「センパイ」

何、と返した。
財前のわたしを呼ぶ声は楽しげで、それはひどくわたしの神経を逆なでする。
短い返事が気に入らなかったのだろうか、財前は急に不機嫌そうな顔をする。
後ろから腕を掴まれて、嫌いな後輩を見上げた。

「酷いっすわ、先輩」
『………』
「シカトは無いんとちゃいますか」
『だから。何?』
「いつ別れるんスか、アレと」

財前が窓の外を指差すので、仕方なく目をやる。
窓の外、中庭にはわたしの恋人の姿があった。
知らない女と楽しそうにじゃれ合っている、わたしの彼氏のことが嫌いだそうだ。
わたしの真後ろに立つ後輩は。
アレとは、先輩に向かって随分な呼び方である。

『さあ、いつだろうね』
「誰やねん、あの女」
『知らないけど』
「自分の彼氏と知らん女がイチャついとるの見て、どないな気分です?今」

わたしの背中に財前の体が、ぴたりと密着した。
掴まれたままの腕は熱を上げる。
頭に顎を乗せられて、まるで後ろから抱きしめられているような体勢に、吐き気がする。
くっついている、背中が熱い。

『おかげさまで、いい気分だよ。すごくね』
「あ、そ」

掴まれたままの腕を、ぐっと強く握られた。
財前の大きな手は、握り潰すみたいに強く、わたしの腕を握り締める。
気に入らなかったんだろう、嫌味が。
わたしの頭に乗せられていた財前の顎が、ふと離れる。
しかしすぐに、ムカつく後輩の形のいい顎は、わたしの肩口に乗せられた。
頬に財前の黒髪が当たる。
ワックスで固められた短髪。顔周りだけが長い後輩の髪型が、ずっと嫌いだった。
わたしの頬に、財前は自分の頬をすり寄せてくる。
窓の下には、知らない女とイチャつく彼氏の姿。
その上で、わたしは嫌いな後輩に抱きしめられている。
財前の高い鼻が、わたしの耳たぶを掠める。

「そんで?アレ、いつ捨てるん」
『敬語、どこやったの』
「はぐらかすん、好きよな。なまえさん、意地悪っすわ」

意地悪?どっちが。
財前は耳元で笑うと、わたしの首筋に唇を押し当てた。
くすぐったさに、少しみじろぐ。
わたしの腕を掴む財前の手は、また力を強くする。
財前の、これまでわたしに触れることはなかった方の手が、抱き寄せるようにお腹に回された。
カーディガンの上から、ぐっと強く引き寄せられる。

『捨てられるのは、わたしの方』
「………」
『いつになったら、捨ててくれるんだろうね』

中庭で他の女と楽しげにじゃれている彼に、わたしへの思いはもう無い。
それでも未だに恋人という形を保っているのは、お互いに別れ話をしないからだ。
わたしは待っている。
「もう好きじゃない。他に好きな奴がいる。別れよう」みたいな台詞を。

「俺、そないに気ぃ長くないんすわ」
『………』
「なあ。なまえ」

歪んだ関係の終わりを待てないのは、部外者のくせに、この後輩であるらしい。
財前は急かす。
会う度にわたしを急かしては、もうほとんど嫌がらせのようなスキンシップを図ってくる。
掴まれていた腕から、大きな手が離れた。
血流を妨害されていた腕にさっと血が流れるのを感じて、鳥肌が立つ。
財前は、両腕をわたしのお腹に回して、おへその前でおおきな両手を組む。
後ろから、強く抱き締められて、わたしは漸く窓の外の恋人から目を逸らした。

『財前、暑い』
「光って呼べて、言うとるやろ」
『………』
「ほんま、悪い女やなあ、センパイ」
『いっ…!』

突然、首筋に強い痛みを感じて、思わず財前の腕を掴む。
首筋には、鈍い痛みと、濡れた感触がする。
頬には短い黒髪が当たっていて、ワックスの匂いがした。
財前が、わたしの首筋に噛み付いたのだと分かって、胸が疼いた。
鈍い、痛みがじくじくと熱を広げる。
財前に噛み付かれた首筋を、今度は熱い舌で舐められる。
痛くて、熱くて、ぬるくて、くすぐったくて、わたしの目には涙が滲んだ。
強く歯を立てられた首筋を、今度は慈しむようにぺろぺろと舐められて、頬に涙が伝っていく。

「なあ…ええ加減にせえや」
『…痛いよ』
「お前はもう、俺のモンやろ」

なまえ。
財前に名前を呼ばれて、その腕の中で泣いた。
この後輩が、嫌いだ。
酷いことを言うふりをして、奪い取るふりをして、本当はわたしのことを助けようとする。
頼んでなんかいないのに。
冷たい男のくせして、本当は、わたしに一番優しくしてくれるこの男が、嫌いだった。

「今から、アレんとこ行って来いや。別れるて、言うて来い」
『………』
「俺のために、いらんモンくらい捨てられへんのか」

人の彼氏をアレ呼ばわりする後輩は、わたしを抱き締める腕を離す気もないくせに、そんなことを言う。
確かに彼氏と言えど、あれはもういらないものだ。
けれど財前のために、いらないものを捨てる気はない。
わたしは捨てられるのを待っている。
捨てられて、やっと拾われることができるのだから。

『…捨てられるの待ってるって、言ってるでしょ』
「いつまで、待たす気やねん」
『もうすぐだよ、多分』

財前がわたしの肩口に顔を埋める。
噛まれた首筋は、ひりひりと弱く傷んでいる。
財前の腕の力は強まって、何をしたって逃げられないことを知った。

『捨てられたら、拾ってね』
「…ほんま、悪い女っすわ。センパイ」

財前は、悪い女に引っかかったとよく言っている。
自分が悪い男だという自覚はないらしい。
悪い人に引っかかったのは、多分わたしの方だと思う。
財前に名前を呼ばれるようになってから、触れられるようになってから、彼への未練というものを失くした。
だから嫌いだ。嫌いだって、言うようにしている。
わたしはまだ、酷い彼氏に裏切られたかわいそうな彼女でいたかったのに。

「もうすぐ俺のモンになる言うなら、覚悟しといてくださいよ」
『…何を』
「なまえさんは俺なしじゃ、生きていかれへんようになるんで」

本当にそうなりそうで、怖い。
財前のくぐもった声が、耳のすぐ下から聞こえる。
窓の外、中庭に目を落とした。
知らない女と手をつないでいる彼と、目が合ったような気がした。

「死ぬほど、甘やかしたるわ」

低く穏やかな声を聞きながら、頬を財前の頭に預けた。
視線は窓の外。
もうすぐわたしを捨てる男を見つめながら、お腹で組まれた大嫌いな後輩の手を、そっと握った。
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