「ねえ、樹海…気持ちよかった?」
「…まあ、うん」
「よかった…!これからも、俺と気持ちいいことしよ?俺、絶対、樹海のこと気持ちよくさせてあげるから…あんな女、忘れさせるくらい…俺のことしか、考えられなくなるくらいに…」
まあ、色々引っ掛かることはあったけど、気持ちいいことが出来るなら、と俺はオッケーした。すると、まだ黒髪だった頃の雄哉は今と替わらないあまい笑みで、こう囁いた。
「ずっと、俺には樹海だけだよ…」
大好き、と。
それが俺たちのはじまり。
電車に揺られながら、一年半くらい前のことを思い出した。あれから、もうそんなに時間が経っていたのか。それだけの時があれば、人は容易に変われる。
現に雄哉は変わってしまった。一体、誰のせいだったのだろうか。
環境?雄哉?俺?
答えはわからない。
俺は電車を降りて、バイト先に一度立ち寄ることにした。シフトの確認をするために。
駅の目の前のそこへ、従業員出入口から入ると久しぶりの空気にいつから来ていないのか考えた。
「あっれ?佐藤くん?」
振り返るとそこにはフリーターの中村さんがいた。
「おはようございます」
「久しぶりーっ!てゆーか大変だったんだよー!」
シフト表で自分の分を確認しているとばしばし背中を叩かれた。そういえば、翔に叩かれたところが痛い。
「佐藤くん来ないからー俺もすげー心配したよー?」
「すみません、体調悪くって…」
「聞いた聞いた!ホント竹井くんには感謝しなよ?」
竹井さんの名前に明らかに心臓かざわめく。
そんな俺に気付かず、中村さんはべらべらと喋り続ける。
「佐藤くんの替わり、全部彼が他の人に頭下げて頼んでくれたんだから」
俺も替わったんだよ、とどや顔で言う中村さんに反応する余裕は今の俺にはない。シフト表に視線を戻して、名前がすぐに目に飛び込んできた。
「すみません、俺、ちょっと用があるんで」
失礼します、と店を飛び出す。呼吸がなんだか乱れている。鼓動もおかしい。
それでも足を動かし、たどり着いたのは公園。ベンチに腰かけ、深呼吸をした。
嬉しい、なんて…
今は冷静な判断ができなくなっていた。とにかく気持ちが高揚していた。
嬉しい。
他人が自分のために、こんなことまでしてくれたことが。
いや、他人だからじゃない。竹井さんだからだ。
竹井さん、だからだ。
会いたい。
竹井さんに、会いたい。
携帯を手にとり、電源を入れる。すると何通かのメールと不在着信のお知らせ。クラスメイトにまざっている、着信履歴。メール。留守電。
たった一件入っている留守電の再生ボタンを押し、携帯を耳に当てる。
『樹海くん。心配だよ、すごく。樹海くんの部屋で待ってるから、いつでも帰っておいで。…いや、早く帰ってきて。ずっと、待ってるから』
ぼたり、と涙が落ちた。嬉しくて。自分が情けなくて。色んな感情が混ざった。
まだ、竹井さんは待っていてくれるだろうか。
こんな俺じゃ、愛想つかれてしまうだろうけど、それでもいい。
竹井さんに会いたい。
会わなきゃいけない気がした。
涙をこすり、立ち上がると梅の花の匂いがした。春はすぐそこだ。
しかし、期待とは裏切られるものだ。
久しぶりについた我が家のドアノブを深呼吸してからひねっても扉は開かない。
インターホンを震える指で押しても返事はない。
感情はなかった。
何も考えられなかった。しばらくぼんやりと立ちすくんでいた。
ぽつりぽつり、と雨音が聞こえた。それはみるみるうちに勢いを増して、豪雨と化していた。
少し降り注ぐ雨を見て、俺は大家のもとを訪ねた。
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