- ナノ -

「いよっ、頑張ってるか?」

 その日、お台場中学校は定期試験前の部活動休止期間だった。そのせいか、三年生になった俺にとって通い慣れた校内が見知らぬ場所に見える程、廊下には生徒が疎らにいるのみだった。
 パソコンルームの扉を開けると、俺の予想通りそこには光子郎がひとりでいた。差し入れのつもりで買ってきたペットボトルの麦茶を差し出すと、ああ、太一さん、と言って顔を上げた表情の柔らさからして、どうやら取り掛かっている作業がひと段落したようだった。


「随分、余裕じゃないか。放課後になった途端みーんな帰っちまってるってのに、お前はひとりでパソコンルームかよ」
「今やっている作業を、ある程度の所までは進めておきたかったので…。太一さんこそ、こんな時にどうしたんです?なにか僕に用事ですか」
「いや、別に用事ってわけじゃ」
「え…じゃあ、こんな所で油を売ってる場合じゃないんじゃないですか。大丈夫なんですか、試験勉強」

視線を宙に泳がせた俺を、光子郎は眉を寄せて咎めた。年下のくせして、こいつは時々母親のようだ。
大丈夫なワケないだろ、と返せば、光子郎はすこし考えてから「もしかしてなまえさんの事ですか」といきなり核心を突いた。
 違うと言えば嘘になる。だけど別に光子郎に相談に来たわけでも慰めてもらいたかったわけでもない。ただなんとなく、このまま帰宅する気にもなれず、かといって勉強なんかする気にはもっとなれなくて、ぶらぶらとここに足を運んだだけだった。
不意をつかれた俺が動揺していると、光子郎は「やっぱり」と言って、呆れたように眉を下げた。


「…何かあったんですか?」
「何も無ぇーよ」

むしろお前の方が知ってるんじゃないのかと聞きたくなる。なまえが時々、同級生である光子郎に相談しているのは俺もわかってる。
でも、その内容を二人に聞くつもりは今も、そしてこれから先も無い。

「何も無い…何も無いんだよ本当に。むしろ無さすぎてっていうか」
「何ですかそれ…相談事なら、第三者にも分かるように具体的に言ってくださいよ」
「…付き合って半年経つんだぜ、俺たち。それなのに何にも無いんだ。アイツほんとに、俺の事好きなのかな」

別に、相談に来たわけじゃない。
だけど思わずひとりごとのように溢してしまった。

俺の呟きをどう受け取ったかは分からないが、光子郎は数拍あけてから、気まずそうに視線を泳がせた。

「太一さん、僕そういう話は…相談されてもちょっと」
「はー・・・わっかんねぇな、女の子って」
「本人に聞いたら良いんじゃないですか」
「そーんな女々しい事ができるかよ」

俺の深いため息に、光子郎は困ったように眉を下げ俺の渡したペットボトルのキャップを捻った。

 なまえとの事は、焦る事じゃないと思っていた。向こうから告白してくれたという安心感も俺にはあったのかもしれない。

 去年のクリスマスイヴ、なまえが俺に好きだと言ってくれた。それで初めて自分の気持ちに気付くだなんてのは格好つかないけど、他の仲間や家族に抱くのとは明らかに違う、なまえにだけ感じる感情は俺の中に確かにあった。後から思えば一目惚れだったと思う。つまり、俺の方が先に好きだったのに。
返事は今じゃなくて良い、しなくても良いとすら彼女は言ったが、そこから俺たちの新しい関係がスタートした。照れ屋で、ちょっと素直じゃない所がある彼女だけど、俺はそんな所も可愛くて仕方なくて、益々のめり込んだ。

俺だって男だ。好きな子を幸せにしたいって思うし、触れたいって思う。別に、おかしな事じゃないだろう。
彼女の部屋で二人になったあの日。キスしようとした。
だけどなまえが目に涙をいっぱいにためて、「ごめん、無理」って、俺の身体を押し返した。
ファーストキスの拒絶なんてショックじゃない訳無いけど、俺の事はいい。あいつのあんな顔はもう見たくない。
だから、一体何が「無理」だったのか。まだ気持ちの準備ができていないって事なのか。それか付き合ってみたら、俺とそういう事をするのはやっぱり無理だと思ったのか…いやひょっとすると、そもそも俺そのものが「無理」なのか。

タイミングをみて聞こうと思っていたのに、その時を待つ前に、あの事件が起きたんだ。



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