その日のバイトが終わって、予め約束していた喫茶店へ向かった。店に入ると、落ち着いた雰囲気の店内の奥にアキラくんの姿が見えた。
こんな時でも、会えて嬉しいと思ってしまう私はあまりに無神経だろうか。喧嘩している最中だというのに、否だからこそなのか、彼を見ると愛しくて胸が詰まる。
一方アキラくんは、私が片手を挙げて到着を知らせるも、切れ長の瞳でチラとこっちを見ただけ。いつもならば私を見つけただけで嬉しそうに笑いかけてくれるのに・・・。思わず足が止まる私に、店員さんが能天気な明るさで「おひとり様ですかぁ?」と尋ねた。
「いえ、待ち合わせで・・・」
遠慮がちに一番奥の席へ目線を送ると、店員さんは「どぉぞ」と通してくれた。
「アキラくん、ごめんね、待たせたかな」
「・・・いや」
アキラくんは、静かにそう言っただけだった。椅子に座ると古い木の床が、ギィ、と鳴った音が、シンとした店内に沈む。空気が痛い。
「あの、アキラくん・・・」
「ーーーご注文は何になさいますかぁ?」
口を開いたタイミングで、店員さんがオーダー用紙を持って現れた。出鼻をくじかれ拍子抜けしつつも、すこし救われたような心持ちになる。
正直、今こうしてアキラくんを前にして、気持ちがすくんでしまった自分がいたからだ。
目の前の彼は、怒っているのか、落ち込んでいるのか、はたまた悲しんでいるのか。不定の気持ちを残した静かな表情でホットコーヒーを飲んでいる。
彼の纏う雰囲気は、想像以上に重い。
私は今日、無論この前の事を謝ろうと思って来た。そして、私のあの日の言動にも理由があった訳なので、しっかり話し合ってお互いにとって納得の出来る”落とし所”を見つけようと思ってる。だけど、一体これは・・・どう切り出せば良いのだろうか。
「えっと、私も、同じコーヒーをください」
そう伝えると、店員さんは明るい声で注文を繰り返し、その場を後にした。
私はふいに、前に二人で喫茶店へ来た時、アキラくんが私の好きな物ばかり沢山注文してくれたのを思い出した。あの時あんなに優しくて楽しかったのが、今は嘘みたいだ。
「・・・アキラくん、この間はごめんね」
しかし依然として彼は何も言わない。めげずに言葉を続ける。
「迎えに来てくれたのに・・・それから、友だちに『幼馴染』って紹介してしまった事も」
そう言うも、彼はツンと澄ましてコーヒーを啜っているだけ。私は宙ぶらりんになった自分の言葉を、どう引き取ったものか困ってしまう。
何故なにも言ってくれないのだろう。今日ここへ呼んだのは、アキラくんの方じゃないの。
私は気持ちがシュンと萎んで、切なくなってくる。
「・・・アキラくんは、恋人なのに。堂々と紹介できなくてごめんなさい。でもそれは、私なりに理由があって・・・」
ーーーガチャン、と、アキラくんはらしからぬ乱雑さで、恐る恐る続けた私の言葉を遮るようにコーヒーカップをソーサーに置いた。まるで、聞きたくもないみたいに。
なによ、もう。
アキラくんのばか。
むずむずと、彼への小さな不満が疼きはじめる。そりゃ、私がした事は失礼な言動だったとは思う。それは大前提の上だけれど、そんなに怒る事だろうか。あれから何日も、メールも電話も音沙汰が無い程?その上、理由すら聞いてくれないの?
重苦しい沈黙が続く。私も意地になって口を紡ぐ。
店員さんが私の分のコーヒーを持って来てくれたけれど、さすがの彼女もこの空気を察したようでそそくさとその場を後にした。
冷戦状態の私達の間に運ばれてしまった季節のブレンドコーヒーは、気まずそうに湯気をヒラリヒラリ昇らせている。ほのかな甘い香りが広がる。
昇る湯気の向こう側にいる彼は、やけに遠く感じた。
「ーーーボクの恋人でいるのは、そんなに恥ずかしい事かい?」
沈黙を破ったのは、アキラくんだった。
しかもそれは、耳を疑うような発言だった。
私は俯いていた顔を上げ、低い声でゆっくりとそう言った彼を見る。その表情はとても苦く、私が思っていたよりずっと、深く傷つけてしまっていたのだとハッとする。
だけどそれは彼の誤解だ。慌てて口を開く。
「そんな訳無いじゃない!私はただ、アキラくんの事が心配で・・・有名人なんだし、恋人がどうとかって噂話でアキラくんの仕事の迷惑になりたくなくて・・・」
「迷惑とは?」
「えっ・・・と。だから、『塔矢アキラ』にカノジョがいるなんて、雑誌とかネットとかに書かれたらアキラくんだって嫌だろうし、碁の邪魔になるだろうし」
「そんな事でボクの碁が揺らぐとでも?」
「・・・そういう事を言っているんじゃないのよ」
「そういう事だろ、何が違う?それに、キミと交際しているのは事実だ。誰に知られようが、ボクは何とも思わない。つまり恥ずかしいと思っているのは、キミの方なんじゃないか?」
「だから、そんな訳無いってば」
今日のアキラくんはどこかおかしい。頑固なのは今に始まったことじゃないけれど、何故こんなにも気持ちを閉ざしてしまっているのだろう。
そして段々と、自分でも分からなくなる。世間の目をアキラくんがあまりに無頓着だからと私が必死に気を遣っていたけど、確かに本人が良いと言っているのなら、もうそれはただの私のエゴなんじゃないか。
「・・・じゃあキミは、ボクの為に人目を気にしているっていうのかい」
「だから、そう言ってるじゃない。でも、余計なお世話だったのなら、それも謝るよ」
「ーーー分かったよ。そういう事なら、もう」
ようやく、分かってくれたのだろうか。
ホッとしたのも束の間、アキラくんは最後に一言だけ残し、立ち上がった。
「キミとの恋人関係はもう終わりにしようと思う」
ーーー目の前が、グラリと暗くなる。
「それって・・・”幼馴染”に戻るっていう事?」
彼は首を横に振った。そして伝票をくしゃりと持って去った。
アキラくんは純一無雑だから。恋人でないならもう、幼馴染や友だちですらないというのだろうか。
テーブルの上に残された二つのカップ。私のコーヒーはひとくちも飲まれないまま、真っ黒い闇のような液体が並々と残っている。
湯気は、とうに消えた。
向こう側にいる彼の姿も消えてしまって、もう、戻りはしない。
(つづく)