紺碧片のオフェリア
- ナノ -

前夜を彩る灯


リアンヌ・サンドロットが残していったものは数えきれなかった。
今回の黄昏において敵側に回っていない結社のメンバー、それに加えてカンパネルラまで足を運び、多くの人に慕われ、看取られて。

彼女は永い、永い旅を終えた。
ヴァリマールとミリアムの呪いの枷を解いて、彼女達が喋られるようになるという最高の置き土産をして。


――鋼の聖女との戦いが繰り広げられている間、各地には疑似的な塩の杭と赤いプロレマ草が出現する異変が発生していた。
異変に一時騒然としたが、セドリック皇太子による呼びかけで民衆は戦争への高揚感に湧き上がる。
その光景は、あまりにも異常と言えた。
セドリックが帝国中に紹介した対共和国戦における最終兵器であると紹介した幻想機動要塞は、1200年前に地精が築いた相克の最終決戦の場だった。
帝国人全てに精神汚染という名の呪いを施し、無制限の戦争へと駆り立てる世界大戦が最高潮に達する中、巨イナル一という鋼を再錬成する為の場だった。

《大地の竜》作戦は明日の正午をもって開始される。共和国に宣戦布告や進行・殲滅が行われる。
8月31日の午後まで作戦会議は行われ、千の陽炎と大地の竜という二つの作戦の間を縫うような起死回生の一手を、打つ算段を整えたのだ。


「フラン、手、まだ痺れるか?」
「ううん、エマに治してもらったからもう大丈夫。……でも何だか、感触は、残ってる」
「……そうか」


クロスベルに位置するミシュラムへと向かうカレイジャスの中で、クロウはフランに傷が残っていないか確認していた。
鋼の聖女の攻撃を盾で防ぎきった時の反動は、見えていなかったとはいえ凄まじいものだっただろう。
フランの右手の手のひらを握ると、盾を強く握るせいか固くなっている。
左手の指には銃のトリガーに指を引っかける痕が付いていて、どれだけ頼もしい彼女であるかと思い知らされる。

(初めてフランがあの盾使った時って、俺の……オルディーネの攻撃を受け止めた時なんだよな)

フランの盾は、この帝国を蝕む呪いで呪われていた。圧倒的な防御力を誇るが、その分、代償として身を削るものだ。
それを知りながら、彼女は人では敵わないと分かっていながら、仲間を逃す為に騎神オルディーネの一撃を受け止めた。
何時だって目の光は真っ直ぐで、揺らがない。
トリスタ攻防戦の時は、本気ではない一撃でも持ち手の鉄の茨が伸びて腕に絡みつき、フランの腕を傷付けて倒れるくらいには消耗しきっていた。
それが今では。

(俺が決着をつけるって信じて、あんなとんでもねぇ一撃を防ぎきっちまうんだからな)

小さい身体でそこまで成してしまう彼女の頭をクロウはぽんぽんと頭を撫でた。
自分が居なくなった後も、死力を尽くして守り抜いた帝国を、フランは守っていくつもりだろう。
人から見たら、その愛情はあまりにも痛ましくて、報われないものに映るかもしれない。
それでも、クロウにとってはその愛情がどうしようもなく、嬉しくて、胸を満たす。

しかし、フランとしては相克等の最終的な決着をつける一戦は何時も起動者であるクロウが背負っていることだという引け目があった。
そこばかりは代わることは出来ない。何時だって命運を任されているのはクロウや、他の誰でもない重心たるリィン・シュバルツァーで。


「クロウも、仲間こそは居たけど……相手の規模を考えれば、修羅の道だったわよね」
「全部賭けて挑む博打って意味では――そうなんだろうな。つうか、それ言うなら俺が止める前のフランもだろうが」
「私はそこまでじゃなかったわよ。……いえ、大きなことが起こる前に止めて貰えたから、歯止めが効いたんでしょうね」
「自覚してくれて何よりだぜ。お前は、そこまで腹を括れちまう人間だろうからな」


引き止め方はあまりにも強引だっただろう。そうまでしなければ彼女は耳を貸さないとも思った。
反省はしつつも、フランを止められて良かったと実感して止まない。

──その結果、自分が居なくなったあとの世界で、彼女がどう生きていくのか。予感しながらも。


騎神、聖痕とメルカバ、それから魔女の力を組み合わせて生み出された巨大な結界はミシュラム全体に張られる。
今宵は持つだろう不可視の結界によって、決戦前の襲撃は防げる場所を作り出したのは、決戦前に身体を確実に休めて英気を養うためだ。
そして、心残りがないように、言葉を交わせるようにと。


「そういえばフラン君、いいのかい?」
「ふふ、クロウを激励して来てください、アンゼリカさん。……明日が、決戦の日ですから」
「……あぁ、そうだな」
「私は後で話しますので、心置きなく。ジョルジュ先輩も来たらいいですね」
「フフ、あの馬鹿は何時まで顔を出さないつもりなんだか。あぁそうだフラン君、今夜は折角だからホテルは私と一緒の部屋でランデブーを……」
「おいこらゼリカ、寝取ろうとするんじゃねぇよ」


聞き捨てならない会話に、騎神から降りてフランを探しに来ていたクロウは待ったを入れる。
隙あらば女子を口説こうとする親友の一人の悪癖は今に始まったことではない。ペースを乱すことのない何時もと変わらない調子は、その実心強くはあるのだが。
それは言わぬが花だとクロウはアンゼリカに絶対に言おうとしなかった。


「ルームキーは俺が貰っておくから、戻る時にでも一緒に行こうぜ」
「えぇ、分かった。前日だからって、あまり飲み過ぎないようにね?」
「フランもなー下戸だから直ぐ酔っぱらっちまうしな」
「……多少は強くなったつもりなんだけど」
「いやどこがだよ」
「……クロウにこんな可愛らしい恋人が居ることが悔しいったらないね。あれだけモテない、モテないと嘆いていたあの口が」
「まぁまぁアンちゃん」


何時ものような会話。
それでもアンゼリカも、トワも。
一年生の頃の何処か空虚に映ったクロウを知っているからこそ、彼を理解した上で支え合える彼女が居ることを心底喜んで。――どうしようもない現実に、寂しく思って。
だからこそ今日はこうして笑い合う。
悲しい別れではなく、楽しい思い出を刻んでいく為にも。

その会話の様子を遠巻きに聞いていた男は、とんとんとフランの肩を後ろから叩く。
振り返ると、にやにやという単語がよく合う程に笑みを浮かべているランディと、興味深そうにその様子を眺めているエリィとティオが覗き込んでいた。


「リィンから話は聞いてたんだが……成程な」
「はい?」
「えぇ……この関係性、そこはかとなく既視感があります」
「ふふっ、ねぇ、ランディ?」
「アイツと俺は元同僚だっつーの」


ランディは自分と似ている性格であるというクロウとフランを眺めて、再確認をする。
不思議そうに首を傾げたフランに遠回しにランディが何を言っているのか気付いたエリィとティオも、既視感のある関係性に頷く。
ランディとミレイユ。一見正反対の性格に見える両者の間にある信頼関係は彼らの在り方と似ているという直感は間違っていないだろう。


「ランディさんのようなタイプの方に振り回されるとなると、色々と大変でしょうね、フランさんも」
「えっと、もしかしてクロウのことでしょうか……ふふ、確かにランディさんと似たタイプなのかもしれませんね。一人で無茶しそうな所も含めて」
「うっ」


自覚とミレイユやロイド達に散々言われてきたことを思い出し、ランディは苦い顔に変わる。
「体験談ですけど、あまり無茶はし過ぎない方がいいですよ。心配しますから」というフランの的確な指摘に、ぐうの音も出ないランディを挟みながらティオとエリィはくすくすと笑うのだった。


――ミシュラムワンダーランドのアーケードに向かって歩きながら、クロウは夕暮れを仰いで溜息を吐く。
それは物憂げなものというよりも、どこか緊張を滲ませたものだった。
最後のひと花を咲かせる前夜――時間切れに対する惜しいという感情からくるものではなかった。


「クロウ君?どうしたの?」
「いやー……なんか、緊張すんな」
「……クロウ。まさか」


クロウが緊張する、とあまりにも珍しい言葉を呟いた違和感に、アンゼリカは暫く考え込み。
無言でクロウの足を足蹴する。何を言っているのか気付いていないらしいトワは首を傾げるばかりだ。
見事に今日、クロウがやろうとしていることを察したらしいアンゼリカに「この女は」とクロウは目を開く。


「お前は本当にそういうの目敏いな!?ま、褒められた行為じゃないかもしれないが……アイツには、必要だと思ってな」
「……?」
「……悔しいが、それには同感だ。複雑な気分だろうし、アーサーには言わないでおいてやるさ」
「アーサー君?」
「というか最終決戦の前日くらい、アーサーも気の利いたことをトワにすればいいんだが」
「ははー、言えてるぜ。あの朴念仁」
「アンちゃん!?クロウ君!?」


親指で後ろを指さした先に居るアーサーは、結界を張ったひと仕事を終えたローゼリアと話しているようだった。
「アイツ、ちびっ子に懐かれやすいのか?」というクロウの指摘に、自分も該当していると気付いたトワは「もう!」と声を上げるのだった。

――ミシュラムはユウナの父をはじめとする協力者の力もあり、貸切の通常運営をしていた。
花火や一部の各種アトラクションにビーチなど。そしてビーチには、酒を嗜む二人の大人の姿があった。
旧知の仲であるサラ・バレスタインとフランの兄で当主であるルッソ・フェルナンド・ラングリッジの姿だ。
フラン達が挑んでいた鋼の聖女との戦いの前。カレイジャスUに居た筈の彼は、使用人であるチェフと共に「用事を片付けてくる」とだけ告げて緊張感のない笑顔で手を振り、転移術で姿を消していた。


「アンタ、指令室を少しの間外してたけど、どこ行ってたの?」
「勝手な行動とは承知の上で、ラングリッジ邸にね」
「……帝都もプロレマ草が出てるって言ってたけど、どうだったの?」
「呪いに呑まれた使用人も多数。流石に魔法では人の感情を揺らがす呪いまでは変えられない。呪いにまだ呑まれてなかった執事長は、意気消沈してたよ。息子が、……戦争に対してどうしようもなく乗り気な上に、明日出兵するってことでね」
「成程ね。ルッソのとこも、切羽詰まってるってわけね」
「冷たいかもしれないけどさ。俺は彼らに関しては"万が一止められなかったら仕方がない"って割り切っているんだよ。勿論、救えた方がいいけどね」


黄昏が始まった当初は光まとう翼に協力的な兄妹が揃っているラングリッジ邸は監視をされていたが、今はもうそんな些細な問題に注視するほどの状況ではないのか、警戒は薄かった。
ラングリッジ家に代々仕える使用人たちの状態は、一言で言えば悪化をしていた。
本人が呪いに蝕まれた発言をしているパターンと、本人ではなく家族が戦争に前のめりになっているパターンと。
人を大事にしているような態度が上手いルッソが、そこまではっきり言う原因をサラは間近で見て来た。


「フランのことね……使用人のあの子から聞いたけど、昔フランの毒殺に加担しようとしてたらしいじゃない」
「何せ彼らにとって、フランっていう女児は凶兆――一度除名されたのもあってラングリッジ家の者ではないみたいだからね。俺はそういう帝国の呪いで煽がれた感情、で片付けて欲しくないんだけどね」
「……本気で怒れるんだから、アンタはあの総督とは似てないわね」
「そういえば社交界では俺、ルーファスさんと並んでよく言われてたんだっけ?胡散臭さも含めて」
「あーそこは自覚があって何よりだわ。頭のキレと実力はともかく……アンタは家族を捨てない。そこだけは美徳ね」


サラの厳しい突っ込みにルッソはグラスを傾けて酒を喉に流し込みながら、肩を竦める。
歴代で二番目と名高いほどの魔導士で、帝国の裏で処理してきたものだって数えきれない程にあるけれど、根から非情になり切れない所があるから、彼はオリヴァルトに協力することを選んだのだ。


「騎神による争いの記憶を魔女に消されない語り部のくせに、あの幻想要塞だって知りはしない。肝心の黄昏も、フランやその彼に託すしかないなんて――本当に、歯がゆいけどね」
「……珍しく弱気じゃない。食えないアンタがその様子だと、調子狂っちゃうわ」
「えー、こんな日くらいは慰めてくれてもいいんだよサラさん」
「はいはい、口だけは達者ね」


年上らしく、サラはルッソの背中を叩いて「もう一杯くらい付き合いなさいよ」と穏やかに微笑む。
そんな二人の関係性に、後からやって来たシャロンはくすくすと笑い、「お二人は本当に仲が宜しいんですね」と指摘するのだった。


――約束をしていたエマやアリサと合流する為にアーケードを歩くフランの後姿に気付いたリィンは駆け足で近寄る。
彼女が今日一日過ごす相手は誰もが解っている。
だからこそ、彼と居ない時間に、言葉を交わしておきたかったのだ。


「リィン。まだアーケードに居たの?」
「フラン、明日は――」


明日は頑張ろうな。よろしく頼むぞ。
そんな簡単な言葉が突っ掛って出て来なかった。

リィンの優しさに気付いたフランはリィンの肩に手を乗せて、噛みしめるように「ありがとう」と呟く。
その声音に、どうしようもなく泣きたくなる。

お互いにとって最初で最後の恋人であるクロウ・アームブラストとゆっくり過ごせるのはこの一日しかないのだ。
あまりにも短すぎる。あまりにも早すぎる二度目の別れが迫っているのに、明日は頑張ろうなんて言葉をかけていいのかと息が詰まる。


「明日の相克、何が何でも終わらせましょう。何処まで出来るかは分からないけど……昨日みたいに、全力で一緒に戦うから。"その時"まで」
「――あぁ、頼むフラン」


強がっているのだとしても。
彼女の芯の強さは何時だって眩しく映るほどだ。
二年前のクロウとの戦いを目前にした時だって。現実から目を逸らさずに正面から向き合って、受け止めていた。
小さな背中で様々な物を背負いながらも、視線を逸らさず、己を見失わず。


「フラン」
「なに、リィン?」
「最高の一日を過ごしてくれ」
「ふふっ……ありがとう」


リィンを見送ったフランは足を止めたまま、アーケードの天井を仰ぐ。
不思議と、心は落ち着いていた。最後の日になることは分かっている。
逝かないでほしい――そんな本音がないと言ったら嘘になるけれど。もう一度会えたこと自体が奇跡のような日々だった。


「ちょっといいかしら、フランちゃん」
「……ヴィータさん。直接こんな風にお話するのって、初めてかもしれませんね」
「えぇ、お互い立場というものがあったから。一度ゆっくりと話しておきたかったのよ」


フランを探しに来たのはリィンだけではなかった。
ヴィータ・クロチルダ――内戦時のクロウ・アームブラストの葛藤も覚悟も、Z組の仲間が見られないその姿を見て来た人。

共犯という形にはなるが、蒼の起動者としてクロウを導き、そして目の前で若い命が散ったその瞬間を防げなかったという負い目も、ヴィータの中にあった。
人との関わりに大して細心の注意を払っていたクロウが、一人の少女を愛して、その上で互いに譲れないものの為に衝突してきた姿を見て来た。
邪道も知っている筈なのに、自分の正義を貫いて真っ直ぐ前を進み続ける子。


「あの時のことだけれど――」
「謝罪なんて、しないでください、ヴィータさん。貴方のお陰でクロウは、自分の成したいことを出来たんでしょうから。クロウを導いて下さって、ありがとうございます」
「……ふふ、本当に強い子ね。クロウが手放せなくて、エマが親しいのも分かるわ」


クロウからも、そしてエマからの話によく出てくる彼女の輝きを見れば見る程、思って止まない。
本心を器用に裏側に隠してしまえる彼の輪郭を見失わず、時に痛みを伴いながらもその手を掴めるのは、貴方だからこそなのだろうと。


「鋼の聖女を看取った後だからこそ……辛い道だから、敢えて聞くわ。貴方は今も、クロウを愛しているのかしら」


ヴィータの問いは、重要な再確認だった。
愛した人の大切にしたものを守るための、女の意地。聞こえはいいかもしれない。
しかし、その愛情は彼女自身を、そして未来を苦しめるかもしれないのだから。

彼女の問いの真意を理解した上で、それでもフランは迷わなかった。


「はい。……本人には気恥ずかしくてあまり言えないですけど、一生で一度の恋ですから。――この先も、ずっと」
「……ふふっ、それを聞いて安心したわ。クロウも隅に置けないわね」


愛という呪いとなって、振り返ることも許されない孤独な道を彼女は進むことになるかもしれない。
素足で茨の道を突き進み、痛みで足を止めることもなく、ひたすらに前に進み続ける未来。
それでも、クロウとフランという二人の関係性を否定することはもう出来なかった。

ヴィータは優しく、姉のような笑みを浮かべる。少し屈んで、あやすようにそっとフランの頭を撫でた。
丸い、宝石のような瞳が見開かれてヴィータを見上げる。
以前彼女に与えたのは、盾の呪いと反発する強力な呪い。

しかし、今回は。

「今回は、幸福を祈らせて頂戴」

――等身大の恋をした貴方たちに、幸あれと。