その日曜日は午後から自宅に棋士が集まっての勉強会がある予定だった。休日だけれど、父さんの門下を中心に、普段は来れない棋士も参加する事になっている。
玄関の引き戸が遠慮がちに開く音がして、母さんが出迎える声がした。
開始時間からはまだ随分早い。誰だろう?ボクも自分の部屋を出て迎えようとすると丁度、アキラさん、と廊下の向こうから母の声がする。
歩く足をすこし早めて玄関へ向かうと、そこにいたのは・・・
「なまえちゃん!」
びっくりして、咄嗟にそう呼ぶ。しまったな、数日前に学校で会った時は「みょうじ先輩」と呼んだ。迷って決めて、そう呼んだはずなのに。
「なまえちゃんね、アキラさんに渡したい物があってわざわざ来てくださったんですって。あがっていただいたら?まだ勉強会までは、時間があるのでしょう?」
母さんが機嫌良く言った。母もまた彼女の事が好きなのだ。赤ん坊の頃から知っているから、娘のように思っているのかな。
ボクは断る理由も見つけられず、曖昧に頷くしかなかった。
廊下を歩きながら、困ったことになったな、とこっそりため息をつく。でも、ボクは自分の決めた事を曲げるつもりはなかった。たとえこれから、好きな女の子と部屋でふたりきりになったとしても。
「アキラくんのお部屋、久しぶりに来た気がする」
部屋へ入ると、なまえちゃんは弾んだ声で言った。母さんが、後でお茶を持ってくるわね、とにこやかにその場を後にする。
ーーー困った事になった。
どうぞ、となまえちゃんを座布団に座るよう促して、ローテーブルをはさんで斜め向かいにボクも腰を下ろす。
みょうじなまえちゃん。
ボクの幼馴染で、ボクの、好きなひと。
今、隣にいるだけで胸が詰まる。今、この心音の速さが嫌という程に知らしめてくる。認めざるを得ない、これが、好きという証拠だ。
プロ試験を受けたのは、色々な葛藤もあって、寄り道もあって、その末に試験を受ける事にした。彼女の事はもうずっと好きで、物心つく頃からじゃないかと思うけど、今はこの気持ちには蓋をしようとボクは決め込んだ。プロがどんなに厳しい世界か、父の傍らで見てすこしは知っているつもりだ。がむしゃらに打ち込んだって、どこまで行けるかは誰にも分からない。
囲碁も彼女も、どちらも大切なら、どちらかだけ半端になるだなんてあってはならない。二兎を追えば、どちらもダメになってしまう可能性だってある。
なまえちゃんとはずっと一緒だったから、きっとこれからもそうだろう。いま無理に焦る事じゃない。ボクが人として、棋士として、成長してから彼女との事を考えたって遅くは無いはず。ーーーそう、決めたはずだった。まずは形からと、呼び名まで変えて。
だというのにこの人ときたら、どうして家になんて来てしまうのだろう。
ふたつ年上のキミは、あと半年もすれば海王中を卒業する。学校生活でさえ避けて過ごせば、この感情に蓋を出来ると思っていたのに。
「・・・アキラくん?どうしたの、なんだか難しそうな顔してるよ?」
「え・・・いや、何でも無いよ。これから客間で勉強会があるから、すこし緊張しているのかも」
「そうだったの!?ごめんね、私ってばそんな時にお邪魔しちゃったのね。・・・でも、アキラくん、そんな顔してるのは、本当にそれだけ?悩みとかがあるわけじゃないの?」
そう言うと、なまえちゃんの片手が、僕の頬に触れた。