- ナノ -

「ただいまあ」


 そう言って太一は、エプロン姿の私をぎゅっと抱きしめた。


 彼が大学を卒業し程なくして、約束通り一緒に暮らし始めた私達。
 デジモンと人間が共に生きる未来を目指して、アグモンとの再会を願って、太一が選んだのは外交官という進路だった。
決めてからの勢いといったら、それは凄かった。
卒論のテーマすら決めあぐねていただなんて信じられないペースで、あれよあれよと言う間に採用試験の合格を成し遂げた。
やっぱり、こうと決めた太一は強い。

 1年目は外務本省での勤務らしい。彼のスーツにそっと顔を埋めると、真新しい香りがした。


「おかえりなさい。つかれた?」
「ああ、もうへとへと。一日中研修で座ってんだぜ。これじゃ大学と変わんねぇよ」
「でも太一、なんだか楽しそう」
「そりゃそうさ!まだ始まったばかりだけど、未来へ確実に道が繋がっているんだ。俺が、やらなくちゃな……きっと、やってみせるさ」

私を抱きしめたまま強くそう言った太一の声が、耳元で凛と響く。私は嬉しくなって、腕の中で小さく笑った。

「それに、」
太一が少し身体を離し、片手で私の頬を包む。
「家に帰ったら、こーんな可愛いエプロン姿のなまえがいるんだぜ。昼間のどんな大変な事も吹き飛ぶって」
そう言って、いたずらっぽく笑う。
照れて目線を逸らした私の頬を、太一はまるで猫にでもするように優しく撫でた。

「なんだかこうしてると、まるで結婚……っ」

ーーー彼は何か言いかけると、指先をピタリと止めた。あー、えっと、としどろもどろに視線を泳がせ、キッチンを捉えた。そこには、調理器具が散乱している。

「いー匂い。今日の晩メシ何?」
「……ハンバーグと、ポテトサラダと、スープ。あと、もしできたらデザートも」
「うひゃー、ウマそう!……けど、そんなに作るの大変じゃなかったか?オマエだって仕事だっただろ」
「今日は早帰りだったから……料理、練習したかったから……太一の方が上手だし」

もうすこし可愛く言えればいいのに、つい言い訳のような物言いになってしまう。私はどうしていつもこうなんだ。
 太一と暮らせて、毎日が夢みたいで。私は当初の予想通り、死にそうなほど幸せである。この気持ちをもっと素直に表現できたらいいのに。
 軽く落ち込みながら、チラと太一を見上げる。すると、嬉しそうに目を細めた彼から、嵐のように矢継ぎ早にキスが降り注いだ。

「なっ……ちょ、太一、何っ……」
「なまえって、ほんっとーに可愛いのなあ」
ちゅ、と最後におでこにキスを落として、締まりのない顔で太一は言った。
「……かわいくないでしょ」
「可愛いよ」
「かわいくない。自分で嫌になる」
「なんで?だって料理の練習って、俺の為だろ?それでこんなに作ってるなんて、かわいいじゃんか」
「べつに。下手でみっともないからしてるだけ、」

そこまで言って、自分で口をつぐむ。
せっかく一緒にいられて幸せなのだから、もっと素直な言葉で過ごしたい。

「……ごめん、嘘。太一に喜んでほしくて…すこしでもおいしいもの、食べてほしくて。あとは、いいトコ見せたいっていうか……もっと、好きになってほしいから」

そう言い直すと、太一は頬を引き攣らせた自分の顔を隠すように片手で覆って「そういう所が可愛いんだよ」とため息まじりに言った。
伺うように上目遣いで見ると、これ以上スキになったら困る、なんて、耳まで赤くして言うものだから、私はほっと胸をなでおろす。すこし、くすぐったいような気持ちにもなる。




 その後、部屋着に着替えた太一と食卓を囲んだが、ポテトサラダのじゃがいもがすこし硬かったし、スープも味が薄かった。ハンバーグと、デザートに作った簡単なムースは、まあまあ。料理って、むずかしいな。口を尖らせながらデザートカップにスプーンを運ぶ私に、太一は「ぜーんぶうまかったな」とビールの入ったグラスをテーブルに戻しながら、おひさまみたいに笑った。


「……なぁ、なまえ。今度の休みさ、デジタルワールドに行かないか?」
「え……うん、いいけど。何か用事?」
「あ、ああ」
「もしかして急ぎの事?それなら光子郎に相談して、私のシフト代えてもらおうか?」
「いや!いいんだ、休みの日で!大事な事だけど……すごく大事だけど、急ぎじゃないから」
「ふーん……?他の人も誘っているの?あっ、そうだ。さっきタケルからメールが来てたよ。今度うちに遊びに来たいって」

とはいえ、まだ引越して間もないのこの部屋はダンボールもすこし残っている。そうでなくても、元々そんなに広い間取りではない。客人を招くようなスペースがあまりあるとは思えない。
 お互い社会人とはいえ、太一は大学を卒業したばかり、私も転職して光子郎の会社のお手伝いをさせてもらってまだ半年程。しっかりした住居を構えるのは、もう少し暮らしが落ち着いてからにしようと決め、ここはまだ仮住まい。それだって私にとってはかけがえのない二人だけの空間だ。


「いや。今回は、なまえと二人で行きたい」
 まぁでも、タケルなら狭くてもいいかな。そんなふうに考えながら、ムースの最後を一口をスプーンでのんびり口に運ぶと、そんな私とは対照的に太一はやけに真剣な眼差しでいる。

「……デジタルワールドの、どのあたりに行くの?」
不思議に思って聞くと、太一は目線を合わせず答えた。
「ヒミツ」

もう私たちに、パートナーデジモンはいない。光子郎の会社に毎日出社しているけど、アグモン達との再会の兆しの気配は社内にもまだ無い。まさかそれをサプライズにしているのも考え難い。
 それじゃあピクニックにでも行くつもりだろうか。それか、太一の仕事に関わる事?でもそれなら、内緒にするかな。
 聞く代わりに、テーブルの対面にいる太一を眉を顰めて見つめる。もう空になりかけているビールグラスを、いつまでもぐびぐびと傾けている。明らかに怪しい。

「……いいこと?」
「……どうかな。だと、嬉しいけど」

グラスをようやくテーブルに置く。ことん、という小さな音がやけに響いて、どうしてだか心が騒ぐ。
軽く誘ったくせして、太一はためらいながら聞いた。

「……一緒に、来てくれるか?」
「勿論。太一とならどこへでも」



ーーーその週末。デジタルワールドで私を待っていたのは、新たな敵でも、パートナーデジモンでもなく、太一が選んだ婚約指輪だという事をこの時の私はまだ知らない。プロポーズに、今言ったのと同じ言葉で応えるということも。

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