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鍵を間違ってトイレに流してしまった。スペアキーは家の中にある。だから、マスターキーで部屋をあけてください。
そう告げれば、大家のおじいさんはにこにこしながら、鍵をじゃらじゃら音をたて、ついてきてくれた。
えーっとこれだったかの?なんて言いながら、大家さんは鍵を開けてくれた。お礼を言うと彼は相変わらずのほほんとしながら帰っていった。今度、近くにある有名な最中でも持っていこう。
小さな背中を見送ってからドアノブに手をかけると、名前を呼ばれた気がした。振り返っても、もちろんそこはざあざあと雨が降っていた。マンションの入り口を見下ろすと傘がひっくり返って落ちていた。カンカンと誰かが階段を登ってくる音がした。
もしかして…なんて。まだ期待をする。こんなにも学習能力が低いのか、俺は。
自嘲しながら、もう一度ドアノブに手をかけ、ひねる。


「樹海、くん……」

がちゃり、とドアが開いたときだった。自分の動きがやけにスローモーションに思えた。声がして、首を回す。
だんだんと目が見開くのが自分でわかる。

なんで…

荒い呼吸で肩を上下させ、髪の毛はすとんと落ちている。
驚いていると相手はずんずんと距離を縮めてやってきて、開きかけていたドアを乱暴に開け、部屋に押し込まれた。
ドアを背に、顔の右側に左手が大きく音をたてて置かれた。

「た、けいさ…」

竹井さんは眉根を寄せている以外は無表情のように見えた。

「どこにいたの?」
「…友達のとこで…」
「携帯は?」
「電池切れてて…」

食い気味で質問してくる竹井さんは明らかにいつもと違って、こわい。

「…なんで、連絡しなかった?」
「そ、れは…」

忘れていたわけではない。
ただ、怖くて逃げていた。

ぐっ、と両肩を捕まれ言葉につまる。綺麗な輪郭を雫がなぞって、落ちた。

「……なんで俺が怒ってるか、わかる…?」

どうすればいいのかわからない。怖い。

「ごめんな、さ…」

嫌われたくない。
竹井さんには。

ぶわり、と涙が溢れる。
最後に竹井さんを見たときは、別れることを少しでも考えていたのに。その方が楽だって。
でも、いざ目の前にしたら、嫌われたくなくて。
涙が止まらない。
視界が歪み、竹井さんの表情がわからない。

「ごめん…な、さ…」

力強く抱きしめられた。竹井さんの湿った服に涙でシミがどんどん増えていく。
冷えた服越しにつたう愛しい体温に、また涙が誘われる。

「…ずるいよ、樹海くんは」

耳元で噛みしめるように絞りだした声がしたのと同時に、服を握りしめた。

「俺、怒ってるのに…そんな涙みちゃったら…怒れないよ…」

ごめんなさいともう一度伝えた。どんどん抱きしめる力が強くなっていく。それが安心感を増させる。

「……嫌われたと思った」

思いもかけない言葉に驚きつつも鼻を一度すすってから、聞き返す。

「俺、樹海くんに好きかもって言われてすごい舞い上がってた…けど、かも、だもんね…やっぱり好きじゃないってことに樹海くんが気付いたとかなのかと思った…」

そっと、肩を捕まれ視線が絡む。もう竹井さんの表情は変わっていた。その瞳はゆれていた。

「俺、樹海くんのこと、好きだよ」

はらはらとまた涙が頬の上を滑る。それを優しく親指で掬ってくれる。

「樹海くんの、気持ちが知りたい。好きだから……好きだから、全部知りたい。…教えてほしい」

ゆれている瞳を見据えながら、口を開く。鼓動がうるさくて、うまく口が動かない。
それでも、伝えなきゃ。

「…す、き…竹井さ、ん…ずっと…傍に、いて…」

抱きつくと竹井さんの心臓の音が聞こえる。速い心拍数にまた涙がでる。俺って、いつからこんな涙もろかったっけ?
きつく抱きしめられた。

「うん…ずっと傍にいるよ…もう離さなくても、いい?」

かすれた囁きに、一度目を見開いてから、頷いた。涙は暖かい。






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