ホテル住まいを1週間程して、俺は会社の寮に入ることにした。
あのマンションには、霧人と(一方的にだけど)別れてから行っていない。
しかし、ちょうど契約更新が今月末までだった。思ったよりも年々ハードになる仕事のため、もっと会社に近いところに引っ越すか悩んでいた。
だから、ちょうどよかった。きっと、これは運命だったんだ。そう自分に言い聞かせた。

仕事が忙しく、とりあえずコンビニで買いそろえたものだけ持って、寮に入った。本音をいうと、マンションに帰る勇気がまだ出なかった。
胸が痛む。
これは、まだアイツのことが好き、だからなのだろうか。最近、妙に人肌が恋しくなってくる。浮かびあがるのはアイツ。そのたびに、まだ未練があるのかと自分にがっかりする。

今日も、そうだ。

でも、そんなときは台所に立った。
寮部屋についている小さな台所。最近そこで山坂の提案を実行し始めたのだ。
油で何かを淡々と炒めたり、冷凍食品をフライパンや鍋で解凍したり、ただ野菜を切ってみたり。それだけで、不思議と心が落ちついたのだ。
山坂はやっぱり天才だった。



月末が近づき、意を決して、わざわざ休暇をとり、あのマンションへと向かった。いつもならいない時間を見計らって。別れてからそろそろ一ヶ月が経とうとするが、ヤツのスケジュールは大体思い出せた。
ドアの前で深呼吸をする。
居合わせても、することは同じ。ずっと考えていた最悪の結果になってもそれは同じ。最悪の結果とは、俺のマンションに、ヤツ以外の誰かがいることだ。

しかし、予想とは反し、中には誰もいなかった。ホッと胸をおろした。面倒なことは避けたい。
それと、ヤツの顔をみたら、また、同じことを繰り返しそうだと思ったから。




必要なものだけを部屋にあったスーツケースに入れた。家具などは寮に完備されている。面倒くさいから、捨ててもらおう。それを使う度にヤツを思い出しそうで、こわい。

メモを書いて、机の上においていこう。携帯のアドレスも消したから、連絡手段がない。
書くもの…。
落ちていたチラシをひっくり返し、その裏に書こうと思ったが、ペンが見つからない。いつも仕事用のを持ち歩いていたから、自宅には一、二本程度しかない。
たったペン一本見つけるのに相当時間がかかってしまったのだろう。俺はペンをどこに行くにしろ身につけようと決意した。なぜなら、そのせいでヤツで鉢合わせしなくてはならなくなったのだから。

あった!とペンをフローリングから拾い上げようとした瞬間。

「りょ、う…」

振り替えるとヤツは突撃してきて、抱きしめてきた。

「遼…遼、遼、遼…!」
「…くるしっ…!」

あまりにも力強く抱きしめてきたので、離せということよりも苦しいという言葉が出てきてしまった。本当に苦しかったんだ。骨が軋ついた気がした。

「遼、ごめんね。間が差したんだ…俺には遼しかいないんだ…」

ぼろぼろと惜しみなく大粒の涙を流しながら、霧人は言っていたが、すぐに視線をそらした。また、許してしまいそうだ。

「この二週間、俺…死んじゃうかと思った…こんなにも遼が必要な存在なんだって思い示された…」

うるさい。黙れ。
目を硬く綴じても、ヤツの声は俺の脳内をじくじくといじめる。

「遼…戻ってきて…俺には、遼が必要なんだ…遼…好きだ」
「黙れ」

べらべらと喋っていた霧人はその一言にびくりとし、言葉を引っ込めた。

「りょ、りょう…?どうしたの?」
「離せ…」

緩まった腕から抜け出す。そしてスーツケースをひっつかんで玄関に向かう。
呆然としていた霧人は急いで俺の腕を掴んだ。

「待って!どこいくの?こんな荷物持って…ねえ、遼…!」
「この部屋は今月いっぱいで空き部屋になるから。必要なものは全部持ったから、あとは処分しといてくれ。全部」
「えっ?どういうこと?どこに引っ越すの?俺も連れてってよ…!」

スーツケースを置いたら、ガタンッ、と思ったよりも大きな音が出てしまった。自分でも驚いたから霧人も驚いただろう。
狭い玄関でくるりと振り替えるとすぐそこに涙でぐちゃぐちゃの霧人がいた。せっかくのイケメンが台無しだ。

「俺は、お前にラブホテルを提供してるわけじゃない。もう、あんな思いは懲り懲りだ」
「本当にそのことは…」

また同じことを繰り返そうとしたヤツの目の前に拳をかざす。

「そろそろ恋愛にも疲れてきたんだわ、俺。いい年になってきたし。…それにな、もう、お前の言葉も信用できないんだ」

ぐっ、と握った拳を開いて、鍵をみせる。

「これ、鍵」

ちりん、とおそろいでつけていたキーホルダーの小さな鈴が虚しく響いた。
霧人は目を見開いたまま、だらだらと涙をこぼしていた。
ああ、かわいそうに。

「霧人」

名前を呼ぶと、ハッとしたように瞬きをした。
その瞬間に涙を出来るだけ優しくぬぐってやった。

「今まで、ごめんな」



バタン、と扉が閉まる音を後ろ手に聞いて、俺は歩き続けた。

あんなんだったけど、最後の最後まで、好きだったんだな。



零れた涙が口に入り、味覚を刺激した。
寮についたら、味噌汁をつくろう。とびきり、うまいのを。


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