「それじゃオレ、そろそろ行くね。朝飯、作ってくれてサンキュ」
鍵はいつものトコ入れといて。玄関で靴を履きながら名残惜しそうにこちらを振り返って、ヒカルくんは言った。私の顔を見ると、もう一度、ぎゅっと抱きしめた。
彼の名前は、進藤ヒカルーーー囲碁ファンならば今や知らない人はいないであろう、プロ棋士のひとりだ。
そして、私の恋人。
地方対局のためしばらく会えなくなるからという事もあり、昨夜は一人暮らしのヒカルくんの家にお泊まりした。
抱きしめてくれるスーツの襟元からヒカルくんのあたたかな香りがして、胸がドキドキと高鳴る。
私も抱きしめ返そうと背中に腕を回したけど、スーツがシワになってしまうかもとハッとして、彼の胸をやんわりと押し返した。
「ヒカルくん……シワになっちゃうよ」
「あー、でもスーツって荷物にして持ち歩くのもめんどくさくてさ。最近はこーやって家から着ちゃって新幹線に乗ってるんだ」
「……いや、そうじゃなくて……、こんなに私にくっついてたら」
そう言えば、ヒカルくんは呆れたように眉を下げた。
「なんだよそれぇ。なまえって随分ドライな事言うんだ?しばらく会えなくなるってのに、寂しくないのかよ」
……うーん?
めずらしいかも、ヒカルくんが仕事の前にこんな様子になるのは。
普段はむしろ私の方が甘えてるっていうか、ヒカルくんが甘えさせてくれる事の方が多い。それに出張前は、いつもなら移動日前からもう仕事のスイッチが入っているのに。(だから、しばらく会えないからとお泊まりに来たって、結局は碁盤とにらめっこで私なんてお構い無しの時だって多い。一体、碁打ちって皆こうなのかしら)
「……ヒカルくん、なにかあったの?」
「なにかって?」
「分かんないから聞いてるんだよ。なんていうか……珍しいから、こんなに甘えてくれるの」
「ばっ……ハァ!?甘えるって……そ、そんなんじゃねーよっ」
どうやら自覚が無かったようで、ヒカルくんは耳まで真っ赤にしてプイと玄関に向き直った。「バカな事言ってるならもう行くからな」と、扉に手を掛ける。……先に引き留めたの、私じゃないんだけどな。
「う、うん。行ってらっしゃい。がんばって、ーーー」
「どうしてか分かんないのは、オレ自身もそうだよ」
「ーーーえ?」
がんばってね、と言いかけた言葉に重ねて、ヒカルくんはこちらに背中を向けたまま言葉を紡ぐ。
「オマエのこと。こんなに好きになると思わなかった」
ひとりごとのように言った言葉が、胸に刺さって苦しくなる。思わず駆け寄って、背中から強く抱きしめた。
「なっ……おい、なまえ!びっくりしたぁ。……ったく、スーツがシワになるんじゃなかったのかよ」
「だって、ヒカルくんが可愛い事言うから」
「可愛いって……やめろよなー、子ども扱いするの!」
「ふふっ。ぎゅーっ」
照れてる様子が愛しくて、彼の背中を頬でそっと撫でる。
「ったく、甘えてんのはどっちだよ」
そう言って、やれやれといった様子でこちらを振り向いたヒカルくんは、光の角度によって何色にも輝く不思議な瞳を、やさしく細めた。そして、焦がれたような声で言った。
「……抱くのがだめでも、キスならいいよね?」