日向雨
- ナノ -

海の輝きを見た日

頬を何かに舐められる感覚に、微睡んで夢に落ちていた思考が水面の上に持ち上げられる。
そこで漸く、自分が眠りについていたことを自覚する。
薄く瞼を開くと、差し込んでくる眩い光。
そして、潮の香り。
上体を起こして、匂いがする方へと顔を向けると、何処までも広がる青に何にも遮られない太陽の光が反射して煌めいている。
綺麗な海岸線だと、思考が停止した脳を揺さぶる。
そこで、体の上に不自然な重みがあることに気付いて視線を下ろして。
ぱちぱちと瞬いた。

「ガーディ?……オレの記憶にあるガーディと少し違うような……」

ガーディが圧し掛かってくれていて、どっしりと重たい。
そして見覚えのない景色以外に、もう一つ引っかかるものがあった。
「オレの記憶にある」という言葉を発した後にふと、この状況になった記憶を辿ろうとしたのだが。
寝る直前に何をしていたか。
それどころか自分は一体どこで、何をしていた人だったんだか。
思い出そうとしているのに、靄がかかっている。必死に記憶の引き出しを開けようとしているのに、
記憶が消されているような、そんな感覚だった。

「嘘だろ……」

名前は分かる。リクだ。
ポケモンのことも分かる。
相棒はブラッキーで、このポケモンはガーディによく似ている。
周囲を見渡して近くに居るポケモンでぱっと分かるのはニャルマー、ブイゼル、それからタマザラシ。
その辺りの知識も残っている。
人とポケモンは覚えているのに――。

「オレ、ここ来る前に何してた……?」

肝心の、自分が何者なのかという記憶が乖離している。
絶望出来るだけの考えがまとまらず、混乱のあまり硬直していると、心配そうにガーディが顔を覗き込んでくれる。
着の身着のままらしいが、他に何もないだろうかと身体を触ってみると、ベルトと、それに取り付けたハイパーボールはあるらしい。
このハイパーボールに入っているのはブラッキーの筈だ。
震える指でかちりとボタンを押すと、相棒であるブラッキーが出てきて、周囲を目にした瞬間戸惑うようにぐるりと一周して。

「ブラッキー……!」

それから飛びついてくれた。
あぁよかった。唯一の救いだ。
名前とポケモン以外の記憶が無くなって、見覚えのない場所に放り出されている中で、不安が少しでも和らぐような感覚だった。

「ガーディ!どこに……あら?」

人の声がして振り返ると、白を基調とした衣服を身に纏った、亜麻色のウェーブのかかった髪をまとめて束ねている女性がこちらに向かって小走りしてきていた。
その人がどんな人かはまだ分からない筈なのに、助かったと漠然と思ってしまった。

「ガーディはこの方を……助けていたの?貴方、もしかして漂流したんですか?いえ……濡れていないから、こんなに野生のポケモンが居る中で……寝ていたんでしょうか」
「……あの、オレにも状況がよく分かっていなくて。目が覚めたらこの海岸に居たんですけど、ここって何処でしょうか。オレには、全く見覚えのない景色で」
「群青の海岸です。……聞き覚えもありませんか?」
「どこだそれ……」

全く聞き覚えのない場所で、そこが故郷でないことは直ぐに分かった。
しかし、そうなるといよいよ自分の身に一体何が起きてこんな状況になってしまったのだろうか、だとか。
これから先、オレはどうしていけばいいんだ、だとか。
先のことを考えて、絶望するということをじわじわと思い出してしまう。

「嘘だろ……名前と相棒以外覚えてないし、オレが今まで何処で何してたかも分からない上に……知らない所に放り出されてるとか、どんな、悪い夢だよ……?」

血相を変えて頭を押さえている姿に、群青の海岸のキャプテンを任されているガラナは海岸線で倒れていたこの青年が不審者ではなく、本当に困り果てている緊急事態に陥っている人なのだと察する。
記憶喪失。

「……どうやらただならぬ状況のご様子。ガーディが失礼をしました」
「くぬん……」
「いえ、この子のお陰で助かりました。やっぱりガーディなんですね。ありがとな」
「……ポケモンが、怖くないんですね」
「?えぇ。ブラッキーとは家族同然ですし、よく捕まえたりバトルを……」

――よくポケモンを捕まえたり、バトルをしていた?
記憶の奥が揺さぶられるような感覚だったが、やはり記憶がこじ開けられる感覚はない。

「ブラッキー、お前が居てくれて本当に良かったよ。お前の記憶まで無くなってたら、オレはもっと途方に暮れてたよ」
「ブラッ!」
「嘘でも冗談でもなく、本当に困っているようですから……帰る場所もなく困っているようでしたら、まず長を呼びますので、話をしてみます」
「長?町長とか……そういう人ですか?」
「いえ、私たちはシンジュ団。宇宙と空間を作られたシンオウさまを信じ、シンオウさまと共に戦ったポケモンの末裔をお世話しています」
「シンオウさま……?」

やはり、聞く単語単語、全てに聞き覚えがない。
元々知らないのか、それとも忘れてしまっているのか。そのどちらなのかは不明だが、あまり馴染みのない言葉に聞こえた。

暫く待っているように、女性――ガラナから指示をされて、ポケモン達からあまり見られない木の陰で待機をする。
彼女に指摘された通り、ポケモンが怖いという感覚はないし、確かに野生のポケモンが襲ってくることは珍しくないが、ポケモンバトルをすればいいという思考だ。
それが当然だという認識はあるけれど、どうやらこの地域に住んでいる人はそうでもないらしい。

一時間ほどが経ったが、女性が戻ってこないことに『置いていかれたのではないか』という疑問は不思議となかった。
不誠実な人ではなさそうだったうえに、見るからに怪しい素性の自分の話に真摯に耳を傾けてくれたからだろうか。
そわそわとするブラッキーの背中を撫でて「今は信じてあの人を待とう」と声をかけて、海の煌めき方が陽が落ちていくにつれて変わっていくのをぼんやりと見つめていた時。
話し声が聞こえてきて、反射的に立ち上がる。

「ガラナちゃん、私を呼ぶなんてどうしたの?」
「カイ、ガラナちゃんとは呼ばないように言ってるでしょう」
「ご、ごめん」
「すみません、お待たせいたしました。ポケモンにも襲われてないようでよかったです」
「……そちらの方が、さっき説明してくれた?」

ガラナが連れてきたのは、陽の光を透かしたような輝く金色の髪と、眼前に広がる海のような煌めきの瞳の少女だった。
その強い光を宿した目は印象的で、一度見たら忘れられないような輝きだった。
彼女の足元に居るポケモンがグレイシアであることは分かる。

「こちらの方は群青の海岸で倒れていた方です。どうやら記憶が欠落しているようで、どうしてあの場所に倒れていたかも、分からないそうです」
「変わった衣装を身に纏っているが、漂流したのか……?」
「どうしてあの場所に居たのか……その経緯も、分からなくて。それで、君は……?」

長と話してくるとガラナは言っていたが、長の通達係だろうかと思いながら、その本音を伏せて確認すると、

「私はシンジュ団の長、カイだ」
「長だったのか……!えっと、来させてしまって申し訳ないです」
「……うん。彼女があなたを大丈夫だと判断したのなら、私も問題はないと思う。勿論、居てもらうだけの仕事とかはしてもらうつもりだが」
「それは勿論、当然ですから。えっと……ブラッキーが一緒なんだが、いいかい?」
「ブラッキー?」
「記憶のない俺が唯一覚えてる相棒……いや、家族だ」

足元に擦りつくブラッキーの様子と家族という言葉に、シンジュ団という団体の長だというカイの目は丸くなる。
ポケモンが怖いだとか怖くないだとか話していたくらいだから、家族なんて響きはあまりにも異質なのだろうかと今更自分の発言に気が付くが、ブラッキーが家族である事実に変わりはない。

「キミのこと、信頼できそうだ」

これが、オレとカイという女の子の出会いだった。