かべたのに気付いて慌てて目を逸らす。
とりあえずテレビを付けた。
隣、といってもラグの上に座っている彼女が両手を合わせていただきますと言ったのを見て、俺も箸を取った。


「どうしてもっと早く来なかったんですか?」


女医はそう言って顔をしかめた。
昼過ぎに予約した病院に訪れると、彼女は分かりやすく顔を曇らせた。
まあ当然だとは思う。
恋人から暴力を受けできた痣や傷を他人に見せることは躊躇するだろうし、他人に、しかも医者に、あなたはDVを受けていると認められるのだ。
医者にかかれば警察に届けないわけにもいかなくなる。
前に入院したときはあの男が何か上手く誤魔化したそうだが、今回はそうもいかない。
躊躇う彼女を見下ろし、あくまでも決めるのは自分自身だからと何も言わずにいれば、彼女はふと顔を上げ、自分の意思で病院に入ったのだ。
そして、診察を終えた彼女に付き添い診察室へ入れば、顔をしかめる女医と目が合った。


「身体中、痣だらけです。それに煙草による火傷も多数、刃物で切り付けられた傷も」

『………………』

「あなた、みょうじさんの働いてるお店の店長さんだそうですね?」

「はい」

「彼女が暴力を受けていると、いつ気付きましたか?」


ちらりと彼女を見ると、その目は不安そうに女医を見つめていた。
彼女が洗い物をしていたときのことを思い出す。


「彼女が働き始めてから、割とすぐでした。腕に痣や根性焼きを見つけて。彼女が慌てて誤魔化すので、なんとなく、暴力を受けてるんだなあと」

「そうですか…今は、あなたが保護してらっしゃるんですよね」

「はい」


女医は真剣な顔で彼女に向き合うと、相変わらず長袖のシャツに隠れている腕に触れた。
そのまま両手をそっと握ると、優しい声を出す。


「辛いとは思います。だけど大切なことです」

『…はい』

「彼と交際を始めたのはいつ頃からですか?」

『…三年と、半年、前、くらいです』

「…では、彼があなたに暴力を振るい始めたのは?」

『……い、一年半…か、二年くらい…前から、です』

「初めて殴られた時のきっかけを覚えてますか?」

『……いえ…でも、多分…ほんの、ささいなことだったと思います』


今にも泣きそうな顔のまま、彼女は答えた。
小さな唇を震えさせながら、女医の手をぎゅっと握り返して。
それからいくつか女医がする質問に彼女は必死に答え、俺もわかることは説明した。
あの男が店にやってきた時のことなどを。
女医は警察に連絡しましょうと言い、診断書を書いてくれた。
彼女はそれを見つめ、目を潤ませる。


「では、くれぐれも彼に近付かないようにしてください」

『…はい』

「仁王さん、頼みますね。では、また」


次の定休日、女医から貰った診断書を持って警察に行くと決めた。
彼女はしっかりと頷き、目に溜めた涙を零さないように袖で拭っていた。
また、怪我の様子を見せに来なければならない。
彼女は、女医とかなり打ち解けたようで、信頼できる立派な人だと、帰りの車の中で褒めちぎっていた。
確かに、親身になってくれるいい医者だ。
きっとこの先も力になってくれるだろう。
スーパーで買い物をしてから帰宅すると、みょうじはパタパタとキッチンに向かい夕飯の支度を始めた。
俺は彼女の診断書をテレビ台の引き出しにしまい、ソファに腰掛ける。
ぼんやりテレビを見ながらキッチンの方へ耳を傾けると、彼女の鼻歌が聞こえ、口角を上げた。

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