朝、いつも10分は早めに来るみょうじが、遅刻ギリギリに慌てて出勤した。
遅れてすみませんと息を切らして言った彼女の頬は、真っ赤に腫れている。


「それ、頬どうしたんじゃ」

『あ…いや、ちょっと…転んじゃって』

「……手当てしちゃるから、こっち来んしゃい」


目を伏せて嘘をついた彼女をスタッフルームへ連れて行く。
黙って付いて来たその顔は曇っている。
まるで自分を責めているみたいに。
彼女の白い肌は、薄く化粧はされているが腫れた部分には何も塗っていないようだった。
保冷剤をタオルで包んで当ててやると、みょうじは急に目を潤ませる。
気づかれていないとでも思っているのか、薄く笑って俺に礼を言い、保冷剤に手を当てた。
その時少し触れた指に、何故か心臓が跳ねる。
なんでもないことだってのに、この女が可哀想だから同情でもしてるんだろうか、俺は。
潤んだ目や伏せられたまつ毛、短く切りそろえられた小さな爪にまで、場違いな感情が芽生えていることに気付く。
じっと見過ぎたのか、不思議そうな顔でみょうじが俺を見上げた。


「…長袖で、暑くないんか」

『…大丈夫です』

「……ほんま、みょうじさんは嘘がヘタじゃなぁ…」

『え……?』


小さく開いた唇が妙にエロく見えた。
小さな顎を指で撫でると、彼女の肩が震える。
抵抗しないのをいいことに、俺は彼女の顔にゆっくり顔を近付けた。
微かに震える肩を抱いて唇を重ねようとした時、丁度、入り口のドアが開く音がした。


「……残念、客じゃ」

『………………』

「俺が接客しとるから、みょうじさんはグラス出しといてもらえるか」

『…はい』


ホールに出ると、柄の悪い男が二人店内を見渡していた。
片方の男が言うには、オーナーの友達の知り合いらしい。
タバコを吸うらしいから隅の席へ通すと、キッチンから食器の割れる音がした。
驚いて振り返る。
しかしホールからキッチンの中は見えない。
客に断り厨房に入ると、そこにはうずくまるみょうじと、割れたグラス。
床に散らばったガラスの破片を拾う彼女の手は震えていた。


「おい、大丈夫か?」

『店長…どうしよう、わたし……』

「グラスはええから、拾うな。怪我はないか?」

『て、店長…!』


グラスを割ったくらいでこんなに動揺するのはおかしいとは思ったが、どうやら他のことで取り乱しているようだった。
目線を合わすためしゃがみこんだ俺の両腕を掴み、涙目で必死に俺を見つめている彼女は震えている。
とにかく落ち着かせようと、細い肩を掴んだ。


「どうしたんじゃ、少し落ち着け」

『か、彼、彼が…どうしよう、見つかったら…』

「…あの客、彼氏なんか?」


ついに零れた涙が彼女の必死さを物語っている。
頷いたみょうじはどうしようどうしようと繰り返し、完全にパニック状態だ。
恐らく、男と二人で働いてるなんて秘密にしているんだろう。
こいつが一緒に暮らしているという彼氏から暴力を受けていることは気付いていたが、まさか職場に来るとは運が悪すぎる。
きっと、見つかればみょうじは殴られるだろう。
見つからないようにスタッフルームに引っ込めようと思った時だった。
彼女が急に動きを止める。
酷く怯えた目で見上げている先を見れば、席に着いているはずの男の一人がカウンター越しに俺たちを見下ろしていた。


「………は…?」

『あ………』

「…なまえ?……お前、何してんの」

『……ゆ、うと…』

「………何してんのか、聞いてんだよ」

『ち、違うの、これは…違うの、悠斗』

「違うって何だよ。何、お前が働いてるカフェってここ?あ?おい、なまえ」

『…っ、』

「お前、言ったよな?男いねえって。女と一緒に働いてるって」

『…………………』

「……何お前、嘘ついてんだよ」


みょうじの身体が震えている。
立ち上がることもできずに、俺に肩を支えられたまま、悠斗という男に怯えている。
そしてその男も、怒りに震えていた。
まずい、そう思った。
ここは厨房で、もちろん包丁やハサミなどの凶器になり得る物で溢れている。
まずい。
とりあえずみょうじを隠すように立ち上がり、男の前に立つ。


「は?何だよお前」

「店長ですが」

「関係ねえだろ。引っ込んでろよ」

「彼女はうちのスタッフで、ここはうちの店なんで、揉め事は困ります」

「…いいからそいつこっちに寄越せよ」

「…そいつはお断りじゃ」

「あ!?」

「おい、悠斗。お前どうしたんだよさっきから」


もう一人の男が止めに入ると、そいつは人前だと思い出したのか大人しくなった。
だが、やはり目はいってしまっている。


「すみません、こいつ何か取り乱しちまって」

「ま、殴って言うこと聞かせとる女がこんなとこで男と二人でおったら、キレるんも仕方ないじゃろうな」

「…殴ってって、どういうことっすか」

「おい、てめえさっきから何なんだよ!さっさとなまえこっちに寄越せ!」

「おい、悠斗!」


キレたのか、男は無理やり厨房に入って来ようとする。
後ろでみょうじが床にうずくまって震えているのを確認して、その頭を撫でた。
もう一人にどうにか取り押さえられているそいつに向き直り、ポケットに入れていたスマホを取り出した。


「お前さんがこいつに暴力奮っとるんは知っとる」

「あ!?」

「こいつは必死に隠そうとしとったがのう、バレバレじゃ。のう、知っとるか?そういうん、何て言うか」

「黙れ!お前に何の関係があんだよ!」

「知らんなら教えてやるが、そういうんはのう、DVっちゅーんじゃ。あぁ、恋人同士やとデートDVやったか」

「黙れっつってんだろうが!」

「…悠斗、お前、マジなのか?」


男を押さえ込んでいるもう一人が呟く。
その顔はどう見てもドン引いているが、構わずそいつらにスマホの画面を見せる。
狂ったように血走った目で俺を睨む男に呟いた。


「今から警察呼ぶか。あんた、そいつちゃんと捕まえとくんじゃよ」


警察、その単語を聞いた途端、男はぐっと口を閉じた。
自分のしていることは理解していたんだろう、途端に大人しくなる。
スマホをいじり通報するフリをすれば、まだ戸惑っているもう一人の男を連れてみょうじの男は食事もせずに去って行った。

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