『月がきれいですね』

まだ昼間だ。
こいつは何を言っているんだか、視線の先に目をやると、青空には透けるような月が出ていた。

『昼前の月って、好きなんです』
「…そうか」
『相澤先生も、きれいだと思いませんか?』

それよりも俺が見惚れたのは、白い月を見つめる彼女の横顔だった。
なんだか今にも消えてしまいそうな儚さを抱かせる。
消えられては困るので、捕まえて置こうと彼女を抱く腕に力を込めた。
俺の膝の間に座り、背中を預ける彼女の髪に顔を埋める。
いい匂いだ。彼女はいつも同じ香水の香りがする。

『先生、いまのは、告白のつもりでした』
「…月が、綺麗だな」
『わたしも、愛しています』

漱石はどうだっていい。言葉遊びはもう飽きた。
それでも彼女の言葉は心臓を揺さぶる。
俺たちの座るベッドはシーツがくしゃくしゃで、窓から差し込む光が眩しい。いつまでも空を見上げている趣味もない。

「一緒に風呂に入ろう」
『お湯を張りますか?めずらしいですね』
「たまには、こんな日があってもいい」
『じゃあ、いつもは聞いてくれないわがままをもう一つ、聞いてください』
「風呂を泡まみれにするアレか」
『あれです』

必要なもの以外には何もなかった俺の無機質な部屋に、彼女の私物が置き去りにされるようになってから、なんだか自分が変わったような感覚だった。
キッチンには調理器具や食器が収められ、衣服やタオルなんかも増えた。
玄関には彼女のサンダルやよそ行きの靴があるし、脱衣所の洗面台にはよくわからない化粧品が置かれ、歯ブラシも二つに増えた。
風呂場には、彼女のいい匂いがするシャンプー類と、湯を泡風呂にする水色のボトルが置かれている。
大抵風呂はシャワーで済ませる俺には、風呂を泡まみれにする意味がわからないので、前に一度やってからは却下してきたが、たまにはいいだろう。
掃除をするのはどうせ彼女だ。彼女は家事をするのが好きで、俺が仕事の合間にいつも部屋を綺麗にしてくれていた。

「仕方ねぇ、行くぞ」
『それから今日は、ひげを剃って髪を整えて、出かけませんか?』
「どこに」
『植物園と本屋さんに行きたいんです』
「……仕方ない」
『今日の相澤先生、なんだか変ですね。一緒に出かけてくれるなんて…まさか、浮気ですか?』
「んなわけねえだろ。心外だ」
『冗談です。今日は、付き合い始めて4年ですから…覚えていてくれたんですね』
「それくらい覚えてる。今日は甘やかしてやるんだから、さっさと風呂を泡まみれにするぞ」
『泡風呂、ですよ。甘やかしてくれるなんて、目一杯わがままを言いますね』
「全部叶えてやる。手始めに、風呂場まで抱いて行ってやろうか」
『お姫様抱っこで、お願いします』
「仰せのままに」

ベッドから降りて、俺のシャツだけを纏う彼女を抱き上げた。
首に柔らかな腕が巻き付く。
見下ろすと、顔を近づけてくるので、仰せのままに唇を塞いでやった。

「夜は俺の言うことを聞いてもらうからな」
『じゃあ、ランジェリーショップへ連れてってくれますか?相澤先生好みの、合理的な下着を新調します』
「俺は、脱がすもんにこだわりはない」
『そう言うと思いました。実は昨日、わたしティーバックの下着を着けていたんですよ。気付かなかったでしょう』
「それは惜しいことをした。今日からは、脱がす前にチェックしよう」

彼女がおかしそうに笑う。
風呂場に着くと、湯を張り始めた湯船を眺めて、泡風呂のボトルを手に目を輝かせていた。
どうせまた、前にした時と同じように、ふわふわの泡を両手にすくって、俺の顔目掛けて息を吹きかけるんだろう。
正直手に余る。何故彼女があんなに愛らしいのか、俺には理解できない。

『相澤先生、アヒルも浮かべていいですか?』
「おまえの好きにしろ」

二十歳も過ぎて、泡風呂やアヒルのおもちゃではしゃぐなよ。そう思いつつも、彼女の小さな後ろ姿を見ると、やっぱり可愛いと思ってしまう。
俺の恋人は可愛い。世界で一番可愛い。多分、そのうち俺の恋人は、一つランクアップして俺の嫁になるんだろうと思う。
この間オーダーした指輪はとっくに届いた。なんであんな小さい銀色の輪っか二つであんなに高価なのか疑問だが、彼女の好きそうなシンプルなやつにした。
プロポーズとやらを言い出せずにいるのは、こっぱずかしくて仕方ないからだ。切り出すタイミングもいまいちわからん。
だが、そろそろ言わなくてはならない。彼女はまだ若いが、俺はもうおっさんだ。年の差は埋まらないし、時間は待ってくれない。
前に彼女が、理想のプロポーズについてミッドナイトさんと語っているのを聞いたことがある。
「真っ白な花束と一緒に求婚されたい」だとか、アホみたいなことを言っていた。

『そういえば、相澤先生。昨日の夜、お花屋さんから電話がありましたよ』
「…何て言ってた」
『相澤先生は不在だって言うと、また後日連絡しますって。相澤先生と花屋さんが結びつかなくて、びっくりしました』
「……まぁ、そうだろうな」
『もしかして、学校の卒業式のお花ですか?そんな季節ですもんね』

溜まった湯に、泡風呂の素を入れながら言う彼女に、少しぎくりとした。
務める高校では確かに卒業式のために花は用意するが、俺の担当じゃないし店も違う。
普通気づくだろう。どんだけアホなんだ。店の前を通るたびに「素敵ですね」とか言ってる無駄に洒落たデカイ花屋から、同棲中の恋人が買い物したことを匂わす電話を受けておいて、自分に贈るものではないかと何故思いつかない。
彼女は、俺に求婚されるなんて考えつきもしないんだろう。もしかしたら、電話してきた花屋が自分の憧れの花屋だと気付いていない恐れもある。どうせ外観と店の中だけ見て、読みづらい筆記体の外国語で描かれた店名なんか知らないんだろう。
別にいい。前に酔ってちらっと言っていた淡い願望が叶って驚けばいいさ。
昨日電話が来たということは、取り寄せると言っていた花の準備が出来たということなんだろう。
後でこっちから連絡してみよう。
そして真っ白な花束が届いたら、見つからないよう隠してある指輪と共に渡そう。何て言えばいいのかは思いつかないが、多分、どうにかなるはずだ。


(なんか、相澤先生って下着の中だと、全くこだわりはないけど強いて言えばTバックが好み…みたいなイメージ。すみませんでした。)
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