愛を囁くひと

船を降りて港から街を抜け、東の隅にある酒場へたどり着く。店先では店主がニコニコしながら待っていた。小走りしながら息を切らせているこちらへ手を振って迎えてくれる。


「やあ、本当に今日からで大丈夫だったかい?」
「はい!私、早く独り立ちしたくて……。乗せてもらっていた船も今日には出発するって言ってたので、本当に助かりました!」
「そうか、そうか。それは運が良かった」


店主はまたもやうんうん頷いている。癖なのだろうか。
さっそく住み込みの部屋へ案内してもらう。酒場の二階にはいくつかの部屋があり、そのうちのひとつが割り当てられた。部屋にはひととおり生活できる家具が揃っており、シャワールームまで付いている。


「すごい設備……。元々下宿か何かするための準備があったんですか?」
「ああ、うちでは君みたいに行き場の無い子を積極的に雇ってるからね。誰かが喜ぶ雇用を生み出すのも、経営者の務めだよ」


何て人なんだろう!異世界でこんなに親切な人に巡り会えて、本当に運が良かった。
荷物を置くとさっそく厨房へ降りて仕込みの手伝いをする。厨房には数人の女性がおり、みんなが軽く頭を下げて挨拶をした。これから一緒に働くことになる初めての同僚に緊張しながら頭を下げる。
店主に連れられキッチン中の物の配置と、食材の保管場所、メニューの一覧を見て覚えたりと時間は慌ただしく過ぎていき、気付けばあっという間に開店の時間だった。
店を開けて少しするとすぐにお客さんが雪崩れ込んでくる。夕飯時の目が回りそうなほどのその忙しさに、大学生の時に居酒屋でしたバイトを思い出し懐かしい気持ちになった。


「お待たせしました」
「おう、ありがとな」
「お姉さん、新入り?」
「はい、今日からお世話になってます」
「へェ、頑張ってね」
「ありがとうございます!」


お客さんも愛想が良い人ばかりだ。初日から順風満帆な仕事っぷりに顔が綻んだ。
と、同僚の一人が何やらお客さんと話し込んでいる。しばらくすると客の男性が店主を呼んで何か言付け、同僚と階段を上がっていった。


「あの……何かトラブルですか?」
「いや、何でもないよ。ちょっと話があったようだ」


店主は肩をすくめて話を打ち切った。その態度に少しの引っかかりを覚えつつも持ち場に戻る。きっと知り合いかなにかなのだろう。
しばらくして、先程今日からかと聞いた男性が注文のために私を呼びつけた。


「ご注文は?」
「そうだなあ……じゃあチップ≠ナ」
「チップ……?メニューにはありませんけど……」
「そう?店主に聞いてみてよ」


そう言われて素直に店主に聞きに行くと、店主はニコニコ笑って頷いた。それから客の男性のところまで行くと、一言二言話して何かを受け取る。


「ちょっと、上まで案内して」
「上?」
「休憩するって」
「はあ……」


ここは宿屋も兼ねていたのだろうか?最初にそんな説明は受けていなかったけど……。
怪訝に思いながらも男性を連れて階段を上がった。背後でホールの喧騒が遠くなり、暗い階段に急に別世界に迷い込んだような気持ちになる。二階の廊下のほの暗い灯りを目指して進むと、古い階段は二人分の体重を受け止めてキシキシと音を立てた。


「いや〜、ごめんね。忙しいのに」
「いえ。ここって宿屋も兼ねてるんですね、知りませんでした」
「ああ……そうだね。ところで君、何歳?十八……は越えてるよね?」
「はい。二十歳越えてますよ」
「そうなんだ、もっと若く見えたよ」
「そんな……。あの、どこのお部屋ですか?」
「あ〜……君の部屋はどこ?」
「私の部屋ですか?ここですけど……えっ、ちょっと」


上機嫌で話していた男性は突然、前を歩いていた私の腕をグイッと引っ張って部屋に入る。混乱してされるがまま、暗い部屋に放り込まれてたたらを踏んだ。背後で扉の閉まる音がする。


「え、え?」
「いや〜、おれが一番乗りだよね?ラッキーだな、君結構好みだよ」
「あの、何、を……」


心臓が痛いほどガンガンと脈打つ。今まで経験したことが無いほどの嫌な予感に、頭の中で激しく警鐘が鳴っていた。店主の笑顔が脳裏に映し出される。


「あはは、ここの店主、身寄りの無い子ばっかり集めてるでしょ?そのうち諦めたようになっちゃうからさ、初めての子は反応が良くて新鮮なんだ」
「……!!」


そう言いつつ服を脱ぐ様子に、ザーッと音を立てて血の気が引いた。咄嗟に扉に向かって走り出すが、簡単に捕まってベッドへ押し倒される。激しい動悸に呼吸が乱れて息苦しい。


「ダメダメ、金払ってるんだからちゃんと仕事してもらわないと……」
「や、嫌……離して!誰か!」
「あはは、可愛い〜」


相手は酔っ払ってはいるが強い力で、ぐっと肩を押さえつけられて動けない。抵抗するも、呆気なくワンピースの胸元を両手でこじ開けられる。


「やめ……やめて……」
「それって抵抗してるつもり?力弱いんだね……」


興奮したような囁きが聞こえて首筋を舌が這い回る。ゾッとして相手の肩を押すと、面倒そうに片手で掴まれた。男性はサイドボードを漁って中から避妊具を取り出す。


「プレイは何してもいいけど、スキンはちゃんと着けろって厳しく言われるんだよね……面倒だけど」
「ひっ……やだ……」
「え、やだ?スキン無しがいいってこと?おれは大歓迎だけ……ウッ!」


一瞬体が離れた隙に脚を振り上げて抵抗すると、男性は呻き声を上げて床に蹲る。乱れた胸元もそのままに急いで立ち上がり、震える手で扉を押し開いて逃げ出した。


「おい!!てめェ仕事はどうした!!」
「!!」


ホールを避けて裏口から抜け出そうとすると、背後から店主が昼間とは全く違う恐ろしい顔で腕を掴む。
やはりあの男性の言っていたことは嘘ではなかったのだ。ここは、身寄りの無い女性を集めた売春宿だ。


「はな、離して……」
「金をもらった分しっかり働け!!このアバズレが!!」
「嫌です!こんなことしたくない……!」
「海賊船に乗ってた女が何を言うんだ?え?どうせ野郎の慰み者だったんだろうが!?得意なことだろう!!ここに置いてやるってんだからしっかり股開いて稼げ!!」


吐き捨てるように言われた言葉に腕を振り解いて店を飛び出す。後ろから店主の怒鳴り声が聞こえるが、脇目も振らずに走り続けた。
涙が次から次へと溢れて止まらない。どうしてこんなことに?という思いが頭をぐるぐる駆け巡る。ボロボロのワンピースの胸元を押さえて走る私に、すれ違った人達の驚きや憐れみの視線、酔っ払いの野次が向けられた。

どこをどのくらい走ったのだろうか、気付くと片方の靴が無い。足の裏から血が滲むのを感じながら角を曲がると、いつの間にか港に来ていた。街の反対側までこの姿で走ってきたらしい。
涙でぼやけた視界で祈るように目線を動かすと、朝と同じ場所に船が停まっている。途端にどっと安心して、漏れる嗚咽を堪えもせずタラップを登った。


「おっ……おい!どうした!!」
「何があった!?」


甲板にいた数人の船員が驚いたように声をかけてくれるが、答えられずただ泣きじゃくって今朝まで自分に与えられていた部屋へ向かった。すれ違う船員も同じ反応をしたが、誰にも構わずに部屋へ駆け込んで鍵をかける。


「うっ、う……うああ……」


ベッドへ顔を伏せると声を押し殺して泣いた。
――家へ帰りたい、家へ帰りたい!お父さんとお母さんに会いたい。こんなところにいたくない、こんな世界嫌だ!
しばらくそうして泣いていると、部屋の扉をノックする音が聞こえる。返事をせずにいると、少しの間を置いてアーロンの声が問いかけた。


「……何があった」
「な、ん……でも、ない」


震える声で途切れ途切れに答えるとまた無言の間があり、先ほどよりいくぶんか低い声で「開けろ」と続く。
――嫌だ、今はもう誰にも傷つけられたくないし、傷ついた姿を見せたくない。


「嫌……会いたくない、誰にも会いたくない……」
「おい……」
「嫌なの、嫌……!お願い放っといて……朝、っには、出て行くから……」


しゃくり上げながらなんとか言うと、しばらくして足音は遠のいた。










部屋をノックする音でハッと目を覚ます。どうやら泣き疲れて眠っていたようだ。時計を見ると丑三つ時で、こんな時間に誰かと頭を働かせる。


「なまえ……おれだ、ハチだよ」
「な、なに……」
「ニュ……心配しなくていい。ただアーロンさんが呼んでる」
「会いたくないって言って……」
「いや、行った方がいい」


ハチがキッパリと言うのでそれ以上は断れず、仕方なく破かれた服を隠すためのブランケットを肩に巻いて扉を開けた。……羽織れるような服も全部あの店に置いてきてしまった。


「酷い顔だ……大丈夫か?」
「……アーロンさんは?」
「甲板だよ。寒いからちゃんと羽織れ」


静かに言ったハチがブランケットの袂をぎゅっと結んでくれる。
先を進む背中に付いて甲板へたどり着くと、夜中だというのに多くの船員が集まっていた。驚いて目を瞬かせると、甲板の真ん中で何かを見下ろしていたアーロンがこちらを振り返る。


「こいつか」


一言だけ言われた言葉に何かと思っていると、すっと場所を移動して足元の何かを見せる。そこには、顔中腫らして鼻血を流した店主が呻いていた。


「あっ……」
「てめェ!!おい!!身寄りはねェと言っていたじゃねェか!!えェ!?船は今日出ると言っていたろうが!!!!」


静かな港に、私を罵倒する声だけが響く。きいんと反響した音が耳に残って、先ほどの光景がありありと脳裏に蘇った。無意識に息が上がって、はくはくと口が開閉する。


「アバズレが!!何を尻込んでんだこのバカ女!!ただ金をもらって客と寝るだけだろうが!?こんな半魚どもの船に乗っておいて何ができないって!?」
「うっ、う……」
「クチがきけねェのか!!黙って天井のシミでも数えてれば終わる!!さっさと店に戻って仕事をしろ!!!!」


喉が締め付けられて何も言えないまま二、三歩後ろに下がると、ハチが肩をぎゅっと掴む。アーロンは冷ややかな目で店主を見下ろすと、静かに言った。


「殺すか」
「こ、殺す……?」


言われた言葉を聞き返すと、言った本人はこともなげに頷いた。店主がひっと息を呑んで押し黙る。
――今、この人はなんと言ったんだろう?
傷付いた心がまたじくじくと疼き始めた。


「ああ、殺すか?」
「殺すって……殺すなんて……そんな、そんなこと……」


よろめいた私が言葉を震わせると、店主が縋るようにこちらを見る。先ほどまでとは打って変わり、哀れっぽい表情で目をギラつかせるその顔から視線を逸らしながらなんとか絞り出した。


「……そんなことしなくていい……そんなこと、簡単に言わないで……」
「そうだ!!そうだよな?おれは何も……グッ」


口を開いた店主が呻いて静かになる。アーロンは無言でため息をついた後、数人の船員を振り返って「送ってやれ」と低い声で言った。
店主が引き摺られながら船を降りるのを見届けると、途端に涙が止めどなく溢れてきた。先程泣いたばかりで瞼が痛いのに、思わずまた手の甲で擦ってしまう。嗚咽を漏らす私にハチが後ろから心配そうに肩をさすった。


「やめて……」


首を振って弱々しくそれを拒絶すると、戸惑ったように手が離れる。一言言葉が零れると、堰を切ったように弱音が飛び出してきた。ブランケットを握った拳に力が入る。


「何で……?何で私ばっかりこんな目に……?私が何したの、何でこんなところにいるの?」
「ニュウ、なまえ……」
「もう嫌、全部嫌……!家に帰りたい、家に帰りたいよ……!!それが、それができないならいっそ……もう……死んじゃいたい…………」


言葉の最後の方は小さく萎んでいく。消えてしまいたい気持ちになりながら、足元に落ちる涙を見ていた。
すると視界に突然大きな爪先が入り込み、おそるおそる視線を上げる。


「……っひ、」
「今何と言った?」


上まで上がりきった私の視線と交差した男の目は、瞳孔がシュッと細くなり……これ以上は無いというほど怒っているように見える。喉がひゅっと音を立てた。


「あ、の……」
「死にてェだと?そう言ったのか?」
「わた、私……」
「くだらねェ……実にくだらねェよ」


吐き捨てるように言いながら近寄ってきて、私の顎を掴むアーロンから目を離せない。
――動けない、怖い、声が出ない……。
この人は私を殺せる人だ、と本能が怯えて立ちすくむことしかできなかった。そんな私の腕を引いてアーロンは歩き出す。


「出て行ったやつらが戻って来たら、日の出を待たずに出港しろ」
「あ、アーロンさん……」
「この間とは違ェよ」


ハチの戸惑ったような呼びかけに返事をする声は、その恐ろしいほど怒りを露わにした顔とは違い、随分と冷静で、静かに、凪いでさえいるように感じた。

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