「幸せになってください」
その言葉は私の足に鎖のように巻きついて離れなかった。
***
「久しぶりだな!」
「なまえチャン、久々ァ」
「みょうじさん、お久しぶりです!」
大学3年生の夏、久しぶりに高校時代の部活の仲間たちと集まる。
「泉田、元気にしてた?」
「はい!みょうじさんもお元気そうで何よりです」
同期や後輩と久しぶりの挨拶を交わしながら店に入り、酒を飲める人は酒を、飲めない人はソフトドリンクを。乾杯、の発声を東堂がして暫く、たまたま、なのか、何かを感じたのか、ふと、個室の扉の方に目をやった私の時間が止まった。
「………」
遅刻魔。変わらないんだから。
「すみませーん、遅れちゃいましたぁ」
久しぶりに耳を撫でるその声に、心臓がうるさく音を立てる。
「ったく、お前は相変わらず遅刻して来るんだな」
黒田のそんな言葉に。
「へへへ、山登ってたら、つい」
頭をかいて答えるその顔、その声。前に進めていない私を、誰か笑ってくれたら楽なのに。
「お久しぶりです」
どうして、こんな時に私は端っこの席に座ってしまったんだろう。この空間で唯一の空席になっていた私の隣に、私にしか伝わらない気まずそうな笑顔を浮かべながら彼は腰掛けた。
「……久しぶり…」
彼、真波山岳と付き合い出したのは私が高校3年生の7月のこと。インターハイを目前に控えた暑い夏の日、レギュラーメンバーとの最後の合宿を終えて学校に戻ってきた日のことだ。
寮暮らしだったみんなと別れて自宅組の真波と帰っている途中に立ち寄ったコンビニで二人でソーダ味のアイスを買って。
アイスが溶けて、私の手に滴り落ちる寸前、可愛い顔をした後輩の男の子らしいその手に掴まれて、彼の口が私のアイスをとらえた。
「へへ、アイス、落ちそうだったから」
いたずら顔で笑ってそう言った彼の瞳に吸い込まれたのか、それとも彼の瞳がこっちに迫ってきたのか、今考えてみればどっちもだったのかもしれない。どちらからともなくキスをして、私たちは先輩、後輩という関係から彼氏、彼女に前進した。みんなには秘密の恋愛。それでも幸せな二人の時間が始まった。
「なまえさん、ごめんなさい、別れてください」
それから楽しく過ごせたのは1ヶ月だけだったかもしれない。
あの夏、箱根の山で私は彼の懸命の走りを目に焼き付けた。一番最初に辿り着けと何度も願った。でも、ゴール前、3日間で一番の歓声が湧き上がったあの瞬間、私の3年間青春を捧げてきた夏は終わったのだ。
事実だけ言えば、結果だけ言えば、真波は『負けた』
私は3年間の全ての想いを選手たちに託した。IHに出られない選手はレギュラーメンバーに想いを託し、リタイアした荒北や泉田は残りの4人に想いを託し、スプリンターとして彼らを引いた新開は残りの3人に想いを託し、最終的に福ちゃんや東堂、その他全員の想いを一人で背中に乗せてゴールを託されたのは、箱根学園初の1年生レギュラー、真波山岳だった。
立派な走りだった。キラキラ輝いていた。もう、私は、それで十分じゃないか、とも思った。みんなが全身全霊をかけて走り抜いた。でも僅か数センチ、届かなかった。でも、それでも、私にとってはキラキラ輝いた夏だった。
でも、王者箱根学園はそれではいけない。
IHの後、真波が纏う空気は変わった。彼が背負ってしまった十字架を一緒に持ってあげたいと、自転車とは関係のないデートに誘ってみたり、自主練に付き合ってみたり、とにかく私にできることを探しては支えたけれど。
「俺、今自転車以外のこと大切にしてる場合じゃないから」
俯きがちに、卒業式の日に告げられたそれは、IH後からずっと覚悟していた言葉だった。
「なまえさんのこと、幸せにできないから」
それでも、あの夏の後も、たまに彼が私に見せてくれた表情に込められた「好き」は勘違いじゃなかったと思いたい。
「幸せになってください」
何も言えなかった、なんてずるいお別れの言葉だったんだろう。
結局、私は真波への想いを消すことができていない。
東京の大学に進学して、新しい出会いを探したりもしたけれど、私の幸せは、この掴み所のない山バカなクライマーの彼の隣にしかないのだ。なんて、どうしようもない結論に至っては恋を諦めるそんな夜を何度過ごしてきただろう。
私はあの後IHに顔を出しても彼と会う前に逃げるようにその場を立ち去っていた。彼の隣にいられないという現実を見るのが怖かったのだ。
「なまえさん、元気にしてましたか?」
そんな彼との3年ぶりの再会。ここに来る前何度も何度も『いい先輩』の練習をしたのに。
「……うん」
思わず、付き合っていた頃の「山岳」という呼び方が顔を出しそうになっては言葉を飲み込む。
結局「うん」しか言えなかった私に眉を下げて笑った真波は話を続けた。
「なまえさん、お酒飲めるようになったんですね」
「うん…も、ハタチ、過ぎたから…」
「そっかぁ、大人だなぁ」
「あはは…」
苦しい、誰か、席、代わって。
「…わ、私、久しぶりに黒田と話してこようかな」
ちょうど葦木場がお手洗いで席を立った、その隙に黒田の横に移動してしまおう、ごめんね、葦木場。
そう思いながら目の前のカシスオレンジを手にとって立ち上がろうとしたその瞬間、懐かしいあの手が私の腕を掴んだ。
「待って」
「ま…な…」
「なまえさん」
「……っ」
「ふたりで、抜け出しませんか?」
昔、私を呼んでくれたその声で、そんな風に呼ぶなんて、やめて。忘れられなくなる。
「俺、話したいことがあるんです、だめ?」
ギュ、っと小さく力が入るその手から伝わる熱に絆されそう。
「………わかっ…た」
***
「先、外でてます、その先の公園で」と真波が私に耳打ちしてから5分後、「ちょっと酔っちゃったみたい、外出てくる」と正直に近くにいた銅橋に声をかけて公園へ向かうと、ギー、と音を立ててブランコが揺れていた。あの背中は、あの頃からいくらか大きくなった彼の背中だ。
「……なまえさん」
私の足音に気がついた真波がブランコを止めて振り向く。
「…おまたせ…」
隣のブランコを指差し笑う彼は、多分、私も、ブランコに、と言っているのであろうと、何年ぶりかのブランコに乗る。
「懐かしいですね」
「え?」
「たまに、帰り道公園に寄ってブランコ乗ってましたよね」
「……そうだね」
ブランコに乗って真波の話を聞いたり、私の話を聞いてもらっ…聞いてはいなかったと思うけど。
「なまえさんよく喋るから聞くの大変だったなぁ」
「嘘だ、聞いてなかったでしょ」
「あ、バレてました?」
ギーー、と錆びた音が二つ、静かな公園に鳴り始める。
「でも、ちゃんとなまえさんが俺のこと好きって言ってくれてる時は聞いてましたよ」
「……そ」
「なまえさんは俺の話ちゃんと聞いてくれてたけど」
「うん」
「懐かしいなあ……」
返すべき言葉がわからなくて黙り込む私をみて小さく笑いながら、真波は無言でブランコを揺らした。
ギー…ギー…二つの音の懐かしさが心を揺らす。
「なまえさん」
そんな沈黙を破ったのは、やっぱり真波だった。
「彼氏、できました?」
「え?」
「幸せになれましたか?」
「な…に…」
「誰かに、幸せにしてもらってる?」
真意がわからないけれど、その質問は私の心を抉るには十分すぎる。
「真波には関係ないでしょ」
「ある」
「ないよ」
「ある」
「なんで」
「俺、なまえさんのこと、忘れられない」
その言葉と同時に真波はブランコを降りて私の前に立った。
見上げれば真っ直ぐで真剣な瞳がこちらを見ている。
「……そ、な…真波が、言っ…」
「うん、そうですよね」
「私、しょうがないって…おも…」
「うん」
「いまさら…」
「なまえさん、IH来てくれてたのに会いに来てくれないし」
「……」
「俺のこと応援してくれてたでしょ?」
「別に、真波のことだけじゃな…」
「俺が別れようって言ったのに、なまえさんがいなくなってからずーっと、ここに大きい穴が空いてる感じ」
心臓のあたりに手を置いて首をかしげる真波を見つめる。
「なまえさん」
その手を私のブランコまで移動させて、両手でブランコの鎖を掴んで。
「ごめん、やっぱり別れたくない」
「……今更すぎるよ」
「うん、ごめんなさい」
「……バカじゃないの…」
「うん、知ってる」
本当、馬鹿じゃないの、私も、真波も、本当、もう、3年も経つのに。
「なまえさん。泣かないで」
「っ…馬鹿、山岳」
「うん」
「幸せに、なんて、なれない」
「うん」
「山岳の隣じゃなきゃ無理だよ…っ…」
「うん」
「本当、ばか」
「ごめんね」
「別れたくなんて、なかった」
「うん」
「ずっと、そばにいたかった」
そこまで言って、真波の香りに包まれる。
さっきまで鳴っていたブランコの音も、もう、止まった。
「やっぱりなまえさんが他の人に幸せにしてもらってるなんて嫌だなぁ」
「ん…」
「だから、俺が幸せにしたいです」
彼の腕に力が入って、それに応えるように私も彼の背中に腕を回した。
「…うん…」
ギュ、と抱きしめられていた腕が緩んで彼の顔を覗き込めば、大好きな笑顔で。
「俺の隣で幸せになってください」
「うん」
私の返事を聞いた彼は、嬉しそうに口元を緩ませた。
長い長い遠回り、また一つずつ二人の速度で始めよう。次は彼に手を離してと言われても離さないように。
そんなことを考えながらもう一度彼に抱きつくと、安心したような明るいため息降ってきた。
「よかった」
「ん?」
「長かったなぁ」
「うん」
「……やっと言えた」