ヴァニラの純正
- ナノ -

endless

monotoneの菊流様よりいただきました!


「でもさ、もうチャンピンじゃないじゃん、ダンデって」

 聞き耳を立ててしまったのは、たまたまだった。自分の評価を聞くのは慣れていた。立場上、良い評価ばかりを聞くわけでもなかった。ナンバーワンの強さを証明できていたあの頃すら、聞こえていた声だ。多くの勝利を得た分、それだけの敗北を相手に刻んできたのだから、仕方のないこと。いや、ひとつの果たすべき責任だととらえている。
 だが、少々ずるくも聞き耳≠ネんて手段をとってしまっているのは。

「だからさ、そんな終わった男なんかより、未来ある俺のほうが君にも魅力的かなって」
「……」

 表情は見えない。だが知っている。そこにいるのは、恋人であるオルハだ。
 廊下の先から聞こえた恋人の声を道しるべについつい寄り付いてしまったが。

(まさか自分の恋人が口説かれているところに出くわすとは……相手は有名なモデル、だったか? 広告で見たことがあるな。さて、どうしたものか)

 彼女は自分の恋人だから諦めてくれ、と出ていって宣言することに抵抗はない。一度はそう足が動きかけた。だが、彼女の立場を悪くする可能性を考えたため、結局できずじまいだ。そこで立ち去ればいいものの、さすがに恋人としては心配で――そして聞き耳≠ノいたる。

(オルハのことだ。丁寧に断ってくれるだろうが)

 せめてそれまでは見守る、いや、聞き守るか、と決めた瞬間だった。

「――あなたの気持ちに答えることはできません」
「え」

 思わず、声が出た。
 いくらそこそこ距離があるといっても、声は出さないようにしていたのに。幸いあちらには聞こえていないようだったが、いやそんなことより。

「オルハさ」
「お話はそれだけでしょうか。それでは、お疲れさまでした」

 静かだが、棘がある声。わかりにくいが、いわゆる怒気のはらんだ声。初めて聞いた気がした声色にただ目を見開いて立ち尽くしてしまった。
 慌てて廊下を覗き込めば、オルハの姿はなく、ぽかんと立ちつくす相手の男が見える。気持ちはわかる、と変に同情しながら、ダンデは考える暇もなく飛び出していた。「え、あ、ダンデ!?」まったく後ろ髪を引かれない声を追い越して、追いかける。

「オルハ!」
「っ、ダ、ダンデ君!?」

 見つけた恋人は、エレベーターの前で額に手を当てて頭を抱えていた。「まさかさっきの見て!?」と手に持っていた書類を落としそうなほど動揺している。
 チン、と。軽い音がエレベーターから聞こえ、扉が開く。何か言葉を先にかけようかと思ったが、ひとまずオルハの腕をつかんで一緒に人のいないエレベーターに乗り込んだ。

「……やっぱり。よくなかった、よね」

 理由もなく、屋上へ向かう小さな箱の中で、オルハはぽつりと漏らす。

「私、決めてたのに。ダンデ君がチャンピオンじゃなくなったことに何か言う人がいても、受け止めるって。誰よりもダンデ君がそうしているから」
「そんなこと考えてくれてたのか」
「私も、そうしたいと思ったから。……でも、さっきは。男の人としてのダンデ君をよくなく言われてるみたいで、たまらなくなって」

 ごめんなさい、と彼女は謝る。そしてようやく、合点がいった。
 つまるところ。オルハは、チャンピオンとして、または、支配人としてのダンデではなく、ひとりの男としての自分がないがしろにされたことに、怒ってくれた、ということだろう。
――そう、それは。彼女が何よりも自分を男≠ニして見てくれているという、証明。

「はは、どうして自分が屋上に向かっているのか、今わかった」

 また、軽い音が鳴る。今度は、たどり着いた証明。
 罪悪感の残る顔色で、きょとんと首を傾げたオルハの腕をもう一度とる。


「この空の下の、全世界の人に、俺の恋人だって、自慢したかったからだ」


 万人に、チャンピオンとして見られる日々は終わった。悔しさはあれど、後悔はない。終わるべくして終わったのだから。
 そう、たとえ万人にみられる姿や呼称が変わろうとも。
――君だけには、いつまでも。男として見られていたいと望んでいる。

「だから、そうだな。俺はきっと嬉しかったんだ」

 驚いたように目を見開いた彼女は。屋上のさらに高みから降り注ぐ太陽を浴びながら、もっと熱く頬を染めていた。