「青空と傘の中」/健良夢読切
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雨音は徐々に強まり、アパートメントの窓を叩きつけるように激しく鳴った。ガタンと風音がする度に彼女が来たんじゃないかとドアの方を見る仕草を、もう何度繰り返したかわからない。
「ジェン、入るよー。すっごい雨だねぇ」
ようやく訪れたキミは、期待していたよりも控えめな音で僕の部屋に入ってものだから、不意を突かれて出迎えるのが遅れてしまう。大丈夫?と聞くと、ずぶ濡れだというのに楽しそうに両手をぶらぶらと振って雨水を切った。
「大丈夫じゃない。ジェン、タオルとって」
「その割になんだか楽しそうだけど?」
言われるよりも先に用意していた大きなタオルをなまえの肩にかけると、「拭いて」とでもいうように上目遣いで見つめられ、可愛くてつい顔が弛む。ふわふわのタオルで頭ごと包んで、やさしく髪の毛を拭く。
「だって、夏のスタンフォードでこんな大雨って珍しいじゃない。大学に入って初めてかも。日本の梅雨を思い出すなあ」
「もー……そんな呑気な事言ってる場合?待っている方の気にもなってよ。そんな薄着で、傘もささないで」
だって傘、売ってなかったし。両手で頬を包み込むように拭くとなまえはそう言って、タオルの中でバツが悪そうに口を尖らせた。
高校を卒業後、カルフォルニアの大学へ進学して2年目になるが、確かに日本のようにコンビニの店先に傘が売っているような光景はほとんど見た事がない。夏季なら数ヶ月雨が降らないなんて事も珍しくないせいだ。
日本にいた頃、雨の日には必ず思い出してしまうなまえとのエピソードがあった。
あれは、二人がまだ中学生だった頃。僕はキミへの片想いを、小学生時代からずっとこじらせたままでいた。ーーーまさかその先も告白すらできなくて、中学を卒業し、高校も卒業して、大学生になってやっと交際をスタートさせる事ができたなんて、色んな意味で夢にも思っていなかったけど。
僕らは別々の中学に通っていたけど、試験前になると互いの家でよく勉強会をしていた。あの日も待ち合わせをして、家へ向かう途中だった。
突然の雨に、キミが「傘、持ってる?無いなら一緒に入ろうよ」と、自分のを差し出してくれた。
スクールバッグの中に折りたたみのがあったのに、好きな女の子との相合傘に心が揺れてしまった僕は、傘を忘れたフリをして肩を並べた。
キミに嘘をついた罪悪感で、その日から半年は顔を合わせるのが気まずかった。そんな後ろめたさのせいなのか、傘の中の情景は今でもありありと思い起こせる。
世界が泣いているみたいな大雨だったのに、やさしい色をした傘に守られている僕らだけ切り取られたみたいに幸せだった。
濡れないように肩を寄せ合って歩くせいで、すぐ横にキミがいて、なんだか良い匂いがして。うれしいのに恥ずかしくなって、折りたたみ傘があった事を思い出したフリでもして離れてしまいたかったけど、ぐずぐずと抜け出せなかった。
勉強を教えて、とか。パソコンで聞きたい事がある、とか。キミがいつも僕を一番に頼ってくれるのが嬉しかった。告白して振られたら、そんな関係が壊れてしまうのが怖かった。
傘を持ったのは、背の高い僕の方だった。いつもは近いのに遠いキミが、まるで二人だけの世界にいるみたいで、胸が詰まった。
好きな子に嘘をついて、あの幸せを手に入れた。それが自己嫌悪だったんだけど、キミはきっともう覚えていないんだろうな。
「ジェン、拭いてくれてありがとう」
「いいって。…でもなまえ、髪は乾いたけれど、さすがに服まではタオルじゃ乾かし切れないよ…着替えてくるか、一度拭いたけどシャワーも入ってきたら?」
「うーん……じゃあ、服だけ替えてこようかな。ジェン、貸してもらっていい?」
雨に濡れたタンクトップが白い肌に張り付いて、心臓が波打つ。僕が脱がせてしまいたくなるのを抑えて、クローゼットから洗い立てのティーシャツとハーフパンツを渡す。
勉強会の甲斐もあってか、僕は目指していたスタンフォード大学へ、そして彼女もカルフォルニアにある別の大学に合格した。
互いに志望校を知らずにいたから、高校を卒業したら気軽には会えなくなると思っていたのに。まさかなまえも留学を希望していて、しかもカルフォルニアだったなんて、知った時はすごく驚いたっけ。
同じ街からやってきた、同い年の僕達。恋人になってからは友達の時以上に、よく僕の部屋に来てくれた。だけどあまり私物を置いたり入り浸ったりしないところが、誠実な彼女らしさだ。
歯ブラシくらいは置いてあるものの、洋服は明日の分しか無かったらしく、僕の服に着替えたなまえが別室から戻ってきた。
「…雨の日にさ、思い出す事があるんだけど」
サイズの合わないティーシャツをすこし持て余しながら、僕の座るソファーの隣に腰を下ろしたキミへ、試すように切り出す。すると、僕の腕にぎゅっと抱きついて、なになに?と楽しそうに白い歯を覗かせた。
なまえはいつも僕の話をすごく楽しそうに訊く。あまり自分の事を話さないから嬉しいのだと、前に言っていたっけ。
「……覚えてないかな?」
勿体ぶって訊くと、うーん、と唸りながら僕の肩にコツンと頭を寄せた。ふわり、あの日も傘の中で香った、キミの匂いがする。だけど今はもう、嘘なんかつかなくたって、こんなに近くにいられる。
そう思ったら胸がギュッとなって、なまえの額にキスを落とした。キミはやわらかく笑って、腕から解いて今度は僕の腰に手をまわす。そして僕の胸の上に頬を寄せたまま、のんびりと思い出すように口を開いた。
「もしかして、勉強会のときのこと?」
「……勉強会って?」
「高校受験のとき。ジェンのお部屋で勉強してて…外は雨が降ってて…。私、あの日にジェンが好きだって気付いたのよ」
それは、僕の持っていた答えとは異なる、”雨の日の話”だった。
それに、初めて聞く話だった。
聞いたことがなかった。キミが、いつから僕を好いてくれていたのか。
気にならなかった訳じゃない。だけど小学生の頃からの片想いが叶った僕は自分でも分かるほどに舞い上がっていて、聞きそびれたままでいた。
「目の前のプリントに行き詰まって顔を上げたらね、ジェンが真剣な顔で勉強してて…かっこよくて、心臓がぎゅっとなったの。その時、気付いたの。私、ジェンのこういう顔、あんまり見たこと無かったかも、って…。どうしてだろうって思い返したら、ジェンっていつも優しい顔で私を見ていてくれたって気付いてね。外が雨なせいで静かで、自分の心臓の音だけがすごく大きく聞こえたの、今でも覚えてる。ああ、だから私、この人といるといつも優しくいられるって、気付いたんだ。まるで、ジェンといると傘の中みたいって」
ぎゅ。僕を抱く腕に力を込めて、なまえが言った。どんな顔をしているのか、僕の胸に顔をうずめているせいで表情は見えない。
「そう思った途端、一気にジェンのことを男の子として意識しちゃって……、こんなにやさしくて、頭がよくて、かっこいい子って他にいるかな!?って、どんどん好きになっちゃった…変だよね。そんなの、ジェンは最初からずっと変わらないのに」
表情は見えないけど、ドキドキと胸が高鳴る音が聞こえる。でも、それがキミのものなのか、僕のものなのか、わからない。どちらでも良いし、そんな事いちいち考えなくていいくらい、ひとつになりたいと思った。
「その日から、ジェンへの気持ちに気付いて…高校3年間は私の片想いっておもってたから、こっちにきて告白してくれたときは、びっくりしたなぁ……って、ジェン?どうしたの?」
我慢ができなくなって、キミの肩を掴んで身体から離す。やっと見れたその表情は、白い頬が真っ赤に染まってる。
「……すきだよ」
「…ジェン、顔が真っ赤だよ」
「キミに言われたくないよ」
「だって、思い出したら照れ臭くなっちゃった。…あれ、もしかしてジェンの言う『雨の日に思い出す事』、これじゃなかった?」
言い終わらない内に、今度は僕からぎゅっと抱き締める。大好きで、大切で仕方なくて。僕はきっとこれから、雨の日に今日の事を思い出すだろう。
「むかしテリアモンが、ジェンは青空みたいって言ってたのよ」
翌朝。きのうの雨が嘘みたいに晴れたカルフォルニアの青い空をベッドの中から眺めて、なまえがぽつりと呟いた。
「あの時はなんとなくわかった気でいたけど、今はもうすこしわかるなぁ。だって、”傘の中”と真逆のようで、つまりおなじことだよね」
青空。傘の中。じゃあ、僕にとってキミは何だろう。朝日にきらきらと揺れる笑顔を見つめて、ぼうっと考える。それを確かめるようにもう一度キスをしようとシーツの中でキミに身を寄せると、足元に何がが絡み付く。何だろうと思って引っ張り出すと、昨夜僕が貸したティーシャツだった。くしゃくしゃに丸まってしまったそれを、ふたりで顔を見合わせて、思わず笑った。
この街であんな雨は、もうしばらく降らないだろう。だから僕は答えをゆっくり探す。僕にとってキミが何なのか。自分の中では揺るぎないけれど、ちゃんと言葉にできたらと思う。
それが見つけられた時、もっと遠い将来まで誓いたい。キミはまた、笑って訊いてくれるだろうか。
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