じわじわ、蝉が鳴いている。
じわじわ、汗が滲んでいく。
どろどろに溶けてしまうと思った。
指先から、ゆっくり、夏に殺される。


「なまえ」

消太が呼んでいる。
フローリングに倒れこんだまま、顔を上げた。
消太はわたしの頭の近くに立っている。
足が見える。

『おかえり』
「ただいま」

恋人は、今帰ってきた。
日本最高峰の高校の教師は大変らしい。
春には下手したら死ぬ大怪我をした。
あの時のことをわたしはまだ許してない。
ヒーローなんて反対だった。
命を賭してまで、わたし以外を守らないでほしい。
先日消太が顔面と両腕に大怪我を負って2日だけ入院した時に、病室で目を覚ました消太にそれを言ったら、プロポーズされた。
「相澤消太として守るのはおまえだけだ」
らしい。イレイザーヘッドとして守るのは、わたしだけじゃない。
相澤先生として守るのは、わたしじゃなくて生徒。
そうじゃなくて、わたしが言いたいのはそういうことではなかったけど、「結婚してくれ」と包帯でグルグル巻きの悲惨な姿で言った消太に、わたしは頷いた。
消太と一緒になりたかった。
愛してるから、付き合ったし結婚する。わたしたちはもうすぐ結婚する。
でも不満だ。
わたしは、ずっと不満を抱いている。それを消太も知っている。
消太のことを愛しすぎているのだと思う、わたしは。
他の人に少しでも取られるのが耐えられない。
例えば消太が受け持ってる生徒とか、消太が救ける一般市民とか。
その人わたしのなんだけど。って、言いたい。
別に、取られてるわけじゃないのは知っている。言葉の綾というやつだ。
消太は浮気はしない。するはずがない。過信とかではなくて、本当にしない。消太にとってもそれは不合理だからだ。
取られるっていうのは、そういう意味じゃない。
わたしが嫌なのは、消太がわたし以外を救けることで、ヒーローとして教師として、自分でもわたしでもない誰かのために命を賭すことだ。
そういう仕事をしている、わたしの恋人は。
いや、もうすぐ結婚するわけだし、婚約者と言っていいのか。

「床で寝んな」
『寝てないよ』
「何してんだ」
『涼んでる』
「暑いのか」
『暑い』
「溶けそうか?」
『溶けそう』

消太はキッチンに向かった。
冷蔵庫を開ける音がする。
わたしはいわゆる、雪女みたいな個性だ。雪女ほど強くないけど。
口から冷気が出る。体は全身氷みたいに冷たくなる。それだけ。
個性を使わなかったら異常に暑がりなだけのただの人間だ。
当然、暑いからって溶けるわけがない。
個性を使ったって使ってなくたって、わたしは溶けない。
どんなに暑くても。
でも、異常な暑がりだ。暑がりとかいうレベルじゃない。夏はマトモに動けなくなる。冷房ガンガン効かせればどうにかなるけど、消太が寒くなってかわいそうなので我慢したい。
が、消太が勝手につける。
逆に冬には強い。真冬でも余裕でタンクトップとホットパンツで過ごす。
今は、全裸。全裸で、リビングの床にうつ伏せに倒れている。
もう一度言うけど、わたしは溶けない。
何があっても。
なのに、消太はそれを信じない。
信じられないらしい。わたしが汗をかくと、溶けていると思うらしい。
「そのうち溶けて消えそうで、怖いんだよ」
去年の夏に、消太が言っていた。わたしを水風呂に浸けながら。
今年も夏が来た。わたしはうだる。

「ほら、冷えろ」
『あー、気持ちいい』

ぺたり。全裸の背中に、冷たいものが押し付けられた。
多分保冷剤。前に消太が買ってきた特大サイズの、保冷剤。
それを、消太は冷凍庫から取ってきて、わたしの背中に乗せた。
気持ちいい。
ピッ、リモコンの音がする。
顔を上げたら、消太が冷房をつけていた。
馬鹿みたいに温度を下げている。

『ちょっと』
「ん?」
『揉まないで』
「ケツ丸出しにしてんのが悪い」

ぐでーんと全裸でリビングの床に寝ているわたしのお尻を、消太が片手で揉んでくる。
わたしの隣、床に座って冷房のリモコンをソファに投げ捨てた消太の手は、熱い。
夏なのに黒づくめの長袖長ズボン着てマフラー巻いてるから…馬鹿だ。

『さっきマイクから電話あった』
「さっきっていつだ」
『消太が帰ってくる二時間前』
「…仕事中じゃねえか」
『ヒマだったらしい。45分も喋り倒された』
「あいつ…仕事サボって人の女に長電話とはな。明日締め上げるしかない」
『そうして』
「おまえもだよ。そんなんシカトして切れ」
『消太の友達で同僚なのに』
「他の男と話すの楽しいか?」
『あんまり』

さっきの電話でマイクが言っていた。
「消太がもうすぐ結婚するってA組の生徒にバラしたら、消太のヤツ、生徒に”結婚式呼んでください”って詰め寄られてた」と。
消太とわたしのウエディングについてマイクが言いふらすのは意味がわからない。
結婚式する予定もない。
多分、消太は「しない。不合理」と言う。
もしするとしても消太の生徒なんか呼ばない。会ったことはないけど話にはよく聞く「1年A組」の生徒のこと、嫌いだ。
わたしの消太の「相澤先生」の部分を取るからだ。
全部わたしのにしたい。
相澤消太も相澤先生もイレイザーヘッドも、全部わたしだけのだったらいいのに。
相澤消太は、既にわたしだけの相澤消太だけど。

「結婚式呼べって言われたよ。生徒に。余興すんだと、全員で」
『結婚式するの?』
「するだろ」
『したいの?』
「おまえがしたいだろ」
『別に』
「したくねえのか。変な奴だな」
『変とか、消太にだけは言われたくない』
「おまえまだ25なのに、しなくていいのか」
『歳の問題?』
「若い女はしたがるもんだろ」
『消くんはしたくないでしょ』
「してもいいぞ」
『無駄とか不合理とか言うと思ってた』
「そう思ってるけどな」
『なのにするの』
「おまえがしたいなら、してやる。結婚式でも披露宴でも」
『しなくていいよ』
「俺に気なんか使わなくていい」
『違う。式なんかしなくていいから、ヒーローやめて』

フローリングに頬をくっつけて言った。
何度目だろう。いや、初めてだ。
何度もヒーローについて咎めてきたけど、「やめて」とはっきり言うのは、これが初めてだった。
涙が出てくる。
左頬を下にしているせいで、右目から流れた涙が、鼻の付け根を乗り越えて左目に入った。

「無理だ」

それは。と、消太が言う。
そう言われると思ってた。
黙って泣いていたら、消太はわたしのお尻から手を離して、添い寝するみたいに隣に寝転んだ。
ごろんと、フローリングに。
消太の腕が背中に回ってくる。
体を少し起こして、うつ伏せをやめた。左側を下にして、横向きに寝転ぶ。
すぐ目の前にある消太の首。
ボサボサの髪の毛に鼻を埋める。
消太の肩口に顔を押し付けて、抱きついた。
綺麗で無駄のない筋肉のついた消太の体。わたしのだ。
ぎゅっと抱きつく。消太も、わたしの頭を大きな手で抱き寄せてくれた。

「ごめんな」

それは、いつか、わたしを置いて死んでしまうから謝っているのだろうか。
いつ死ぬかわからない仕事をしているからだろうか。
それをやめる気がないからだろうか。
わたしを、そんな人の妻にするからだろうか。

『許さない』
「ごめんな、なまえ」
『一生、許さない。死んでも、許さない』
「許さなくていいから、傍にいてくれ」
『いつまで?』
「俺が死ぬまで」

身勝手で酷い。
わたしは消太が死ぬまで傍にいると約束するのに、消太はしてくれない。
わたしが死ぬまでとは言ってくれない。
絶対に許さない。
何があっても許さない。
さっきわたしの背中から落ちた保冷剤は、フローリングを傷つけただろうか。

「死ぬまで、傍にいろ」
『消太が死ぬまで、一緒にいる』

ずっと、とは言ってくれない。
それが欲しいのに。
消太の命がわたしだけのものじゃない。
それが、許せない。
そういえば、あんなにうるさかった蝉の鳴き声が消えていた。
死んだのかもしれない。

『消くん』
「ん…?」
『消太が死んだら、わたしも死んでいい?』
「ふざけんな」

暑苦しい服を着ている消太のせいで暑い。
冷房はきんきんに効いているのに、溶けそうなほど暑い。
消太の手のひらが、わたしの背中を撫でた。乾いた手のひらは、熱い。

『でも、消太がいなくなったら』
「生きていけよ」
『冬ならね。夏が来たら、死ぬよ』
「馬鹿か」
『だって、冷やしてくれる人がいない』
「見つけろ。できれば、女な」
『男は?』
「ダメだ」
『見つからないよ、絶対』

こんな話をするのは初めてだった。
涙が止まらないので、消太の髪と服が濡れる。

『消太がいなくなったら、誰も冷やしてくれないから。わたしは溶けて、消えるんだよ』

消太が、わたしの頭に顔を寄せる。
髪の毛に鼻を埋められた。
暑い。
体の奥から暑くて、心臓が溶けているみたいだった。
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