なぜ、こんなことになっているのだろう。
キッチンからリビングを覗いて、息の仕方を忘れそうになる。
わたしの部屋のソファに座っている相澤消太さんと、目が合った。

『こ…コーヒーと、紅茶、どっちがいい…ですか?』
「…コーヒーで」
『はい…』

ここはわたしの部屋なのに、なぜわたしはこんなに緊張しているんだ。
それはイレイザーヘッドが部屋にいるからだ。
無駄に自問自答しながら、やかんのお湯が沸いたので、震える手でコーヒーをドリップする。
お気に入りのコーヒーカップが、なんだか見慣れないものに見えた。

まず何故、最近になって隣人だと気付いた、以前から思い慕っていたヒーローが、わたしの部屋にいるのか、について。
それは、さっきマンションの前で鉢合わせたからだ。
この間、念願だったお礼を伝えて、名前を聞かれて、相澤さんの名前を教えられて、その会話についての理由は知らないまま、お互い仕事に行かなければならなかったのでエントランスで別れた。
そして今日、仕事から帰ると、マンションの前に相澤さんを見つけて、途端に激しい緊張を覚えながら、震える声で挨拶をした。
こんばんは、と声をかけたわたしに、相澤さんも「こんばんは」と返してくれて、小さな幸せに浸りながら、流れで一緒にエレベーターに乗った。
彼と密室に閉じ込められるのは3度目だったが、やっぱり死ぬほど緊張した。
そして部屋のある階に到着すると、隣の部屋なので、やっぱり部屋の前まで一緒に移動した。
エレベーターの中から部屋の前まで、「お仕事は何してるんですか」とか「最近よく会いますね」とか「仕事の時間が変わったんです」とか、取り留めのない会話をしていて、その流れで、緊張がマックスだったわたしは、世間話的な発想で、ドアの鍵穴に鍵を差し込みながら、「お茶でも、飲みませんか」と、今考えれば大胆すぎるお誘いをしてしまった。
絶対断られるだろ、と言ってから後悔していたら、少しだけ口をつぐんだ相澤さんは、「お邪魔します」と、まさかの返事をしたのだ。
まさか、まさかわたしの部屋に彼が上がるだなんて、思いもしない。
え、部屋片付けたっけ?あれ、お茶あったっけ?部屋片付けたっけ?とわたしはそれはもうテンパった。
でも、わたしが誘っておいて「やっぱり無理です緊張で死にます」なんて言えるはずもなく、何度か失敗しながらドアの鍵を開けて、扉を開くと、震える唇で「ど、どうぞ」と情けない声を出した。

なんの躊躇いもなく、鬱陶しいだけのフォロワーの家に上がった相澤さんは、玄関で靴を脱ぐと、リビングに通してソファにでも座ってください、と促したわたしの言葉に素直に従った。
グレーベージュの布張りのソファに腰掛けている相澤さんは、何も言わない。
奇跡的に昨日掃除をしたばかりで片付いている部屋に、彼はミスマッチである。
さっきから心臓が暴れまわっている。
わたしは仕事着のシャツとスカートのまま、キッチンでコーヒーを挿れる指先が、緊張で冷えていることに気付いた。

『ミルクと砂糖は…』
「無しで」
『……どうぞ』

ブラックコーヒーの注がれた二つのカップを持って、リビングへと移動した。
心臓が痛い。
こぼさないよう気をつけながらテーブルにカップを置くと、相澤さんと目が合った。
ぶわっと顔に熱が集まる。
わたしは床に正座したまま、慌てて目を逸らした。

「…頂きます」
『はい…粗茶、ですが』
「……緊張しすぎじゃないですか」

気付かれていたのか!と、小さく衝撃が走る。
いやそりゃ、気付くだろう。わたしは目に見えて緊張している。
なんだか物凄く恥ずかしくなって、ちょっと目に涙が浮かんだ。

『そ、そりゃ、緊張します。イレイザーヘッドが、こんなに近くにいるなんて…夢みたいです』
「自分が招いたんでしょう」
『そ、れは…そうなんです、けど…』

そうなんですけど、緊張はするんです。とは言えずに、相澤さんをチラ見した。
相澤さんはカップを手にしてコーヒーを飲んでいて、目は合わなかったので、少し安心する。

「…コーヒー、美味いですね」
『……一応、コーヒーは仕事で…扱ってるので…』
「ああ…喫茶店にお勤めなんでしたね」
『はい…よく、ご存知で……』
「さっき、言ってたじゃないですか」
『そう、でした』
「…ただの普通のおっさん相手に、そんなに緊張する必要ないでしょう。いつになったら慣れるんですか」
『た、ただのおっさんなんかじゃ、ないです。たぶんいつまでも、慣れないと思います』
「それは困りますね。そんなあからさまに緊張されると、正直鬱陶しいです」
『!…す、すみません……』

憧れがそのまま、目の前にいるんだ、慣れるわけがない。
しかも鬱陶しいなんて言われたら悲しすぎて、なんか涙が出てきた。
泣いたりしたら更にうざいと思われる、嫌われてしまうと、俯いてぐっと息を詰める。
泣くのを我慢していると、視界に映るラグに、骨ばった大きな手が触れた。
相澤さんが床に手をついている、と気付くと、見上げる前に、顔を覗き込まれた。
その顔の近さに、詰めていた息が止まる。

「…何、泣いてんですか」
『な…いて、ないです』
「泣いてるじゃないですか」
『これは、これはあくびです』
「さっきから見てましたけど、あくびしてませんよね」
『……な、泣いてないです』
「…キスしていいですか?」

………え?
疑問符は声にならなかった。
自分の耳を疑う。
まつ毛を数えられそうなほど至近距離にある相澤さんの目を見つめて、言葉を失った。
キス?キスって、Kiss?え…?
わたしの耳、いかれた…?

『き…な、なんで……』
「したいと思ったんで」
『……つ、付き合ってるひととか、いないんですか』
「いたら、女性の部屋に上がる訳ないでしょう」
『………』
「嫌って言わないと、しますよ」

相澤さんの顔が近づいてくる。
もともと近くにあった高い鼻が、わたしの頬に触れた。
唇があと、数センチで重なる。
どうすればいいのかわからなくて、まばたきをすると、まつ毛が相澤さんの頬に当たった。
嫌な、わけがない。
ヒーローを慕う気持ちとは違う、もっと重くて色のついた、恋愛感情を、わたしは相澤さんに抱いている。
エレベーターで再会するまでは、ただの憧れだったのに。
いつの間にかくるりと色を変えて、わたしは相澤さんを思慕するようになってしまった。
ヒーローのイレイザーヘッドではなく、ひとりの男性である、相澤消太さんに、わたしは恋をしている。
我ながら、簡単な女だ。滑稽で、ほんとうに馬鹿みたい。

あと数ミリで唇が重なる、そんな距離で、相澤さんは動きを止めた。
すぐ目の前にある乾いた瞳が、わたしをじっと見つめている。
相澤さんの高い鼻が頬に当たっていて、あと数ミリの距離がもどかしくて、まばたきをしていた目を、ぎゅっと閉じた。
膝の上で強く握った手に、大きな手が触れる。
相澤さんの手だと認識すると同時に、わたしの唇に、少しかさついた彼の唇が、そっと重なった。

『………っ…』

わずかに、唇の間で濡れた音がした。
相澤さんにキスされているのだと思うと、止めている息がせり上がってきて、苦しい。
キスは初めてではないのに、こんな感覚は生まれて初めてだった。
ただの、キスだ。ただ唇を合わせているだけの、遠慮がちな、優しいキス。
それなのにどうして、こんなに苦しくて、幸福感が募るのだろう。
怖くて、目は開けられなかった。
ぎゅっと瞑ったまま動けずにいると、膝の上で重ねられた相澤さんの大きな手のひらが、わたしの手の甲を、包み込むように優しく握った。

ゆっくりと唇が離れると、どくどくと暴れていた心臓が、ゆっくりと元の位置に戻るような、おかしな感覚を覚えた。
閉じていた目を開けると、目の前には相澤さんの顔がある。
至近距離にある、前髪の隙間から覗く、血走った目を見つめて、目の中に自分を探した。
重なったままの手が、緊張で冷えていたはずなのに、じわじわと熱を持つ。
触れられている場所が心臓になったみたいだと思った。

「…感心しませんね」
『え……?』
「よく知らない男を部屋に上げて、迫られても嫌な様子ひとつ見せないのは…よくあるんですか、こういうことは」
『…そ…そんなわけ、ないじゃないですか。相澤さんだから、…相澤さんだから、嫌じゃなかったんです』
「…イレイザーヘッドだから、じゃなくて?」
『………相澤さん、だから…です』
「…そうですか」

じっと見つめられていた目が、ふと逸らされて、なんださみしさが募った。
呆れられてしまっただろうか。
最近知り合ったばかりなのに、告白まがいな真似をしてしまって、軽い女だと思われただろうか。

「みょうじさん、いくつでしたっけ?」
『え…24、です。今年で…』
「そうですか」

唐突にかけられた質問に、とりあえず答えながら、脈絡を探した。
でもそれは見つかりはしない。相澤さんは全く脈絡のない質問をした。
二人で床に膝をついて、わたしの太ももの上で手を重ねたまま、キスの直後に歳を尋ねられた。
彼の考えていることが全くわからない。
不安がどんどん、胸に募っていく。

『……相澤さんは…』
「今年30になります」
『………はい』
「はい」

変な、会話だ。
心臓がとくとくと、茹でられたみたいに揺らぐ。
伏せた目を、上げてみた。相澤さんはじっとわたしを見つめていた。

「恋人は?いますか」
『え…い、ない……です』
「でしょうね」
『………』
「恋人がいながら他の男を弄ぶようには、見えませんし。むしろ、重そうに見えます」
『……確かに、重い…のかも、しれないです。よく、言われます』
「言い換えれば、一途なんじゃないですか」
『………重いのは、嫌いですか?』
「…嫌いじゃ、ないですよ」

重なっていた手が、徐に離れた。
あたたかかった肌がひんやりとして、さみしさを抱く。
けれどすぐに、相澤さんの手はわたしの頬に触れた。
驚いて、顔を上げる。ぎゅうと、胸が苦しくなった。
相澤さんは、指先でわたしの横髪を耳にかけて、わずかに目元を綻ばせた。
くすぐったくて、肩が震える。

「6つも年上のおっさんは、嫌いですか」
『…嫌いじゃ、ないです。おっさんでも、ないです』
「三十路ですよ」
『……でも…好きです』

相澤さんの手が、首に降りてきた。
うなじに指先を添えられて、ぐっと引き寄せられる。
前のめりになる体を、相澤さんの片手に支えられた。
行き場のない手を、ラグにつく。
首をわずかに傾けた相澤さんの顔が、ゆっくりと近づいてくる。
一瞬迷って、目を伏せた。目を閉じれば、唇を塞がれた。
淡い期待が、どんどん膨らんでいく。
震える手で彼の腕に触れると、たくましい腕が背中に回って、抱き締められた。
ぎゅっと、相澤さんの服を握りしめて、体を預ける。
我慢していた涙が、つっと頬に伝った。
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