昨日、あることに気づいた。
気付いたというか、衝撃的な事実を、知ってしまった。

わたしは半年前に、今住んでいるお家賃がちょっと高めのマンションの、間取り1LDKの部屋に引っ越してきたのだが。
いつも静かで、空き部屋だと思っていた隣の部屋には、ある男性が住んでいるということ。
その男性が、ヒーローであること。
越してきて生活を始めて半年経って、その事実を知ったのは、昨日お隣さんであるその男性と、エレベーターで一緒になったからだ。
仕事から帰ってきて、エントランスを抜けてエレベーターへ向かうと、エレベーターの中にその男性が居た。
言っては悪いが浮浪者のようなその出で立ちに驚きつつ、男性はわたしに気付いてエレベーターの扉を開けてくれていたので、わたしは慌ててエレベーターに乗り込んだ。
「何階ですか」と穏やかな低い声で尋ねられて、自分の部屋がある階を呟いてから、既にその階のボタンが押されていることに気付いた。
わたしが乗る前にその階のボタンが押されていたということから、男性は同じ階に住んでいるんだとわかった。
エレベーターの扉を無言で締めた男性を、わたしは斜め後ろから眺めていた。
ボタンの前に立つその男性に、なんとなく見覚えがあったからだ。
真っ黒なつなぎ、首から肩にかけてぐるぐると巻いてある灰色の細切れの布のようなもの、男性にしては長めの黒髪、口元に生えた無精髭。
男性の容姿に、見覚えがあった。
どこで見たんだろう、と、静かに上へ登るエレベーターの中、一人悶々としていた時、ズボンのポケットに両手を突っ込んでいた男性の首に、黄色いものが見えた。
ぐるぐると巻かれた灰色の布の隙間から覗いたのは、黄色いゴーグルだった。
それを見て、はっとした。
どこかで見た覚えのあるその男性のことを、どこで見たのか、何者なのかを思い出したからだ。
この人はイレイザーヘッドだ、と、エレベーターの中で気付いた。
途端に、イレイザーヘッドとエレベーターの狭い密室空間の中にいるのだと自覚して、声を掛けようと思ったのに、緊張で声が出なかった。
そうこうしている内にエレベーターは目的の階に着いてしまって、小さく揺れて止まった。
自動で開いた扉を、閉じないように手で押さえてくれた彼は、わたしに先に降りるよう、前髪の隙間から目配せをした。
その血走った目と視線がぶつかってしまえば、もう声を掛けようなんて思えなくなった。
わたしは彼に会釈して、先にエレベーターから降りた。
自分の部屋へと向かって歩きながら、胸がドキドキと不整脈を刻んでいて、足が少し震えた。
7cmのピンヒールのミュールが、地面を叩く小さな音がやけに大きく聞こえたのを覚えている。
部屋の前について、ため息をつきながらバッグの中に手を突っ込んでキーリングを探した。
内ポケットに入れていたキーリングを取り出して、スタンダードな形の家の鍵をドアの鍵穴に挿し入れたとき、後ろでわずかな足音が聞こえて、振り返ると彼がいた。
エレベーターで一緒になった男性、イレイザーヘッドが、わたしの後ろを通り過ぎて、隣の部屋のドアの前で立ち止まったのを、呆気にとられて見つめた。
気付いた彼は、無表情な顔をわたしに向けると、無言のまま小さく会釈をした。
わたしははっとして、他人をじっと見つめていたことにわずかに罪悪感を抱き、小さく「すみません」と謝った。
心臓が、ばくばくと大きく収縮していて、鍵を上手く回せなかった。
彼は、わたしの謝罪に「いえ」と短く答えると、ポケットから取り出した鍵を使って、隣の部屋のドアを開けた。
まさか空き部屋だと思っていた隣に、イレイザーヘッドが住んでいたなんて、と、わたしの頭の中はぐちゃぐちゃだった。
ドアを開けて部屋の中に入ってしまった彼を見て、わたしは深呼吸をしてから、やっと自分の部屋のドアを開けた。
隣から、ガチャンと小さく、鍵の締まる音が聞こえてきて、わたしも自分の部屋の鍵を締めても、緊張感から解放されることはなかった。

壁を隔てた向こう側に、イレイザーヘッドがいるのだと思うと、ご飯を作って食べている時も、本を読んでいる時も、お風呂に入っている時も、ベッドで寝ようと目を瞑っても、いつまでも落ち着かなかった。
そして、今日目覚めてからも。
仕事へ行く準備をしながら、昨日に引き続きイレイザーヘッドのことを考えていた。
どう考えてもあの人はイレイザーヘッドだ。
だって、アングラ系ヒーローで知名度の低いイレイザーヘッドのコスプレをする人なんて、滅多にいないだろう。
それに共通点が多すぎる。
心臓がバクバクして落ち着かない。
困った、仕事でミスしたらどうしよう。

『!……あ、…』
「……どうも」

仕事の都合でいつもよりも一時間早く部屋を出て、エレベーターに乗って一階のボタンを押すと、扉が締まる前に、まさかの再会を果たしてしまった。
口から間抜けな声が漏れて、手に持っているバッグを落としそうになる。
エレベーターに乗るために、閉まりかけた扉を少し乱暴に掴んだ彼を見て、息が止まるかと思った。
目が合ったイレイザーヘッドは、昨日と全く同じ格好で、わたしを認識したのか、短く挨拶をした。

『お…はよう、ございます……』
「…おはようございます」

何か返事をしなくては、と焦った口からは、間抜けな挨拶がこぼれた。
律儀に返事をしてくれた彼は、力を加えられて扉の開いたエレベーターに、乗り込んでくる。
また密室に二人きりだ、どうしようと、無駄に緊張と焦りを抱いた。
自動で、ゆっくりと扉が閉まる。
たくさんのボタンが並ぶ、エレベーター内の壁に寄って立っているわたしの斜め後ろに、イレイザーヘッドは立っている。
声を、かけるなら今だ。
ばくん、ばくんと、心臓が口から出てきそうなくらい、大きく収縮を繰り返している。

『………あ、あの…』
「…はい?」
『…い……』
「…?」
『イレイザー、ヘッド…です…よね……?』
「………」

やっとの思いで声に出してから、はっとした。
もし違ったらどうしよう、と焦る。
慌てて振り返ると、彼は真顔でわたしを見つめていた。
目が合って、心臓が止まる。
いや、止まったら死ぬか。揶揄だ。

「…そうですが」

短く沈黙してから、彼は低い声で肯定した。
やっぱり、と口にしそうになって、開けていた口を閉じる。
エレベーターが、小さく揺れて一階に到着した。
この人はやっぱり、イレイザーヘッドだった。朝の冷たい空気の中、わたしだけが緊張感に包まれる。
ゆっくりと、エレベーターの扉が開く。
わたしの後ろにいる彼が、出て行こうと足を上げた。

『あの…!』
「………」

思わず引き止めると、エレベーターを出た彼は立ち止まって、わたしを見た。
きっと面倒臭いと思っているんだと思う、彼はメディアなんかの露出が極端に少ない。きっとこうして、他人に時間を割くのが嫌いなんだろう。
それでも、言いたいことがあった。
ドアが閉まりかけたエレベーターから出て、彼を見上げる。

『…あ…握手、してくれませんか……』

違う!そうじゃないだろ何言ってんだわたしは。
テンパりすぎて変なことを、というか言うつもりのなかった願望が口を突いて出た。
勢いで右手を差し出してしまったので、引くにも引けない。
違う、こんなことが言いたかったんじゃない。
右手を差し出して俯くわたしを、彼はどんな顔で見ているんだろう。
握手なんて、してくれるはずがない。

「………」

してくれないだろう、と思ったのに、行き場を見失ったわたしの右手に、彼の手が触れた。
驚いて顔を上げると、イレイザーヘッドがわたしの手を握ってくれる。
大きな手が、わたしの手のひらを覆った。
その体温に、かあっと顔に熱が集まる。
握り返す事も出来ずに、軽くわたしの手を握ってから離れていく彼の大きな右手を、じっと目で追った。

「…よく分かりましたね」
『え…?』
「あまり、気付かれないんですが」
『………』

話しかけられるなんて思わなかったので、思わず彼の顔を凝視してしまった。
握手をした右手に意識を持って行かれていたので、わたしは変な顔をしていたかもしれない。
じっと、彼の血走った目を見つめて、彼の発言の意味を考える。
あまり気付かれない。イレイザーヘッドだということに、気付かれることが少ない。
それは、そうだろう。彼の知名度は他のヒーローに比べると低い。

『……以前、救けてもらったことが、あるんです』
「…俺にですか?」
『…はい。銀行で…強盗が立て篭って、15人くらい、人質にされて…その中に、わたしもいたんですけど』
「……」
『……刃物を向けられて、殺されそうになったときに…イレイザーヘッドが、救けてくれて…あのときから、ずっと…ファンというか、フォロワーというか、好きで…もう一度会えたら、お礼を言いたいって、思ってたんです』

何を言っているのか自分でも分からなくなりながら、整理もせずに言いたいことを呟いた。
そしてはっとする。
好きとか言ったら、告白しているみたいじゃないか。
ほぼ初対面の女に好きとか言われたらキモいだろ、失言してしまった。
慌てて顔を上げると、イレイザーヘッドはさっきと同じ顔でわたしを見下ろしている。

『あ、いや、好きって言っても、変な意味じゃなくて…なんていうか、好きは、好きなんですけど…えーと、あの、変な意味じゃ、ないんです…』
「…はあ」
『…あの……あの時は、ありがとうございました』

言い訳が逆に怪しい。もう自分が情けなくなって、泣いてしまいたくなる。
とにかくお礼を言おうと、頭を下げて言った。
ずっと、いつか会えたらと思っていたヒーローが、こんなに近くにいたなんて。
いろんな感情が胸で絡み合って、もう何を思っているのか自分でもわからない。

『………』
「…礼なんかいいです。救けるのが、仕事ですから」
『…でも、ありがとうございました』

顔を上げると、目が合った。
口元は、首に巻かれた灰色の布に隠れて見えない。
胸の辺りが落ち着かなくて困る。
これからずっと緊張して暮らさないといけないなんて、困る。
しかも、仕事に遅れそうで、困る。

『…それだけ、です。時間を取らせて、すみませんでした』
「いえ」
『……じゃあ、失礼します…』

バッグの持ち手をぎゅっと握って、会釈をした。
なんだか泣きそうだった。
念願が叶ったというのに、少し悲しい。
出口へとつま先を向けると、彼から顔を逸らした。
仕事に集中できるだろうかと、不安になりながら、昨日と同じ7cmのピンヒールを、地面から離す。

「…あの。名前、聞いても良いですか」

後ろから声を掛けられて、自動ドアの前で立ち止まった。
振り返ると、両手をポケットに入れた彼と目が合う。
彼は前髪の隙間から、わたしを見ていた。
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