通い慣れた海王中学校の廊下は秋の穏やかな陽だまりが揺れていた。全国有数の進学校といえど、私たちはまだ中学生で。休み時間ともなれば其処彼処から子ども特有のはしゃいだ声が響いた。
それは私とて例外ではなかった。中3の秋ともなればもう高校受験が目の前で、クラスの空気は決して円いものじゃないけれど、授業の合間くらいは友だちとの雑談に花を咲かせていた。
進学校。そして、高校受験。嫌でも将来について考えなくてはならない状況だ。だけれどまだ中学生の私たちに、どうして未来が決められるだろう。人生、八十年はある。私たちはまだ十年とすこししか生きていないのに。
「ーーーそろそろ教室戻ろうか、なまえ?次の授業の先生、早めに着席してないと五月蝿いし」
「うん。……あ、待って由梨」
クラスメイトの日高由梨と廊下でおしゃべりをしていた私は、彼女の言葉に頷いて、その場を後にしようとして….反対側の廊下に、幼馴染の姿を見つけた。
「アキラくん!」
そう声を掛けると、彼は数秒、間を開けてこちらを向いた。心なしか、反応するのを躊躇したようにも受け取れる。しかし彼は目が合うと、囲碁部時代の先輩だった由梨を私の隣に捉えて、美しい仕草で会釈した。
彼に駆け寄る。由梨も、少し戸惑いながら後に続く。
「アキラくん!久しぶりね。プロ試験が終わってから、学校はお休みが多かったみたいだものね」
「こんにちは。日高先輩と、ーーーみょうじ、先輩」
うん? “みょうじ先輩”?…アキラくん、変なの。今までずっと、”なまえちゃん”って呼んでいたのに。
私とアキラくんは、俗に言う幼馴染というものだ。私の母が華道の家元で。アキラくんのお母さんは私の母の所で、私達が生まれる前からお花を習っている。それからは家族ぐるみの付き合いになって、お互いに兄妹のいない私たちは、姉と弟のように過ごしてきた。
ーーーそれが何故、みょうじ”先輩” だなんて?
ここが学校内で、彼が一年生で私は三年生だからだろうか。由梨と一緒にいる手前、同じように呼んだだけかしら。私が華道部の部長で、廊下に他の華道部員が居るかもしれないからだろうか?
「えっと….プロ試験も勝ち続きで、スゴかったみたいね」
「ハイ、お陰様で。では、次の授業もあるので…ボクはこれで」
物静かな笑顔でペコリと会釈して、彼はそっとその場を後にした。
「なまえ、ホラっ私たちも教室戻るわよ。…って何よ、その顔?大好きな”アキラクン”に会えたのに、シュンとしちゃって」
「アキラくんが変なんだもの。なんだか、かしこまっちゃってさぁ」
由梨に肩を叩かれて、私もしぶしぶ教室へと向かう。唇を尖らせてそう言うも、彼女はさして気にならなかった様子だ。
「そう?塔矢なんて前からあんな感じじゃない?」
「そんな事無いよ、もっと懐っこいっていうか、私の事見つけたらこう・・・手なんか振って駆け寄って来てくれたもの」
「フーン?じゃあ、気恥ずかしいんじゃないの。もう中学生なんだし、それにーーー塔矢は”プロ”なんだしさ」
ーーープロ。そう、彼はプロの棋士になる。まだ将来が不確かな中学生達の中で、いち早く未来を決めた。
「由梨・・・アキラくんって囲碁部で仲良しのお友だちとか出来たのかなぁ」
「はあ?出来るわけ無いじゃない!アイツが部内でどんだけ煙たがられてーーー」
そこまで言いかけた彼女は私の顔を見て、ゴホン、と咳を払って言い直した。
「ーーーごめん。まぁ、囲碁部だった時はアレだけどさ、クラスでは馴染めてると良いわよね。…ただ、最近は学校にもあんまり来てないみたいだけど…」
私の顔を見ていられなくなったのか、由梨は視線を私たちの足元に落とした。
ーーー才能があるというのも難儀なものだ。囲碁部でもイジメのような事があったのは由梨から聞いている。
あんなに心の真っ直ぐな良い子なのに、非凡なあまり、年の近い友だちがいない。羨望が、嫉妬が、彼から人を遠ざける。
いっとき「進藤くん」という囲碁友達ができたかと思ったけど、最近めっきり聞かなくなってしまった。せめて私がもう少しまともに碁が打てれば良かったのだけれど。
教室に辿り着く。引き戸を開けると、教室内のクラスメイトは一様にテキストや参考書とにらめっこしている。
「”住む世界が違う”・・・」
私がポツリと呟く。たった一言だったけど、由梨は察したようで、息を吐いた。
「そ。これが私達の現実。そりゃ、いち早く社会人になっちゃった奴なんか浮くに決まってるって」
「でも、だからこそ、私まで一緒になって離れちゃダメだと思う。….今度の日曜日にでもアキラくん家行ってみるよ」
由梨が小さく笑った気がするけど、着席チャイムの音と重なった。